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異国の洗礼

 晴れ渡る空に、たなびく羊雲。涼やかな木陰でひと休みしていた東光一の首筋に気持ちのいい微風が吹きつける。湿気がなくてカラッとした空気は本国との気候の差異を感じさせる。


「こんにちは、東さん。もう到着されていたのですね」


 声の方を向くと、黒いスーツに身を包んだ麗人がひざを折った姿勢でこちらを見つめていた。


「ああ、どうも。船が定刻どおりに着いたものですから。出港後に船内で到着が遅れるとのアナウンスがあったように記憶しているのですが、早く到着する分には都合が良いですね」


 木に背中を預けながらうたた寝をしそうになっていた光一は、立ち上がって居住まいを正した。

 それに合わせるように、スーツの女性もゆっくりと立ち上がった。


「はい。こちらにもそのように連絡が入っておりました。数刻前にあなたの乗った船がイニースに入港したとの報せを受けて、急いで参上した次第です。お迎えに上がるのが遅れてしまい面目ありません」


 深く頭を下げる目の前の女性に、光一はなだめるように声をかけた。

「どうか気にしないでください。天気も良いので、ちょうど昼寝をしようと思っていたところですよ」


 にこやかに笑顔を浮かべた光一を見て、彼女も少しだけ表情をやわらげた。少しして、彼女は自分の名前がマリナ・ジュベールであることや、ある屋敷に仕えていることを明かした。

 マリナは身の丈が六尺ほどもあり、男と並んでもなんら遜色ない。光一は男性としては小柄な体躯をしているため、彼女と目を合わせると、自然に少し上向きにならざるを得なかった。


「屋敷には私の車で向かいます。ここから数時間はかかるので、お疲れのようでしたら、後部座席でお休みになられてもかまいません」


 光一は彼女の心遣いに感謝しつつも、車の中で眠り込むわけにはいかないことがわかっていた。ここはもう本国ではない。自分の家に対して持つような安心感は、余所では捨てなければならない。そうすることが自分の身を守る上での最低限の常識であることを彼は心得ていた。


「休息をとるのはお屋敷についてからにします。せっかくですから今は車窓からの眺めを楽しみますよ」


 マリナは無言でうなずいた。その瞳には何の表情も浮かんではいなかったが、その無表情が長年にわたる訓練によって作り出されたものであることは察することができた。

 おそらく、自分に課された試験はもう始まっているのだ。改めて気を引き締めねばと思い、光一は十数メートル先に止めてあるセダンに向かって足を踏み出した。


 マリナが運転席に座る。彼女がこの車を運転するようだった。光一が車に乗るとドアが閉められ、二人が乗った車は静かに動き出した。

 


 目的地に着いた時にはすでに日は落ちて辺りは暗くなっていた。車の中から外側を見ると、たくさんの木々と、聳え立つ何かが暗い影を落としていた。明かりがないのではっきりとしたことは分からなかったが、どうやら光一たちが乗ってきた車は巨大な門の前に停まっているようだった。


 マリナは車から降りて、門番と思しき人物と何やら言葉を交わしている。光一は外に出て少し身体を伸ばそうと思って車のドアに手をかけたが、ロックがかかっていた。不思議なことに開錠するためのレバーもボタンも見当たらない。おまけに窓を開けることもできないようになっていた。後部座席のドアの内側には、なにも取り付けられていなかった。

 光一がおかしな構造のドアと格闘しているうちにマリナが戻ってきた。


「まあ東さん。何をしているのですか。この車の扉は、運転席も後部座席も内側からは開かないようになっているのですよ」


「では、あなたはいったいどうやって運転席から外に出たんですか?」


 車がこの場所に停車したときのことを思い出す。光一が見ていた限りでは、彼女が車から降りるときの動作には別段変わったところはなかった。彼女は車のエンジンを切るとキーを抜き取り、自然な流れでドアが開き――開いた?


 光一は奇妙な感覚に声も出なかった。光一は記憶力には自信を持っていたが、彼女が車から出たとき、確かにドアに手をかけてはいなかった。つまり、ドアがひとりでに開いたということになる。停車してエンジンを切っただけでドアが開く、などという仕組みが自動車に備わっていたとしたら、それは安全上かなり問題がある。


 それまでに経験したことのない事態に出くわすと混乱してしまうのが普通であり、これは光一を困惑させるには十分すぎる事件であるが、彼にはこのイリュージョンを説明するひとつの心当たりがあった。 

 光一は顎に手を当てて唸った。


「すると、これはもしや……」


「はい、これは魔法のなせる業です。私は魔法を使用してこのドアを開けました」


 マリナのフライング気味の返答を聞いてもまだ光一は驚きを隠せなかった。

 自分の目の前で、魔法が行使された。おそらく数十年ほどまえには珍しくもなんともなかった光景が、彼にまるで手品を見せられたときのような新鮮な驚きと興奮をもたらした。


 小さな子供のような純粋な喜びのさなか、マリナがほんの少しだけ失望したような表情を浮かべたのを光一は見逃してしまった。

 


 その後、再び車に乗った光一たちは、門をくぐり、茂みの中をしばらく進んだ。やがて車は大きな門の前に停まった。古びた門の内側に見える庭は不気味なほどに広く、車が通れるほどの道幅をもった砂利道が数十メートル続いていた。


「到着いたしました。東様、お目覚め下さい」


 マリナの丁寧な声が耳から心地よく入り込んできた。光一はゆっくりと目を開く。

 運転席から振り返って自分の方を見ているマリナと目が合った。眼鏡の奥から覗く碧い瞳がきらりと光った。


「ここから館までは徒歩で向かって頂きます。荷物をお持ちしますので、車からお降り下さい」


 彼女が言い終わると、後部座席のドアがひとりでに開いた。便利なものだと思いながら、光一は車外へ出た。なんだか暖かい。


 この国では昼間は暖かく夜もそんなに気温は下がらないため、とても過ごしやすい。夏場も本国のような湿気がないので快適である。


 マリナが閉ざされた門に手をかざして何事かつぶやくと、巻きつけてあった鎖が自然に動き出し、僅かな鈍い音をたてて門から外れた。すると、それを合図にしたように庭内のランタンに明かりが灯り、光一たちが立っている門のあたりから屋敷の玄関に至るまでの砂利道が火で照らし出された。


 二人がその道を通って玄関までやってくると、待ち構えていたかのように扉が開く。今度は自動で開いたわけではなく、内側から人の手で開けられたようだった。

 光一たちの目の前には、この家の使用人と思しき男性が立っていた。彼はマリナと同じようにブラックのスーツを着込み、巨木のような長身にしっかりとした体型をしていた。肌の感じからもう若くはないことが窺えたが、白髪をオールバックにまとめ上げ背筋をしっかりと正した姿は、少しも老いを感じさせないものであった。

 男は口を開いた。


「そちらは東様とお見受けします。遠路遥々、ようこそおいで下さいました。私は公爵ジャンリュック・ダロガンス様にお仕えする執事長のルネ・ブリュネと申します」


 彼は慇懃に頭を下げて、なぜか申し訳なさそうな様子で話を続けた。


「遠方からの御客人、本来ならばすぐにでもお部屋へご案内したいところですが、その前に失礼を承知でお願いしなければならないことがございます」


 光一が戸惑っていると、マリナが「では、私はここで」と言って先に屋敷の中に入っていった。

 玄関の扉が閉ざされ、屋敷の前には光一とルネの二人だけが残された。

 光一はルネに訊いてみた。


「お願いとはどういったものですか?」


「私とお手合わせいただきたい」


「なんですって?」


 驚いて問い返した光一の声は、おそらくはルネの耳には届かなかったに違いない。それは彼が還暦も間近な高齢者であるからではなく、光一とルネ、二人の周りに現れた巨大な炎の渦がうなりをあげたからである。


 光一は突然の事態に一瞬だけ固まり、思考停止に陥った。キャンプファイヤーのような炎があたり一面を踊り狂っている。いや、これはもうキャンプファイヤーではなく、山火事と言った方が近いのではないか。ニュースでよく見る山火事の映像。消防隊がホースで水を放出してなんとか火の手の拡大を抑えようとしているが、強大な自然の力は人の思いを容易く飲み込む。


 そこで光一ははっと我に返った。そう、ここは自分の故国ではない。まったく別の力が支配する、未知の国なのだ。それに、さきほど車の中で見たではないか。この国にはまだ魔法が存在しているのだ。


 光一はルネを見る。彼の顔からは感情は読み取れなかった。職業的な無表情。この男は、ただ忠実に、職務を遂行しているにすぎないのだ。


 光一は炎の切れ目を見つけてバックステップ数歩で距離を取った。言いたいことや訊きたいことはたくさんあったが、今は自分が生き残ることが最優先だと思った。


 炎は完全にルネの統制下にあるようで、最初に火の手が上がった場所――つまり、光一とルネを中心とした半径が5,6メートルの円形より外側には広がらなかった。今や光一は、逃げ場のないリングに囚われたも同然だった。

 ルネがゆっくりと手を上げると、炎はまるで意思を持ったかのようにぴたりと動きを止めた。数秒後、炎は細長い縄のように凝縮して、光一の方へ襲い掛かってきた。


「うわっ」


 男としては少々情けない声を上げて尻餅をついた光一の頭上を灼熱の鞭が通り過ぎた。光一はあわてて起き上がり、四方八方から振るわれる炎の鞭から逃げ回る。


 どうすれば助かるのか、光一が結論を出すまでにそう時間はかからなかった。

 ルネの操る炎は動きが遅い。光一の立っている場所を正確に狙っていても、寄せては返す波のようにゆったりとした動きは目で追える程度だ。こちらが歩みを止めて鞭に捕捉されてしまったらおしまいだが、走り回っている間は安全だ。ルネが玄関前から動こうとする気配はない。ならば、ここは炎を操っている本体を叩くべきだろう。


 直線的な動きをしてしまえば相手から容易に先を読まれてしまう。目の前の老執事にどれほど武術の心得があるのか不明な状況では、安易な行動は避けたほうがよい。


 しかし光一は別の可能性を危惧していた。ルネのもつ武器が炎の鞭だけであると、どうして言い切ることができるのであろうか。あの炎が例えば竜の姿になって襲ってこないとも限らない。なにせ、ここは異国である。魔法の光が未だ消えずに灯されている国である。


 ちらりとルネを見たところ、彼は先ほどの場所から一歩も動かずに相変わらずの無表情を貫いている。


 光一は決断した。

 速攻で片をつけるしかない。これが最善の道であると信じよう。


 光一は最も近くに迫っていた鞭を躱すと、走り出した。彼は短距離走には自身があった。超高温の一撃に焼かれることなくルネに届くのかはわからなかったが、ひたすら自分の足を信じることにした。


 あと5メートル。炎が光一の首の真横を通り過ぎる。あと3メートル。鋭い鞭が腕を掠める。あと1メートル――。微笑む老執事と目が合った。


「お見事です」


 その瞬間、光一は何か重いものが頭の上から覆いかぶさってくる感覚に襲われた。続いて、非常に大きな轟音。光一の視界が一瞬だけ奪われ、足元をすくわれる。


「がぼぼぼぼ……」


 大量の水だった。屋敷の2階から、マリナがプールを満たすほど多くの水を発生させ、屋敷の庭を消火したのだ。もちろん、彼女は魔法を使ったのだ。

 火はすべて消えたものの、光一は転んで地面に頭を打ったうえに水浸しになり散々な姿だった。


「お怪我はありませんか」


 ルネは微笑んだまま光一に手を差し伸べる。まるで我が子によくやったぞと言わんばかりの表情に、光一はひきつった笑いを浮かべて応えるのがやっとだった。

 


 その後、光一はルネに伴われて屋敷内に足を踏み入れた。


「先ほどの無礼、申し開きの言葉もございません。」


 しきりに謝辞を繰り返すルネを見ていると光一はなんだか自分が悪いことをしているような気分になった。


「かまいませんよ、とはまだ言えませんが。何か事情があったのでしょう?」


「はい。しかし、このことをお話することは、ダロガンス家の名誉に傷をつけることに他なりません。私の口からはどうにも申し上げがたく――」


「では、こういう考え方はどうでしょう。客をもてなすどころか逆に襲撃し、あげく事情もお話ししていただけない。そちらの方が、家名にとって都合が悪いのではないですか」


 光一の言葉にルネは考える素振りを見せた後、こう言った。


「その通りですな。承知いたしました。ではお話ししましょう。実はお嬢様のお言いつけなのです。あなた様がこの屋敷にご来館になると聞いて、お嬢様はこうおっしゃいました。『その男を屋敷内に通す前に、腕試しの機会を設けなさい』と。ですから私めは先ほどのような方法を取らざるを得なかったのです。ですが、どうかお嬢様を悪く思わないで頂きたいのです。あの方は本来は大変に誇り高いお方で、客人に礼節を欠かすことなど今までにあったためしがございません」


「腕試しというのは、あんな喧嘩みたいなものでなくとも、ほかの方法があったのではないですか」


「お嬢様が”腕試し”とおっしゃられた場合、あのような手合わせのことを意味するのです」


 ルネは困った顔で頭を振りながら言った。


「ただ今、マリナがシャワー室の準備をしております。その前に東様には部屋でお召し替えいただきます」


 二人はずぶ濡れのままで暗い建物の中を歩き、2階の端の部屋まで来た。


「こちらになります。まことに勝手なことながら、着替え等はこちらの方で準備させていただきました。シャワーの支度ができるまでの間、しばしお寛ぎください」


 部屋の扉が閉められ、静寂が訪れる。先ほどの大立ち回りの疲労が今になって出てきた光一は、部屋の隅においてある大きめのベッドに横になった。今日一日の出来事を思い返す。

 船旅、ドライブ、そしてアクションシーン。本当にいろいろなことがあったと思い、そして光一は不思議と疲れよりも新鮮な感動が胸の内にあることに気づいた。自分は今日、魔法を目撃したのだ。本国では数十年前に失われた力。いや、世界中のどこを探したって、魔法を見つけること自体がほぼ不可能だ。衰退した魔法文明の遺産を見られるのは、おそらくはこの国だけである。明日からこの地で過ごす一日一日が、きっとかけがえのない思い出になる。自分はそれを、受け止めなければならない。記録しなければならない。失われかけた魔法文明の残滓を観察することこそが、自分の役割なのだから。



 部屋の扉が再び開いて人が入ってくる。ルネが言い忘れたことでもあって戻ってきたのかと思い、光一はベッドから体を起こした。

 少女が立っていた。暗かったので不明瞭であったが、光一が見た限りでは長い髪をした綺麗な女の子だ。

 その少女はなぜか、下着姿であった。

 少女の半開きの目が徐々に大きく、まん丸に開かれていく。ついでに、口も。

 光一が「あっまずいな」と思うと同時に、少女の口から悲鳴がはじけた。


「いやあああ!」


 光一が後で知ったことだが、彼女はこの屋敷の女主人エリーゼ・ダロガンスであり、この日の晩はトイレに行った帰りに自分の部屋と間違えて光一の部屋に入ってしまったという。また、下着姿であったのは、彼女が寝るときに下着以外のものは身に着けないという主義をもっていたからである。 

 

 


 



 

 

 

 

 


 

 


 

  

 


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