食後の散歩
翌朝、光一は最高に寝覚めが良かった。暖かな空気に、窓辺から差し込む陽光が身体に降りかかる。首筋には涼しい風が吹き付けている。おそらくは窓が半分ほど開けてあるのだろう。
徐々に覚醒してきた光一は、ゆっくりと目を開いた。鮮やかな色合いの天井が見える。よく見るとそこには鎧を着た人物らしきものが描かれていた。中世ヨーロッパ風の騎士をモチーフにした衣装である。どの地方のものだろう。
光一がとりとめのない物思いをしていると、横から若い女の声がした。
「起きたの。随分とゆっくりなのね」
光一がそちらを見ると、視界に一人の少女の姿が映った。昨晩、光一が遭遇した女の子だ。
二人の目が合う。光一がじっと見つめると、少女の方はついと視線を外した。
「やあ、おはよう。いい朝だね」
少し遅れ気味ではあったが、光一が挨拶を返すと、少女は再び彼の方を見た。
「あなたが海を渡ってきたという異国人ね。ルネから話は聞いているわ。長旅ご苦労様。身支度が整ったら広間に来て朝食にしましょう。私は先に向かっているから」
少女は一方的に言うと、立ち上がりさっさと扉の方へ向かおうとする。
「ちょっと待って」
呼び止めると、少女はぴたりと立ち止まって光一の方を振り返る。その動作には一片の乱れもなく、優雅と呼ぶにふさわしいふるまいだった。
「あら。私としたことがすっかり忘れていましたわ。私の名前はエリーゼ・マルグレーテ・ダロガンス。気安くエリーと呼んで下さいね」
今度こそしまいだと言わんばかりに、エリーゼは再び扉の方へ歩を進める。
「そうじゃなくって。君は昨日の夜、僕の部屋に入ってきた子だよね」
エリーゼが再度歩みを止める。しかし、今回は少しだけぎこちない止まり方であった。
彼女は一語一語をはっきりと発音して問う。
「あなたは、何を、覚えているの?」
「え、だから君が僕の部屋に入ってきて、それでなぜか君はほとんど裸同然で――」
光一がありのままを述べると、エリーゼの顔が真っ青になった。
「まあ、あなたはすべて覚えているのね。ジェレミー先生の忘却魔法が効かなかったようね。困ったわ」
彼女がぶつぶつと独り言を漏らすが、光一にははっきりとは聞こえてこなかった。
「いいわ。先生が再びいらっしゃるまでの間、我慢すればいいだけ。耐えるのよ、エリーゼ」
光一は何かを決意したような顔で天井の方を見つめるエリーゼに声をかけた。
「君、大丈夫?」
エリーゼは黙って光一の方を見る。
しばらくその状態のまま時間が過ぎた。光一は沈黙に耐え切れなくなって口を開く。
「昨日のことは僕が悪かったよ。でも、仕方のないことだったと思うんだ」
「だまりなさい。あなたの記憶はどうせあと数時間で失われるのだから。そうだわ、いいことを思いついた」
エリーゼが不敵な笑いを浮かべる。
「あなた、私に訊きたいことがあるのでしょう? いろいろと。今だけ、なんでも教えてあげるわ。質問なさい」
彼女はそう言うと両手を広げた。どこからでもかかってこい、のポーズ。
光一は訊きたいことがたくさんあり、何から質問しようかと思ったが、そのときドアがノックされてマリナが顔をのぞかせて「お嬢様、お食事の準備が整いました」と言ったので、続きは広間に移動して朝食をとりながら、ということになった。
「昨日の夜、この屋敷に着いた直後に僕は執事のルネさんに襲われたんだ。命令したのは君だったらしいけれど、なんでそんなことをしたのかな」
光一はナイフでベーコンエッグを切り分けながら訊く。
「決まっているわ。あなたを試すためじゃないの。東国の島国からやってくるお客さんには興味があったし。それは何も私だけじゃなくて、この国にいるすべての人々が思っていることだと思うわ」
彼女は当然のことを言っているのだといわんばかりに、光一を馬鹿にしたような表情を浮かべる。
二人は大広間でテーブルについていた。食卓は長さ10メートルはありそうな代物で、上座に屋敷の主人であるエリーゼが、そしてその向かい側に光一が座っていた。テーブルの上には銀製の高級な食器にパンとベーコンエッグ、サラダが盛り付けられ、細かい装飾が施されたカップには淹れたてのコーヒーが注がれた。
「だからといって、いきなり襲わせるなんてひどいじゃないか。下手したら死んでいたよ」
「あなたがそんな軟弱な人だったなら、その場でこの国から御退去願うところだったわ」
彼女はパンにバターを塗りながら冷めた視線で光一を射抜く。外見年齢の割に、大人びた一面のある少女であった。
光一の真正面に座る少女はさきほどエリーゼ・マルグレーテ・ダロガンスと名乗った。光一はコーヒーをすすりながらさりげなく彼女を観察する。
透き通ったプラチナブロンドの髪に、人形のようにパーツのよく整った顔立ち。薄桃色の唇や、スッと通った鼻筋、そして大きなブルーの瞳は、常に何か考え事をしているかのような思慮深さを感じさせた。陶器のような真っ白な肌は遠目に見ても輝かんばかりであった。光一は、これまでこんなに綺麗な女の子は数えるほどしか見たことがなかった。
「何かしら?」
光一の視線に気づいたエリーゼが彼と目を合わせる。光一は「いいや、何も」と言って目線を下げた。
ダロガンス家はこの国における旧家であり光一のホストファミリーであった。ダロガンス家に伝わる魔法系統は炎である。数ある魔法系統の中でも、より純粋でもっとも古いものの一つに分類される炎の魔法は、ダロガンス家の代名詞ともいえるものだという。家柄の古さ、扱う魔法の純粋さはこの国においては権力とほぼ同義である。表向きはこの国と他国との友好のために派遣された交換留学生ということになっている光一は、この国の有力な貴族であるダロガンス家に身を預けることが留学を認められる条件のひとつとなっていた。
この国において光一が果たすべき役割は大きく分けて二つある。一つ目は、生徒の身分を活かして多くの人々と交流を持ち、魔法世界と非魔法世界の融和を図ること、少なくともその礎を築くことである。二つ目は、魔法世界の技術や社会の成り立ちを調査し、本国に報告することである。世界のほとんどの国で魔法が失われ、魔法を扱うのがこの国のみとなったときより魔法世界の社会制度は著しい変化を遂げ、現在は以前とは全く異なった体制になっていると光一は聞いていた。その国の制度を学び、理解を深め、そして非魔法世界の脅威となるか否かを見極める。これが光一に与えられた命令のなかで、もっとも優先順位の高いものであった。
光一が一通り食べ終わったのを見計らって、テーブルのわきに控えていたマリナが皿を下げに来た。彼女は昨日のビジネススタイルから一変してハウスメイドの姿をしていた。長い髪を後ろで括り、ヘッドドレスをつけているあたり、随分と本格的である。ビジネスウーマンとメイド、いったいどちらが彼女の本職なのだろうか。
光一は食器を片づけている彼女に声をかけた。
「昨日はどうも。ルネさんはどうしていますか?」
「ルネは体調が優れないという理由で、今は部屋で休んでおります。午後には出てこられるということです」
マリナはあまり抑揚ない話し方で答えた。
「ですが、東様。ご安心くださいませ。屋敷の家事を行う使用人は私の他にもいくらかおりますので、お嬢様やあなたにご不便をおかけすることはございません」
マリナは食器を下げるため台所に行ってしまった。光一はもう少し訊きたいことがあったのだが、別の機会でも良いか、と考え直してコーヒーに再び口をつけた。
「光一、今日のお昼過ぎにこの辺りを歩きましょうか。私自らが案内してあげるわ。お話の続きもその時にしましょう」
こうして光一がエリーゼと一緒にとった初めての朝食は、中途半端な幕切れを迎えたのだった。
正午過ぎ。光一は与えられた部屋で外出の支度をしていた。彼はエリーゼに言われて、昼食後に屋敷に到着したジェレミー医師による健康診断なるものを受けさせられたのだが、結果は異状なしだった。彼がいたって健康体であることがわかると、エリーゼはしきりに喜び、その喜び方が不自然であると光一が考えていたところ、彼女は外出の準備をしてくると言い残して自分の部屋に戻った。
光一は黒のチェックシャツとベージュのジーンズというシンプルな服装をチョイスして部屋を出た。学生なのだから、このくらいの適当な服装でかまわないだろうと思ったのだ。
光一がドアを開けるのと同時に、隣の部屋の扉も開き、エリーゼが出てきた。
目が合った。
「あっ」
驚いた顔をしたエリーゼは先ほどとは違った服装をしていた。薄い色合いのシャーリングブラウスに丈を長めにしたブラウンのマーメイド・スカートを合わせ、かかとの部分がフラットなパンプスを履いていた。お嬢様チックなファッションに、一瞬だけ光一は目を奪われた。
それにしても、時間の指定もなかったのに二人して同時に部屋から出てくるとは。光一は自然と笑みがこぼれるのを感じた。エリーゼの方も少しはにかんで、「では、でかけましょうか」と言った。
昨日の大火事にもかかわらず、屋敷の庭には焼け焦げた葉っぱの一枚も見当たらなかった。青々とした芝生や植え込みなどがまるで最初からそうであったかのように生い茂っている。光一は不可解な思いを抱えたまま正門のところまできた。
エリーゼがひらりと手を振ると、閉まっていた門がひとりでに開く。昨晩この場所に着いた時にも目撃したが、この門は魔法によって動くらしい。外側に出た後、再び門が閉じるのを確認してから二人は歩き始めた。
「このあたりはオリーブの木がたくさん生えているの。それに、ケルメスオークなんかもよく目にするわ」
エリーゼは歩きながらこの付近の動植物や歴史について話した。地元について語るときの彼女の目はきらきらと輝いていて、子供のような無邪気さを感じさせた。
ひとしきり話し終えた後、彼女は少し間を取ってから口を開いた。
「改めて自己紹介するわね。私はダロガンス家の長女、エリーゼ・マルグレーテ・ダロガンスよ。昨夜は驚いたでしょう。初めて目にした魔法はどうだったかしら? あなたのいた国ではもう魔法を目にすることはできないって聞いたわ」
彼女は朝食のときとは打って変わって、優しげな口調で話す。服装と一緒に中身も変わってしまったのかと、光一は少し戸惑った。
「ええと。うん、昨日は驚かされたよ。なにせ突然のことだったからね。ルネさんがいきなり炎を出して僕を試すとか言って。あれは君が命令したって聞いたけれど、本当なの?」
「ええ、そうよ。このダロガンス家に住み込むというのだから、当然、それなりの人物であることが確認したかったの。あの程度の試練も突破できないようでは、私だけじゃなくてこの国のみんなも失望したでしょうね。あなたは国交もない異国からの使者なんだから、注目されるのも自然なことではなくて?」
それに、と彼女は続ける。
「あなたは戦技準一級の資格を持っていると聞いているわ。もちろん私たち魔法使いには敵わないでしょうけれど、自分の身の安全を確保することぐらいはできて当たり前よ」
戦技とはここ数十年続く検定ブームの中で生まれた資格の一つではあるが、れっきとした国家資格である。今から50年ほど前、まだ世界中に魔法の光が溢れていた時代にあえて魔法を使わずに格闘を行う能力を量るために導入された。魔法が日常生活の中に導入されていた時代にこの資格が人気を得ることはなかったものの、国連軍に正式採用されて以来、一定の評価や知名度を得るに至った。
光一はいきなりの襲撃についてまだ納得できないでいたが、自分が相手に値踏みされていることを再認識して、これ以上の文句をいうのはやめにすることにした。
「じゃあ、僕は君の課した試練を切り抜けたということでいいのかな」
「そうなるわね。あくまでいまのところは、だけど」
彼女はそう言ってにっこり微笑んだ。光一は、自分はこれからどんな無理難題を押し付けられるのだろうかと想像して、憂鬱な気分になった。
森の中をしばらく進むと、見晴しの良い場所に出た。少し先は急な斜面になっており、崖のようだった。
光一の前を歩いていたエリーゼが振り返る。
「ここから学院が見えるでしょう。あれが来週から私たちの通うことになる国立聖マギー学院よ」
二人のいる高台から数キロほど先に、大きな城のような建物群がある。城壁に湖、それにいくつもの尖塔が高く天に向かって伸びている。
「今は休暇中だから家に帰っているけれど、来週からはあの学院に住み込むことになるわ。もっとも」
彼女はちょっと笑って「帰りたいときにはいつでも屋敷に帰ることができるわ。だってお屋敷からこの森の境あたりまではずっとダロガンス家の領地なのですから」と言った。
「さて帰りましょうか、光一」
二人して森の方に歩き出そうとした瞬間、顔のすぐそばを何かが高速で飛び去っていった。
「何者ですか!」
エリーゼと光一はすぐさま臨戦態勢をとる。
森の入り口あたりに黒い布を体に巻きつけた人物が立っていた。布は全身を覆っており、顔は見えない。そして手にはクロスボウらしきものが握られていた。
「光一、あなたは下がっていなさい。私がやるわ」
エリーゼは右手を上げると、言った。
「後ろに下がるなんて、そんなことできるわけないだろ」
光一は一歩前に出る。エリーゼが意外そうな顔で見る。
「だって俺たちの真後ろ、崖なんだから」