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二月の狂詩曲

作者: 雨間みゆ

まだ日も昇っていない薄闇に包まれた世界に真っ白な雪が降り始めた。

 二月の冷たい空気が肺にチクリと痛くて、さっきまでの眠気がスゥっと引いていく。

 時刻は午前5時半とちょっと過ぎ。

 わたしはガランとした駅で学校に向かう快速電車を待っていた。

 

 カン、カン、カン……

 錆びついた歩道橋の古い階段を一定のリズムを刻みながら降りてくる足音が静かな構内に響いた。

 足音のぬしはわたしの先輩のものだ。

 生まれつき明るい色をしているという薄茶色の先輩の髪はさらさらと伏せ目がちの切れ長の瞳を隠す。

 まぶたにかかる前髪をうっとうしげに首をふって払う先輩の癖がわたしはすきだ。

 というか、先輩がすきだ。

 この時間にこの駅を利用するのはたいていわたしたちしかいない。

 『二人きり』という贅沢な時間を過ごせるのだから少々学校が遠いのも全く苦ではない。

 

 「おはようございます」

 わたしがあいさつしても3秒くらい先輩の声は返ってこない。

 小学校の校庭に立つ二宮金次郎のごとく歩きながらでも本を読んでしまうほどの重症読書病な先輩は活字の世界から現実世界に戻ってくるのに少し時間がかかる。

 

 目をこすりながら先輩の視界がやっとこさわたしの存在を捉えた。

 「ああ、おはよ」

 それだけ言って無口な先輩はまたべつの世界に旅立ってしまう。

 先輩が本を読んでる姿はすごくきれいだ。

 余計な力を抜いてしゃんと伸びた真っ直ぐな姿勢、左手で背表紙を支え、優雅な動きで右手が一ページを大切そうに開いてゆく。

 いつも首を少し傾けて真摯に活字を追う先輩に思わず目を奪われた日のことをわたしは今でも鮮明に思い出すことができる。

 

 あの日、先輩は泣いていた。

 わたしが隣にいることにも気がつかず、ただ透明な涙を流していたのだ。

 ただ、ただ静かに泣いていた。

 その手にあったのはいつもの文庫本ではなく一葉の葉書き。

 指が白くなるほど強く握りしめたその葉書きにはいったい何が書かれていたのだろう。

 それを知りたいと思うほどずうずうしくはなかったけれど、一人涙する先輩を放っておけなくてわたしは思い切って声をかけたのだ。いや、かけずにはいられなかったのだ。このままだとこの人が目の前からふと消えてしまうような気がして。


 「あの、よかったらこれ、使ってください」

 深海から意識だけを浮上させてきたような先輩が驚いたようにわたしが差し出したハンカチを見つめていた。

 「いいの? 」

 先輩はわたしの目をじーっと覗き込んで遠慮がちに尋ね、わたしが頷くのを待ってやっとハンカチを受け取った。

 「ありがと」

 先輩は呟くようにそう言うと、「ちょっと待って」と言って学生鞄をごそごそと探り始めた。

 重量感のある学生鞄だなと思っていたら先輩がその中から何かを取り出した。

 「はい、これ」

 先輩がわたしの手に乗せたのはきれいな飴玉だった。透明なフィルムに包まれたちょっと古風な見た目の飴玉は市販のものより一回りくらい大きくてキラキラと光るザラメがたくさんついていた。

 「お礼、このくらいしかできないけど」

 先輩は赤くなった目を伏せて言った。

 女子に泣いているところを見られた挙句、ハンカチを渡されてしまった先輩はどうしたもんかと焦っていたらしく、手にしたものがたまたまその飴玉だったから喜ばれるかどうかは別として何とかしてお礼をしなければならないという目標を達成した結果の行動だったというのは後から聞いた話だ。

 どういう理由があれ、先輩が変わった人であることは確かだ。

 

 もちろんその時のわたしにはそんなことはどうでもよくて、「ありがとうございます」と言ってぺこりと頭を下げた。

 わたしは何より先輩の涙がすでに乾いていることがうれしくて、手のひらに乗った甘いしあわせを大事に鞄にしまった。

 あの飴玉はもったいなさすぎてまだ食べられていない。

 さすがに保存状況が気になって冷蔵庫に入れたまま、いまでは冷蔵庫の女王と化している。


 「早瀬さん」

 「あ、はっはい!」

 先輩の方からわたしに声をかけてくれるなんてはじめてだ。

 柔らかい先輩の声が耳に届いた瞬間びっくりしすぎたわたしは持っていた文庫本を落としてしまった。

 「あ、ごめん」

 地面に叩きつけられた可哀想な文庫本とわたしの顔を交互に見て先輩は申し訳なさそうな表情になる。

 「大丈夫ですけど、本には悪いことしちゃいましたね。びっくりしました。先輩、わたしの名前ご存じだったんですね」

 「知ってたよ、早瀬葵さんだよね。一年の」

 「そうですけど、先輩三年生なのにどうしてわかったんですか? 」

 「図書委員会、入ってるでしょ。この間の廃本の払い出しのとき早瀬さんの友達がそう呼んでたから」

 「なるほどです」

 先輩とわたしは同じ高校の図書委員会に所属している。

 広い校内で顔を合わせることはほとんどないけれど、唯一委員会の招集があるときだけは別だ。

 地味な委員会だけど、仕事量は生徒会についで多いというなんとも損な役回りを押しつけられるのはたいていが休み時間に本を読んでいるような、つまりわたしや先輩みたいな人種だ。

 本が好きならいいよね。という安易な考えはいつのまにか労働が好きという考えにすり替わり、わたしたちに雑用係が回って来るという仕組みになっている。

 先輩がいなかったら引き受けたことを後悔していたに違いない。

 

 「俺ね、今日が最後なんだ。あの学校行くの」

 先輩がポツリと言った。

あまりに突然すぎることだった。

 「え、卒業……しないんですか? 」

 「うんん、卒業は少し早めてもらったから大丈夫。向こうの大学受けて受かったから留学するんだ。それでいろいろ事情があって」

 向こう、という言葉がつまりは外国であることに気がついたわたしは先輩の背中が急にとてつもなく遠く感じられた。

 「それは、おめでとうございます。す、すごいですね」

 先輩はわたしの祝辞にまったく反応しなかった。

 まるで、わたしがおめでとうなんて言いたくないと思っていることを知っているみたいに。

 「べつにすごくなんかないよ。行きたくないし」

 先輩は小さい子供が駄々をこねるときみたいに口をとがらせた。

 なんか、変な感じ。

 今まであいさつくらいしかしてこなかったのに先輩、今日はどうしたんだろう。

 「それは、困りましたね」

 わたしは先輩のことを何も知らないからこのくらいことをいうのが精一杯だった。

 さっきから心臓のあたりが痛くてたまらない。

 先輩はきっとわたしが先輩のことをすきだなんて知らないだろう、そしてこれからも知らないままで、先輩は遠くに行ってしまう。

 そんな当たり前のことがたまらなくかなしかった。

 「でも、なんでそんなことわたしに教えてくれるんですか? 」

 「うん、なんか急にごめん。早瀬さん覚えてないかもしれないけど、初めて会った時俺、泣いてたでしょ? あの日、早瀬さんが声かけてくれなかったらたぶん俺ここにいられなかったかもしれない。だから、やっぱり急に会えなくなると思ったら、早瀬さんだけには言っておかなくちゃなって……」

 「覚えてないなんて、そんな……」

 「あの日、本当にもうダメかもしれないって思ったんだ。早瀬さんに救われた。

 ありがとう、それからもうあの世にひっぱられかけてるような危ない魂抜けかけの人間なんかに関わらないで」

 あの日の俺みたいなのには、特にね。

 先輩はそう言ってくしゃりと笑う。

 

わたしは先輩のその言葉にハッとなった。

 先輩はあの日起こったことに気がついてたのだ。

 わたしには昔からちょっとした霊感みたいなものがあって死んだ人の魂とかそういう類のものが見えてしまうことがあった。

そしてあの日、生きているのに魂が消えかかっている衝撃的な先輩の姿を見てしまったのだ。それは言うまでもなく異常事態だった。

 

 おそらくそのことに気がつけたのはわたしだけだったと思う。先輩はあのままだとたぶん彼岸にひっぱりこまれていた。

 「じゃあ、こんど先輩がああいう状態になってもたすけてあげませんよ? 」

 わたしは冗談めかして先輩に言う。

 先輩はたぶん生体から魂魄が離れやすい危険体質なのだ。ぼーっとしているとき、彼岸に思いをはせたときは魂は此岸と彼岸のあわいに彷徨いはじめる。そういう人は些細なことで生きたまま魂が消失してしまうという恐ろしいことになりやすい。先輩の魂がちょっとだけ浮いていることはしょっちゅうで、わたしはいつも先輩から目が離せなかった。

 

 「そ、それは困るけど、すきな子にあぶないことしてほしくないでしょ、ふつう」


「えっ?」

 

先輩の声はちょうどホームに乗り込んできた電車の轟音にかき消されて、聞こえなかった。

 でも今、先輩は笑ってて、先輩はちゃんと生きている。

 今はそれだけでもうほかのことなんてどうでもいいくらいしあわせだった。

 

 「うそです。先輩がどこにいても必ず助けます。先輩にはまだこっちにいてもらわないと困りますから」

先輩が呆れたようにまた、笑った。

その意味は今、わからないけど、

 まだ、伝えてないことがたくさんある。

 この想いも、大切な言葉も。


 発車を告げるベルが鳴り響く。

 いつもとはちょっとだけ違う色をした日常を連れて、電車はゆっくりと走りだした。



 


 

 

 


 

 

 

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