◆5◆
あたしがパスタを食べている間、ベルは自分の置かれている状況について説明をしてくれた。
ベルの家族――主にお父さんとお兄さんが経営に携わっている会社はフィオーレロイヤルホテルを筆頭に、アメリカや日本などの主要諸国にホテルを世界展開している企業なのだそう。
世界展開と聞いて驚いたけれど、フィオーレロイヤル、と聞いてあたしは昼食バイキングを思い出した。そのホテルに泊まった事はないけれど、一度バイキングの割引券を貰ってランチしに行った事があったから。
ベルにその話をしたら今度一緒に行こうと言ってくれた。それってデートになるのかしら?
「じゃあ、しばらくは日本にいるってこと? 日本で仕事をするの?」
日本で支社長だったベルのお兄さんは本社のあるイタリアでお父さんの跡を継ぐ事になっていて、代わりに日本に来たのがベルらしい。
「最初はお飾りみたいな責任者だけど、やるからにはちゃんとやるつもりだよ」
嬉しそうに話すから、あたしもついつい嬉しくなってしまう。
「それじゃ、花屋でアルバイトしてる余裕なんてないのね、忙しそう」
「大丈夫だよ。こうやってゆっくりする時間も欲しいし、それに……」
ベルは頬杖をつきながら満面の笑みで見つめてきた。
「……なに?」
「いや、幸せだなって思って……ソーシソーアイ? ほら、アゲハは僕が好きなんでしょう?」
相思相愛……?
「な、な、何言ってるの!?」
そんなこと本人にはまだひとことも言っていない――その想いは否定はしないけれど、それとこれとは別なのだ。
「でも伝言を聞いたよ、留守番電話の。それに、メールにもそのような事が書いてあったけど……ひょっとして僕の勘違い?」
「好き、なのは……本当だけど――っていうか、その携帯いつから持ってたのよ!」
クローゼットにしまっておいたはずの携帯は何故か彼の手元にあって、口ぶりから察するに随分前から持っていたようだ。
「11月の最後の日――街で会ったのを覚えている?」
「覚えてる……」
あたしがベルを見つけて追いかけた日だ。
「電話してきた女性と……ロールスロイスで、待ち合わせて、レストランで食事?」
頭の中でつなぎ合わせた単語は、言葉となってあたしの口から飛び出した。
「違うよ、彼女は兄の秘書だ。やっぱり何か勘違いしていたのか……話の途中でアゲハは逃げてしまったから変だと思ったんだけど」
「お兄さんの――秘書?」
「あの日は仕事の関係者と会食の予定があって――少しくらい遅れてもいいんじゃないかと思ったけど……彼女に逆らうと後が怖いんだ。あの時はごめんね」
「そうだったんだ……」
あたし、逃げないでちゃんと話を聞けばよかった。あの時はすごく混乱していて、ベルが新しい携帯を持っていた事にショックを受けた。
「実は会食が終わった後ここに来たんだ。イタリアに戻ったら一ヶ月は帰ってこれない予定だったから、出発前にどうしてもアゲハと話がしたかった。合鍵を持っていたからしばらく部屋で待っていたんだよ。でもいつまで待ってもアゲハは帰ってこなかった。もしかしたら一緒にいたヨシノが関係しているんじゃないかと思ってイライラした」
「う、嘘! ここに来たの? どうして待っててくれなかったの?」
あたしはその間、ベルの想像通り、吉野さんと居酒屋にいたのだ。
「そしたらアゲハの寝室から僕の携帯電話のメロディが聞こえた。音を頼りにクローゼットを開けたら、探していた携帯電話があったんだ。ついでに粉々になったロジンも」
「ロジンの件は……ごめん。わざとじゃなかったの」
「いや、いいんだ」
ベルは笑って言った。
「それよりも、ずっと探していた携帯電話がまさかこんな場所にあるとは思わなかった。ソファやテーブルの下を探したけれど、結局見つけることができなかったんだ。まさかあんな所に隠してあるとはね」
「べ、別に隠したわけじゃ……」
「それから届いたばかりのメールを見て、アゲハが帰ってくる事を知って焦った。僕はここにいてもいいのかと。自分の行動に疑問を持った。勝手に入って待っているのはおかしい気がして……」
ベルは紅茶のカップを口に運んだ。少しの間沈黙が流れる。
「それで、どうしたの?」
「うん、もしもアゲハが吉野と一緒にこの部屋に入ったら――僕は冷静でいられないと思ったんだ。だから外で、アパートの前に停車していた車で待っていた。しばらくすると、思った通りアゲハがヨシノと来た。手をつないでいて、アゲハは泣いていた。もう見ていられなくて――だから車を発進させた」
「ど、どうして……?」
「鉢合わせしたらアゲハに申し訳ないと思ったんだ。街でアゲハと会った時ね、追いかけようとしたらヨシノに言われたんだ。君たちはもう恋人同士だって」
「な、そんなの嘘よ! やだ、信じらんない!」
吉野さんってばそんな事言ったの!?
「……そうだね、でも僕は少しばかり信じてしまったんだ。君達が手を繋いで歩いていたから。でもね、車の中でアゲハが送ってくれた何十通ものメールを見て疑問に思った、本当に恋人同士なのかって。考えていたら電話が鳴った。この電話に出るべきか迷ったよ。アゲハは僕が勝手に部屋に入った事に怒っているのかと思った。そうして、もたもたしていたら留守番電話に切り替わってしまった」
そういえば……まったく疑問に思わなかったけれど、あの時ベルの携帯に電話した時、コール音が鳴っていた。電源が落ちていたらコール音はならないはずだ。だからあの時、携帯は鳴らなかったんじゃない――ベルがすでに持ち出していたからだ。
嘘……あたしどうして気づかなかったの?
「アゲハの伝言を聞いて、すぐに掛け直そうと思った。僕たちは終わってなんかいないと思ったから。でもそこで携帯の電池が尽きてしまって……電話番号を暗記していなかったことを悔やんだ」
あたしはベルと話をするためのいくつものチャンスを逃してきていたらしい。ここまでくると悲しくなってくる程だ。
「でもね、搭乗手続きをしている間に携帯ショップでメールの転送を頼んだ。携帯のメールをウェブメールに転送するようにしてもらったんだ。だからアゲハから毎日届くメールを読んだよ」
「あたしの、メール? そうたったの」
あれ、あたし……どんなメールを送り続けていたんだっけ? 確か、自分自身の想いを包み隠さずメールに書いた気がする。だって誰も見ないはずだから――。
「ねえアゲハ、僕とセックスしたかったの?」
「い、いやぁぁぁー!」
メールの一部を思い出したあたしは、たまらず寝室に逃げ込んで力任せに戸を閉めた。力が強すぎて壁掛けの全身鏡が傾いたけれど、今はそんな事を気にしている余裕はない。
「アゲハどうしたの? 出てきて? そうだ、一緒にケーキを食べよう、ね?」
どこか遠くから、ベルの声が聞こえた気がする。
「ど、どうして……どうして……」
とんでもないことをしでかしたと、今更ながらに気付いた。もう誰も見ないと思っていたベルのメールアドレスには、どうでもいい日常の出来事から相談事、それから絶対に人に言えないような事まで書いていた。しかもご丁寧に平仮名で。
それが――全部ベルに届いていた……?
「あ、あたし……なんて事を」
ふっと力が抜けた隙を突かれてベルに戸を開けられた。
「や、やだ……来ないでよっ」
あたしはリビングの明かりが入らない奥まで後ずさりする。
「アゲハ……怒っているの?」
「あ、当たり前でしょう! この数週間ずっと何してたのよ! メールが届いてたなら国際電話でも返信でも、何でもいいから連絡してくれたっていいじゃない!」
あたしは恥ずかしさのあまり、ベルに背中を向けて叫んだ。本当は怒ってなんかいない――ううん、やっぱりちょっと怒ってるかもしれない。とにかく恥ずかしくて死にそうだった。
知ってたらあんなメール送らなかったのに!
「連絡をしなかったのは……僕の我儘でアゲハを縛り付けてしまうのは良くないと思ったからで――いや、これは建て前で……本当は怖かったんだ」
背中に温もりを感じたと同時に、耳元でベルの囁き声が聞こえた。
「アゲハとユーカは別人なんだって頭ではわかっていたけれど、でも怖かった。日本に戻って、もしアゲハがヨシノと恋人同士になっていたらと思うと……。僕とユーカは手紙で繋がっていたと思っていたけれど実際は違った。それが電子メールに変わっただけで、同じ結果になってしまったら――僕は怖じ気づいたんだ」
傾いた全身鏡にベルの切なげな表情が映っているのを、あたしはじっと見つめていた。
「また同じ目に合うくらいなら、この想いを手放してしまった方が楽なんじゃいかって――アゲハの近くにいられるのなら振り向かせてみせる、でも時差も大陸も違う場所にいて、僕は何も持っていなくて……僕みたいな男なんかに執着されるより、ヨシノと幸せになった方がいいんじゃないかって思った。ほんと、男らしくないよね……」
「……ベルナルド・フィオーレ!」
「はいっ」
あたしは彼の腕の中でくるりと方向転換して真正面から向き直った。
「ばか、ばか! その間にあたしが吉野さんとくっついちゃってたらどうしてたのよ!」
「そしたら……自分への罰なんだと甘んじて受けるよ。日本に行くまでに、アゲハからのメールが一日も途切れなかったら会いに行こうだなんて思って、アゲハを試すような事をした罰だ」
ベルは自嘲気味に呟いた。
「何言ってるのよ、あたしの気持ちは――メールと一緒に届いてたんでしょう? だったらそれが全てじゃないの。どこに疑う要素があったのよ!」
止まったはずの涙がまた溢れてくる予感がして、あたしは下を向いて鼻をすすった。
「うん、そうだったね――アゲハはずっと僕を想ってくれていた。それを糧に今日まで頑張れた。だから予定より1週間ほど早く帰って来れたんだ。会いたかった」
ベルの腕に力が込められた。
「ごめんね、アゲハ。許してくれる?」
「……絶対許さないんだから!」
「許して、ね?」
あたしは返答の代わりに体重のほとんどを彼に預けた。
「Amore mio……僕も聞きたいことがあるんだけど」
「なあに?」
「プロポーズの答えをまだ聞いていない」
プロポーズ……?
あたしははっとして顔を上げた。
「あ、う……」
そうだ、この人は帰って開口一番、とんでもない事を口にしていたのだった。
情熱の国って言うけど、イタリア人ってみんなこうなの?
「アゲハ、はいと言って」
こんな簡単に――将来の伴侶を選んでいいの?
「…………はい。あの、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
あれ、プロポーズの返事ってこんなシンプルでいいの?
「ひゃあっ」
脇の下に滑り込んだ手に驚いたその瞬間、あたしはくるくると宙を舞っていた。
「ベル……お、おろして! 目が、回るからっ」
「良かった。これからはずっと一緒にいたい……いてほしい。ここにアゲハがいる……本当に。夢じゃないんだ」
地上に降りたあたしはベルに力いっぱい抱きしめられた。この温もりと、肺の圧迫感が夢ではないと物語っているような気がした。
「おいで、アゲハ。ケーキを食べよう」
形の崩れたブッシュドノエルと紅茶を用意しながらイタリア語で歌をうたうベルをじっと見つめていたら、それに気づいた彼が顔を近づけてきた。
こつん、と額同士が当たる。
「アゲハ、あいしてる……」
「ねえ、知ってる? あたしはそれ以上にあいしてるのよ」
いたづらっぽく言ってみたら、ベルは微笑んでキスの雨を降らせてくれた。
「もう、急にキスするなんて、不意打ちは……ずるい」
二度目のキスは優しくて愛がたっぷりこもっていて、首の後ろがとてもくすぐったくなった。
「実は二度目じゃなかったりして……」
「な、なにそれ! どういうこと?」
ベルは答える代わりにあたしの唇を塞いだ。
まだ聞かなければならない事は沢山あるみたい。