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結婚を前提に――とお付き合いを始めてから1年が経った。
この1年、長いようで短かった――と言えばひと言で済んでしまうけれど、あたしの生活はたった1年で一変していた。
ベルの家族やその周りの人とも会う機会が何度かあった。着物を着たのは6年振りだったり、ベルのお母さんに溺愛されたり――それから彼の車、ロールスロイスの運転手には何故か嫌われているらしかったり。
まあ、原因がわからないわけではないのだけれども……ベルに日系イギリス人運転手のロバートさんを紹介された時、その彼があたしを睨みながら「車のエンブレムを盗もうとした女」呼ばわりした時は、初対面でありながらもさすがにキレそうになった。
ベルはそれを聞いて涙目で大笑いしていたからあたしはちょっとホッとしていて、彼は苦虫を噛み潰したような表情になった事を覚えている。
ベルの世界に足を踏み入れた頃は、自分が庶民なんだと痛感するくらい違って戸惑う事も多かった。その度に泣いたり笑ったり怒ったり、ベルに八つ当たりをしてケンカもした。
今まで生きてきて――理性と場の空気を重んじることのできる「大人」と呼ばれる年になってからは、他人に対してこんなに感情を露わにする事がなかったから、その度に色々と驚かされた。
ベルはもうここには住んでいないけれど、あたしはまだこのアパートで生活をしていてもちろん仕事は辞めていない。でも実はこっそり童話作家の道を模索中だったりもする。
人生で一度くらいは夢を目指してみたいな、って思ったから。
ベルにその話をしたら、仕事を辞めて勉強をすればいいと言ってくれた。自分がバイオリニストになる夢を叶えられなかった代わりに、あたしには叶えてほしいんだって。
この事を話したのはつい先日だったけれど、会社を辞めたら自活できなくなってしまうから、まだ悩んでいる最中だ。
それにこの年になって職業を変えるって結構大変だと思うんだ。
お風呂上りに、ゆるゆるとそんな事を思い出しながら、あたしはハーブティーの準備をしていた。
「カモミールかローズヒップ……」
右手と左手を交互に見ながらどちらにしようかと悩んでいた丁度その時、滑るようなエンジン音と、車がアパートの前で停車する音が聞こえた。
あたしはピタリと手を止めてしばらく外の様子に耳を澄ませる。
ドアが開いて閉まる音が聞こえると、車はまた滑るような静かな音で去って行った。
車が帰ったと言う事は――。
「予定変更!」
あたしはハーブティーの瓶を棚に戻して沸かしたばかりのお湯をコーヒーメーカーに移すと、耳を澄ませば聞こえてくる足音を数えながら彼を待った。
鍵が差し込まれる音と、ドアが開く音、そして――。
「ただいま、アゲハ」
「ベル、おかえりなさい。わあ、かわいい」
ワイルドストロベリーだよ、と言いながら、ベルは両手に持った鉢植えをキッチンカウンターに置いた。赤くて小ぶりの実が黄緑色の葉に囲まれて鎮座している。
「ありがとう。このイチゴは食べられるの?」
実が付いているから、冬の間は室内に置いておかなくちゃいけないかしら?
変な話だけど、ベルの――イタリア人のプレゼント攻撃もこの1年でようやく慣れた。
彼はここに来る度に花束をプレゼントしてくれて、たまにこうして鉢植えを持ってきてくれたからだ。お陰であたしの部屋、特にベランダはちょっとした植物王国になりつつある。
「どうしたの?」
「いや、アゲハにおかえりって言われるの、嬉しいなって思って――毎日言われたい」
ベルはあたしの額に唇を押し付けてから、手に持つコーヒーの缶を奪い取って元の棚に戻した。
「ストロベリーはシャンパンに入れよう。ほら、持ってきたから」
ベルは箱に入った瓶を持ち上げて見せた。
「おいで、アゲハ」
そう言ってベルはグラスを2つ掴んでリビングに戻った。いそいそと準備を始めるベルがおかしくてしょうがない。
「ベル、せめてコートを脱いでからにしたら?」
彼は初めて気づいた様子で自分の格好を見下ろした。
「あれ、おかしいな。車で来たのに何で着ているんだ?」
それじゃあ、車に乗る前から着ていたってこと?
そう思ったらいよいよおかしくて、あたしは笑い出した。
しっかりしているように見えて、どこか抜けているのもこの1年で知った彼の一部――。
「何をそんなに焦っているの? 今日は泊まって行くんでしょう?」
だって車はベルを下して帰ってしまったから。時計は10時を指している。まだまだ夜はこれからなのに。
「ああ、うん。そうなんだけどね……」
あたしはワイルドストロベリーを数個摘まんで洗ったものをテーブルに置いた。
テーブルの上にはフィオーレロイヤルと書かれた紙箱。中身はホテルのレストランのオードブルらしかった。
「これはDVD?」
「そう、明日の10時までに返却しないといけないの」
「じゃあ一緒に見ようか」
準備を終えたらしいベルがソファに座り、その隣をポンポンと叩く。
そこはあたしの定位置なのだ。
「アゲハ――」
「だめ……DVD見なくちゃ……」
ソファに押し倒され、長いキスを繰り返す。ベルは顔の角度を変えて最奥へと舌を侵入させていく。頭の奥が麻痺しそうなその瞬間、彼はあたしから離れた。
「え、ベル?」
「ん? DVD見るんでしょう?」
そう言いながら、彼はリモコンの再生ボタンを押した。
み、見るとは言ったけどさ……。
「なに?」
映画の予告を流し見ながら、ベルはシャンパンとオードブルの準備を始めている。
「な、何でもないっ!」
顔が赤いのを隠すためにあたしは室内の明かりを少しだけ落として暗くした。
「アゲハ……」
耳元で呼ばれて、あたしは目を開けた。
「んー……」
テレビの画面は黒い背景に白字の英語が流れていて、いつのまにか映画が終わっていた事を告げている。
「あたし……寝ちゃってたみたい」
ベルの肩の窪みに自分の頭を置いて、ぴったりとはまったところでリラックスした所は覚えている。この態勢が気持ち良すぎて眠ってしまったらしかった。
「アゲハ、12時過ぎたよ」
「うん、そう……」
「誕生日おめでとう」
た、誕生日? あたしは4か月前に27歳になったばかりだった。
「ベル、あたしの誕生日は9月よ? 祝ってくれたじゃない?」
そう言うと、彼は嬉しそうにクスクスと笑った。
意味が解らないままベルを見つめていたら、彼はあたしの左手を掴んでそっと口づけた。
その口づけは手の甲ではなく薬指の付け根だったから、何かを暗示しているようで、期待と不安でドキドキする。
「アゲハ、今日はアゲハが生まれて一万日目なんだよ」
「いちまん……?」
海外ではそれを祝う風習があるらしい。
「この記念すべき日に、今の生活に終止符を打とうと思っていた」
ベルは小さな小箱を開いてあたしに開いて見せた。
中身は――。
「疲れて帰っても、家にアゲハがいてくれると僕は頑張れる気がするんだ。それにもっと近くで、アゲハの夢を応援したいと思ってる――だから、一緒に住もう」
「ベル……」
「僕と結婚してくれますか?」
彼は、きらきらする笑顔を向けて、あたしにそう問いかけた。
恋とはどんなものなのか、あなたがもし知っているのなら教えてくれませんか。
この胸に溢れる想いが愛なのか、それとも別のものなのか――。
「恋の悩みを知る君は」これにて本編完結です。
長い間お付き合いいただきましてありがとうございました。
多大なる感謝と愛を込めてお礼申し上げます。
次話よりベルナルド視点のお話です。
もうしばらくお付き合いいただけますと幸いです。