◆2◆
「何よそれ……私とホテルに来たのはそんな事を言うためだったの?」
ユーカは語尾を荒げて言った。
「ユーカと一緒に来たのはアゲハを落ち着かせるためだ。現に、君がそう提案したじゃないか」
それに、僕がこのホテルに来たのはロバートとここで落ち合うという約束をしていたからでもあった。
もちろんタクシーの目的地がここだと知ったのはしばらく経ってからだった上に、ユーカが滞在している事は彼女に聞くまで知らなかったのだが、面倒な事になりそうだったから黙っておくことにした。
「そういう意味で言ったんじゃないわよ! 信じられない! 私の事馬鹿にしてるの?」
「馬鹿にしているわけじゃない、でもこれだけは言っておく。僕は君と結婚しない」
結婚式の話から彼女が何か勘違いをしていると気付いたから、僕の気持ちをきちんと伝えておく必要があると思った。
「僕がユーカと一緒にここへ来たのはアゲハのためだ。君と結婚式を挙げるためでも、ホテルの経営に口を出してもらうためでもない」
「……こんなの裏切りだわ!」
ユーカはテーブルをバンと叩きヒステリックに叫んだ。僕達の間にテーブルがなければ掴み掛ってきそうな勢いだ。
タイミングが良いのか悪いのか、水の入ったコップを運んで来たウェイターは、この光景に怯みつつも表情を改めてそれをテーブルに並べ始める。周囲から注目されにくいVIPルームで良かったと思いながら、しばらくは従業員の間で噂になるのだろう‘新社長の女癖の悪さ’説を考えた。こんな噂の種を蒔くくらいならタクシーを降りて名乗るんじゃなかった、と僕は今更ながらに後悔した。
おずおずと注文を待つウェイターに手を振って下がらせ、二人きりになるのを待ってから僕は会話を再開させた。
「ユーカ、これが裏切りだと言うのなら、君の薬指にある指輪の跡はなに?」
「今は指輪の話をしているんじゃないわ、あなたが勝手に結婚の約束を破棄した事を聞いているのよ!」
僕は呆れて何も言えなくなった。彼女が誰かと婚約なり結婚なりしていたのは明らかで、意図的に僕の前から姿を消したのは明白だというのに、それでも僕と交わした結婚の約束はまだ有効らしい。
「……わかった。ホテルにはどれくらい滞在していたの? アパートを出た時からなら――2か月弱だね。今日までの滞在費は僕が支払っておくから、他に住む場所を探したらいい」
これ以上話をするつもりはないという意味を込め、僕はわざと冷たく聞こえるように言い放った。
――その後は大変だった。
彼女は大声で浮気だの裏切りだのと泣き喚いて、最後に自分を捨てた事を後悔すると言って去って行った。
ご丁寧にコップの水まで掛けてくれて……。
アゲハが毎週かかさず見ていたテレビドラマで同じような事をされていた男の憐れな姿を思い出したら何故だか無性に笑いが込み上げてきて仕方がなかった。
「派手にやられましたね……大丈夫ですか?」
ぽたりぽたりと髪の先から落ちる滴を見つめてそんな事を考えていたら、いつの間にか現れたロバートにフィオーレロイヤルと刺繍されたコットンのフェイスタオルを差し出された。笑っている僕を見て少し心配そうな表情だ。
「女性という生き物は恐ろしいね」
タオルで軽く水分を拭き取りながら呟く。
「ベルナルド様、あなたは二股でもかけていたのですか? 手紙の相手はどうしたのです?」
「……ロバート、手紙だけで相手を見極められると思ったら大間違いだよ」
「その言葉、依然私が申したことと、一言一句同じですね」
覚えていたのか、と一瞬思い、ロバートが忘れるはずがないと思い直して舌打ちをした。
彼はイタリアにいた頃も何かと世話を焼いてくれていたけれど、僕はうるさい小姑のような男だと常々感じていた。
父に有能さを買われて僕の秘書兼お目付け役として一緒に日本に来たが、どうやら車の運転手も兼任するらしい。働き者だと思う反面、裏を返せばどこにいてもロバートが見張っていると言う事になる。
「まあ……別れ話にしては落ち着いて話し合いができたと思うけどね。僕は叫ばなかったし理性的に対応したよ」
「そうでしょうとも。けれど、どこにでも勘違いする女性は多いものです。あなたは人一倍気を付けて頂きませんと」
まるで僕が女性に騙されやすい性格なのだと聞こえた気がしてロバートを睨んだけれど、彼は無表情で花瓶のカサブランカに目を向けていた。
「まったく、こんな男がこのホテルの未来を担うんだ。おかしくて仕方がないよ」
「大丈夫ですよ、大学で経済学を学ばれたのでしょう?」
「それはもう片手間程度に、ね……」
もうため息しか出てこない。
「とりあえず、そちらがここ一ヶ月分の経営会議資料です。これが収支報告書。きちんと目を通しておいてくださいね。のちほど2、3点質問しますから――ええ、もちろんご意見を伺うためではありません。内容を理解して頂けたか確認するためです。それから――……」
地上30階の景色を背景に、ロバートが何やら延々と話をしている。僕は座り心地の良い革張りの回転チェアに身を沈めて聞いているふりをしていた。
ここはホテルの一室――広いスイートルームは寝室やリビングの他に小さめの執務室まで併設されている。ここに閉じ込めておけば本社に行かなくてもある程度は仕事が出来るという寸法らしい。
もう逃げ出してしまいたい、アゲハに会いたい……。
ユーカはというと、先ほど憤慨した様子でチェックアウトをしたとロバートから報告を受けた。彼女がこのホテルにどれくらい滞在していたのかと思ったらたった3日間だったらしい。その前はどこにいたのだろうかと疑問が過ったけれど、調べさせてまで知りたいとは思わなかったから放っておくことにした。
「……ベルナルド様、聞いていらっしゃいますか?」
「ああ、今日はもう休ませてくれ」
「そんな暇はございません。休日返上で働いて下さいませ」
ロバートは冷酷な声で言った。
彼は気分が滅入りそうな漆黒のスーツに身を包み、分厚いファイルを手に直立不動の姿勢をとっていた。どこかを突いてバランスを崩してやりたくなるほどに腹立たしい。
「今日は安息日だろう?」
「あなたが空港から逃げ出すからこういう事になるのですよ。この一ヶ月間、社長不在でどれだけ大変だったかまだご理解いただけていないようですね。念のためお伝え致しますが、これから数ヶ月間は一切の自由などございませんのでご留意を。それから安息日などと敬虔なクリスチャンの真似事をしたいのなら、明日は教会へ出向いて神父様の説教をお聞きくださいませ!」
……だめだ、この男に言葉では勝てない。
白旗を振る代わりに、湿ったフェイスタオルをロバートに投げつけてみたけれど、彼は優雅な仕草でそれを軽々と避けた。
「父さんもひどい事をしてくれる。ロバートを僕に付けるなんて悪夢だ……」
回転チェアにもたれて天を仰ぎ、彼に聞こえるように呟いてみたら、嫌がらせかと思うくらい長いため息が返ってきた。
「そうだ、今何時になる?」
「16時5分です」
スーツの内ポケットから懐中時計を取り出したロバートが時刻を読み上げる。
アゲハから連絡が来ているかもしれない……もしかしたら気づかないうちに来ていたかもしれない。急に不安になった僕は、株主リストを読み上げるロバートを無視して立ち上がると、ポールハンガーに吊るされたジャケットのポケットを探った。左右のポケットに携帯電話が無い事を確認して、ジーンズのポケットにも手を突っ込む。当たり前だが異物の違和感が感じられないジーンズのポケットには何も入っていなかった。
「ロバート、僕の携帯電話をしらないか?」
アパートを出る時にジャケットに入れたと思ったけれどそこにはなかった。
「……存じ上げません」
スーツケースの中をいくら探しても見つからず、ここに来るために乗ったタクシー会社を割り出してロバートに確認をさせたけれど、車内には落ちていなかったと報告を受けただけに終わった。
もしかしたらアゲハのアパートに忘れて行ったのかもしれない。彼女の電話番号は記憶していなかったし、どこにも控えていなかった。
「最悪だ、今日はことごとくついていない……」
僕は脱力してリビングのソファにどさりと身を沈めた。
「ベルナルド様……」
執務室の入口で立つロバートはやる気の無くした僕に向かってまたため息を吐いた。
「気を付けるといいロバート、ため息を吐くと幸せが逃げるんだよ」
アゲハがそんなことを言っていたのを思い出して忠告する。
「ベルナルド様!」
「ソファでも書類くらい読めるだろう。コーヒー」
「私はコーヒーではありません!」
僕は無視をした。
こうなったら直接会うしかない――そう決心したのはそれからすぐ後の事だった。
先ほどロバートが「本社の社長室には仮眠室を設けてございます」などと爆弾発言をした。本気で僕の自由を奪うつもりなのだと気付いたのはこの時だ。
彼ならば本当に僕を社長室かホテルに一生誰にも会わさず閉じ込めておく事など容易にできそうだ。ホテルにいる間ならまだ自由はある。けれど新宿にある本社ビルの最上階に一歩でも足を踏み入れたら一生外に出られなくなる気がした。
有言実行の男――ロバートを甘く見てはいけない。
僕はコーヒーを飲みながらロバートに手渡された資料を眺め、じりじりと逃げ出す機会を待つ。
ここ1年分の経営会議資料に目を通し終わった所で彼に空腹を訴え、休憩時間を取る事ができた。けれど2階のレストランに出向くのかと思ったら、ロバートは「無駄な時間はございません」とルームサービスを頼むためフロントへ電話をかけ始めた。
逃げるのなら今しかない……。
トイレに行くと独り言を呟きながら、僕はそっと部屋を抜け出した。
エレベーターで地下1階まで向かい駐車場からホテルの裏口へ回る。ここの従業員の一部には顔が割れていたから念のためだ。
しばらく早足でホテルを離れてから、適当な場所でタクシーを拾う事に成功した。
ふう、と長い息を吐いて、ここまで誰にも見咎められずに魔の巣窟から逃げ出せたことをひとり喜ぶ。
車内のデジタル時計は18時を少し過ぎていた。
アゲハが待っているかもしれない……。
もちろん怒られない保障はないけれど、どうしても今日中に謝って話をしたかった。
しなければならないと思った。