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恋の悩みを知る君は  作者: 来栖ゆき
6章 ある晴れた日に
39/48

◆3◆

 映画やドラマだとさ……実はお互いの間に誤解のようなものがあって、こういう時は男性が追いかけて来てさ、後ろからぎゅっと抱きしめてくれるものなのよね。

 ……でもあたしの場合は違った。

 大通りの横断歩道まで走った所で肺とかかとが悲鳴を上げていたから、赤信号に便乗して止まった。

「ちょうちょちゃん……だから、走らせるなって……」

 しばらくして追いついたのは吉野さんだった。

 この信号はなかなか青にならないから、全速力で走ってもタイミングが悪ければ追いつかれてしまう。ほんともう、現実に引き戻されれば恥ずかしい事この上ない。

 しかも、足を引きずりながら泣く女なんてただでさえ人目を引くのに、吉野さんは何も言わずただ黙ってあたしの横を歩いてくれた。

 これじゃ吉野さんがあたしを泣かせたみたいじゃない。会社の人に見られたらなんて言い訳するつもり?

 駅前まで来ると、あたしも随分と落ち着いていた。吉野さんはあたしをベンチに座らせてどこかへ行くと、またすぐに戻って来た。手にはコンビニのビニール袋。

「よ、吉野さん! 大丈夫です、自分でできますから!」

 けれど吉野さんはあたしをひと睨みで黙らせると、パンプスの片方を脱がして自分の膝にあたしの足を乗せた。

 七分丈のクロップドパンツからのぞく素足に吉野さんの温かい手が触れる。

「スーツ汚れちゃいますから……」

 また無視。

「次、左!」

「あの、吉野さん――」

「それとも靴まで履かせろって?」

 あたしはかかとにバンドエイドを貼ってもらった右足を吉野さんの膝から急いでおろした。

「……彼すごいね、あのあと運転手付きのロールスロイスに乗り込んだ。フォーマルドレスの美人がドア開けて待ってた」

 左足にバンドエイドを貼りながら吉野さんが言った。

「そうですか……」

 それ、きっと優花さんだ。

 なるほど、ベルは正しい選択をしたと言う事だ。元家主ではなく、ちゃんと恋人の元へ行ったのだから。

「ロールスロイスってクレジットカードで買えるんですか?」

「は? ……もしかして買うつもり?」

「いえ、そういうわけじゃ……」

 ロールスロイスなんて高級車2、3日で手に入るような車じゃないはず。だとしたら優花さんの所有車……? ならば高級スーツも新しい携帯電話も優花さんが用立てたのだろか。

 ベンチに腰かけたまま、あたしは高いビルに囲まれた狭い空を見上げた。

「また雨が降ってきました」

「そうみたいだね……」

 雲一つない空には、猫の爪で引っ掻いたような細い三日月と、名も知らない小さな星が輝いていた。

 あの月はこれから消えるのか、それとも満ちていくのか――数日前に見上げた月がどんな形だったかはどうしてだか思いだせなかった。



「そんな事、だなんて言うんですよ! あたしにとってはそんな事じゃなかったのに……忘れてた事に気付いたなら取りに来れば良かったじゃない。それなのに、どこにでも売ってるからって取りに来なかったんですよ!」

「そうだね……」

 地元の駅に着くと、あたしは吉野さんに連れられて居酒屋に入った。これも吉野さんなりの気遣いなのだろう。

「そもそも携帯がなくたって、あたしはあのアパートにいるんだから会おうと思えば会えるじゃないですか! 近くまで来てたのに会いに来ないってどういう事ですか!?」

 あたしは思いの丈を何故か吉野さんに打ち明けていた。テーブルを挟んで向かいに座る吉野さんは迷惑そうだ。

「っていうか、話があるならそっちが来いっつー話ですよ。さっきだって結局追いかけても来なかったし! あ、すみませーん、同じのお代わりくださーい」

 店員さんに空のグラスを持ち上げて見せた。

「飲み過ぎだよ、もう止めときなさい」

 吉野さんは身振りであたしのお代わりをキャンセルする。

「これが飲まずにいられますか? だってあたし又聞きだったんですよ! イタリアに帰るって言ったらしいんです。バイト先のオーナーには直接挨拶に行ったのに、あたしには……」

「じゃあさっき聞けばよかったじゃないか」

「き、聞けるわけないじゃないですか! 携帯だって、ロジンだって忘れ物預かってて……もう会えないと思ってたのに会えたから、まず最初に謝らないといけないって思っ……て……ううっ」

「ちょ、もう……勘弁してくれ」

 話の途中で泣き出したあたしを見て、吉野さんは困り果てた顔をした。

 吉野さんが困るなんて初めて見た。なんかおもしろい……そう思った次の瞬間、あたしは我慢できずに笑い出した。

「いい加減にしてくれ。ったく、帰るから立って――」


 こうして人通りが少なくなった閑静な住宅街を吉野さんに手を引かれながら歩いた。

 フラフラと千鳥足で歩くあたしに業を煮やした吉野さんが「さっさと歩け」と言いながら手を握ったのをなんとなく記憶している。

「ほら、もうすぐだから、頼むからもう少し自力で歩いてくれ」

 下を向いていたから気づかなかったけれど、景色からあたしのアパートの近くを歩いているようだった。

「ご迷惑ばかりかけて、すみません」

 回転の遅い頭でそう言ったつもりだったけれど、吉野さんは振り返って首を傾げるだけだった。

 路地をしばらく進むと、前方から車の近づく音が聞こえた。ヘッドライトに照らされてあたしは思わず目を伏せる。近づく音の速さから路地の幅に見合わないスピードを出しているようだ。

 ぼうっとする頭で、端に避けなければ、と思った次の瞬間には車はもう通り過ぎていて、あたしは吉野さんに庇われて、彼の腕の中にいた。

「危ないな、この道は普通徐行するだろ。ただでさえ車体のでかい高級車なら……」

 吉野さんの言葉が触れている部分を通してあたしの身体に響いた。見上げても街灯の明かりが眩しくて吉野さんの顔は見えない。

「大丈夫? まだ起きてる?」

 もしも今吉野さんに口説かれたら、あの時のようにキスをされれば、きっとあたしは簡単に陥落するのだろう。

「優しいですね、惚れちゃいそう……」

 お酒の力を借りてみたら、後悔する?

 吉野さんの腕の中で、彼の顔をじっと見上げた。

「今頃気づくなんて、ちょうちょちゃんは馬鹿だな」

 逆光で彼の表情は読み取れなかったけれど、あたしはそれでよかったと思った。



「ただいまー」

 玄関のドアを開けたら部屋は明るかった。

 リビングの電気がついたままだったから、朝出る時に消し忘れたのかもしれない。

 電気代を気にしつつも、ただいま、とメールを送ってからコートをハンガーにかけて、ブラウスのボタンを数個外した。

「あたし、超ヤな女だ……」

 吉野さんはあたしをアパートの前まで送り届けると、さっさと寝ろよ、と言って来た道を戻って行った。

 一人になって冷静さを取り戻せば、馬鹿な事をしでかさなくて良かったと心底ほっとした。久しぶりに飲み過ぎたらしい。

 吉野さんに失礼な態度を取ってしまった事を謝らなければ――。

「あれ……?」

 そう言えばいつものアメージンググレースが聞こえてこなかった。考え事をしていて聞き逃したのか、それとも――。

 もう一度メールを再送してみたけれど、やはり何も聞こえなかった。

「一週間も充電してなかったんだから、当たり前か……」

 それがよりによって今日、充電が切れるなんて。

 あたしはソファに倒れ込むとベルの携帯に電話を掛けた。コール音が数回ののち、留守番電話サービスに繋がる。

「もしもし、ベル――イタリアに帰るって花屋のオーナーさんに聞いたの。あたし今日、あんな別れ方したくなかった。本当はね、優花さんを探して池袋を歩いた時から好きだった。ひと月前からずっと好きだったの……優花さんを一緒に探すって言っておきながら本当はね――」

 想いのすべてを言葉に出した。ずっと想い続けて、だけどずっと心だけに留めていた想いをすべて吐き出した。

 もういいよね? 声に出して言ってもいいよね?

 誰も聞かない留守番電話は、保管期限が過ぎればいつか勝手に消えてしまうのだから――。


 それからあたしは浴槽にお湯を溜めて、ラベンダーの入浴剤を入れてしばらく浸かった。お風呂から上がったら1時間も経っていた。

 布団に入って「オヤスミ」とメールを打って電気を消した。

 ベルの携帯は充電しない――これでいいんだと自分に言い聞かせる。

 目を閉じると深い眠りはすぐにやって来て、あたしをさらって行った。

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