◆3◆
タクシーは小一時間ほどでアゲハのアパートに辿りついた。
あらかじめ財布から抜き取っておいたアメリカンエキスプレスを差し出すと、運転手はそのブラックカードとジーンズ姿の僕が身分不相応と思ったのか、カードを表裏と返しながら怪訝そうな顔をした。居なくなった事をすぐに悟られないよう、ジャケットや財布はそのままホテルに置いてきたのだが――手ぶらで薄着、それていてカードだけを持つ男を不信に思わない方がおかしいのだろうと気付いた。
しかし面倒事が嫌なのか、彼は黙って搭載された機械にカードを通し、さっさと会計を終わらせると、早く降りてくれと言わんばかりにドアを開けて前を向いてしまう。
「ありがとうございました」
僕はお礼を言ってタクシーを降り、アパートの階段を駆け上った。少し息を切らせながらアゲハの部屋の前に立ったけれど、玄関横の小窓はリビングが暗い事を教えてくれただけだった。
部屋にはいないのか、それとも寝ているのか……。
左腕を見て腕時計が無い事に気づき、財布と一緒にデスクに置いたままにしていた事を思い出した。
現在の正確な時刻は解らないけれど、まだ寝るには早すぎるのは確かだ。
しばらくそこで行ったり来たりを繰り返した後で、僕はやっと呼び鈴を押すことにした。もしもアゲハが寝ていて、呼び鈴のせいで起こしてしまったのなら謝ればいい。
いなければ……そうだ、帰ってくるまでここで待っていよう。
彼女を落ち着かせるためとはいえ、あのように別れた事を半ば後悔しつつ、勇気を振り絞って呼び鈴を押した。室内の動きに耳をそばだててみるが何の反応もなかった。
――やはり出かけているのかもしれない。
はーっと両手に息を吹きかけ、僕はドアに背中を預けた。
さわさわと鳴る葉の擦れる音に耳を傾け空を仰ぎ見る。ぽつぽつと空に残る雲はみるみるうちに流れていった。どうやら上空はここよりも風が強いらしい。
雲間から覗く星月夜は冬の澄んだ空の色をしていた。
日本に着いたあの日、このドアの前で愛しい人の帰りを待っていた時は、まだ秋の気配が残っていたものだった。季節の移り変わりは緩やかでいて、けれどその速さに気づかなければ、人は簡単に置いて行かれる。
それは時に人の心さえも風の如く運び去ってしまうのだろう……。
そんな事を考えていたから、僕はふと思い至った自分の想像にぞっとした。
もしかしたらアゲハは一人の生活に戻れてせいせいしているのかもしれない。今頃どこかで、あるいは誰かと、休日のひと時を満喫しているのかもしれない――。
アゲハとキスをしていたヨシノという男の事を思い出す。もしもアゲハがあの男の元へ行っていたら――?
急に不安を覚えた自分に気付いた。こんな思いをするくらいなら、ここを出ずにきちんと話すべきだと後悔した。
このままここで待つか、あるいは会わずに帰った方がいいのかとぐるぐる悩み始めた時、ガタンと室内から何かが落ちる音がした。
「アゲハ……中にいるの? 僕だ、話がしたい」
そう言って呼び鈴を連続して鳴らしてみるが彼女は何も答えてくれなかった。答えられない状況なのではないかという考えが脳裏を過り、とうとう彼女が開けてくれるまで使うまいとしていた合鍵を使って鍵を開けた。
「アゲハ……?」
室内は暗いけれど、確かに人の気配がする。
そろりそろりと廊下を歩き、リビングの電気を付けて、ソファに横たわるアゲハを見つけた。遠目から胸が上下しているのを確認し、無意識に詰めていた息をほっと吐いた。
「アゲハ、どうしてこんな所で寝ているの?」
ネコ足のテーブルには飲み終えたマグカップと朝食として用意しておいたイングッリッシュマフィンの食べかけ。彼女が僕の作った朝食を食べてくれていたのだと思うと少し嬉しくなる。
「ほら、風邪を引いてしまうよ?」
無反応のアゲハに近づいてもう一度声をかけてみた。
「アゲハ?」
ぜいぜいと聞こえる荒い息遣いにはっとする。よく見れば額には汗をかき、辛そうに呼吸をしていた。
アゲハの額に触れてみる。アゲハの体温は思った以上に熱かった。
「アゲハ、アゲハ!」
どうして――と疑問が過ぎり、風邪が完全に治ったとは言えない僕が昨晩、アゲハにキスをした事を思い出した。
「僕の風邪が移ってしまった……?」
「ん、みず……」
僕の呼びかけに意識を取り戻したアゲハが囁いた。
「あ……水だね、わかった。少し待っていて」
そのか細い声に言葉を返し、僕はコップに水道水を入れて急いでソファに戻る。
「水だよ、ほら飲んで……」
背中に腕を差し入れて上半身を起こし、口にコップを当てた――けれど水は、意識を失ったアゲハの唇を濡らしただけだった。
こうなったら……僕は水を口に含み、そのままアゲハの唇を塞いだ。
こくり、と彼女の喉が動く。
それからアゲハはゆっくりと、何度かに分けて水を飲み始めた。
ほっとして唇を離そうとした刹那、アゲハの腕が伸びきて僕を押さえつけた。
「むぐ、アゲ……」
「み、ず……」
熱があるのに力が強いのは水を欲しているからだろうか。
押さえつける腕に抵抗して唇を離した僕は、開いている片手でコップを掴み、彼女ではなく自分の口に含んだ。
なるようになれ――僕はこの瞬間そう思った。
口移しで水を与えれば、それを欲するアゲハはキスを迫るように僕の唇を貪る。それが嬉しくて、つい夢中になった僕は、含んだ水が無くなったあとも深い口付けを何度も何度も繰り返した。
「もっとちょうだい――」
口の中で甘くとろける言葉に身体が熱くなり、この恍惚感にどうにかなりそうになる
いいよ、君の望むとおりにキスを――。
けれど、アゲハが欲しているのは……僕は我に返って唇を離した。
「……何をやっているんだベルナルド、彼女は病人だぞ!」
一度目は必要に迫られての口付けだったけれど、二度目は自己満足――ほんの少しの遊び心さえあった事を認める。
ここにいたら僕の方がどうにかなってしまいそうだと思いながら、水を口に含む代わりに、彼女の唇にコップをあてがった。
予想外に身体が反応してしまったことに自分自身も驚きつつも、僕の腕の中でこくこくと水を飲むアゲハを眺めるだけに留めておくことにした。
――これが結構大変だということは言うまでもない。
2、3回ほどコップを持ってキッチンを往復したところで、アゲハがイヤイヤをするように首を横に降った。初めて見る、子どものような仕草が可愛くて、ついつい口元が綻ぶ。
「さあアゲハ、君をベッドに運ぶよ。ここは少し肌寒いからね」
そうささやいてから背中と膝の裏側に腕を差し入れて抱き上げた。
「……おかあさん?」
うっすらと目を開けるアゲハに僕だよ、と囁く。
「ベル……?」
「そう、僕がわかる?」
アゲハは安心したように微笑んで目を閉じた。
彼女が僕に笑顔を向けてくれたことに不思議と心が温かくなった。
アゲハをベッドに運び、氷水を入れたゴム製の枕を頭の下に差し入れた。それから、ごめんね、と呟いてから目をぎゅっと瞑ってスポーツタオルでアゲハの汗を拭いた。汗が引けば身体は想像以上に冷えてしまうから。
服の中は許されるであろう部分までに留めておいたけれど、近づきすぎたせいで彼女の熱い吐息がかかる。
「もう、勘弁してくれ……」
色々とまずい、特に理性が――。
だから僕は頭を冷やすために彼女から離れて食器を洗うことにした。
アゲハの様子を見つつ、欲しがるままに水やスポーツドリンクを飲ませ、空いた時間を使ってソファやテーブル、キッチン周りに自分の携帯電話が落ちていないかと方々を探したが、結局携帯は見つからなかった。
ここに無ければ一体どこにあるというのだろう……?
「朝か……」
窓に視線を向けて、空が白み始めている事に気づく。リビングの壁掛け時計は朝の6時になったばかりだ。
少し明かりの入った寝室、アゲハのベッドの横に座り、汗で張り付いたアゲハの前髪をかき上げた。幾分か呼吸も落ち着いていることに安堵の息を漏らしたところで、ゴミ箱のそばに破かれた手紙のようなものが落ちているのを見つけた。
見覚えのあるそれは、アゲハが用意してくれた封筒と便箋――あて名は僕の筆跡で書かれている。
「この手紙は……」
そう言えば、ユーカは手紙の返事には理由があると言っていた。
返事? 理由……?
何の気なしに裏返してみると、そこには見た覚えのないメッセージが記されていた。
――おんがくをすてた あなたと おなじみちは あゆまない あなたがさきに わたしをすてたのよ――
この懐かしい筆跡はユーカのものだ。
「ああ、そういうことか……」
このメッセージを通して、アゲハの不可解な行動も、ユーカがこのアパートを出てまた戻って来た理由もわかった気がした。
ユーカは僕を置いて自分の目指す音楽の道を歩み始めたのだろう。けれどその途中で僕の正体を――僕の持つ地位と財産を知った。アゲハはアゲハで、さしずめ僕がこれを見て傷つくとでも考えたのかもしれない。
意識せず自分の頬が緩むのを感じた。
「僕は――アゲハが大好きだよ。何ものにも代えがたいほど大切な存在だと思っているんだ」
彼女の耳元で囁いてから額にそっとキスを落した。
「あまりアゲハを責められないね。どうしてユーカの事を黙っていたのかと思ったけれど、僕にだって秘密にしている事があるから……」
話をしようと会いに来たのに、今さらながら打ち明けるべきかどうかを迷っている僕がいる。
「ねえアゲハ、君も――僕がベルナルド・フィオーレだと名乗ったら変わってしまうのかな?」
アゲハがユーカのように変わってしまうのを見たくないと思う僕がいる。
僕はどうすべきなのだろうか……。
枕の横に頬杖をつき、何も答えてくれないアゲハの唇を無意識になぞっていた。
しばらく彼女の寝顔を眺めたあと、心の中で深く懺悔してソファの横に落ちていたアゲハの携帯電話を開いた。
人の携帯電話はプライバシーの塊だ。けれどこのままアゲハを放っておくわけにもいかない。漢字が羅列するアドレス帳から、彼女の弟、深山霧人くんを探し、最後の一文字が読めない「深山霧?」と表示されたアドレスにメールを送った。
「アゲハ、今日は帰る。僕がいたら……嫌だよね?」
それは彼女の寝顔を見ながら決めた事だった。
僕を避けて部屋に閉じこまったアゲハ。もしも目が覚めて、出て行ったはずの僕がいたら――。
室内の電気を消して、音が響かないよう玄関のドアをそっと閉めて、静かに鍵を回した。
手の平の合鍵をじっと見つめ、僕はそれを自分のポケットに突っ込んだ。
「まだ返したくないんだ……」
早朝の空気は思った以上に冷たくて、吐く息さえ白く色づいていた。やはりジャケットは持ち出すべきだったと悔やみ始める。
震えながらアパート前の公園でベンチに腰掛け待っていると、黒いバイクにまたがった金髪の青年が現れた。
彼が来たのを見届けて僕は公園を後にした。