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恋の悩みを知る君は  作者: 来栖ゆき
6章 ある晴れた日に
38/48

◆2◆

 ――じごくのげつまつしょり、しゅうりょうしました!――


 朝からパソコンの画面に映る数字と¥マークを見すぎて目が疲れていた。

 営業部の月末は経理や総務に比べれば楽な方だけれども、他社を相手とする業務がほとんどだからミスは絶対に許されない。

 これがけっこう神経を使うから大変なのだ。社内文書だったらスミマセン、で差し替えてしまえば済むのに……。

 携帯の文字が霞んでみえて、あたしはこめかみをぐりぐりとマッサージをしながらベルにメールを送った。

 実はあの日から、あたしは毎日こうしてメールを送るようになっていた。

 いってきます、から始まってお昼や帰りの電車の中、帰ってご飯を食べながら今日の出来事を存分にメールに書いて送ってみた。

 ベルの作ったパエリアがどうしても食べたくて、料理の本を買って作ってみたら結構うまくできたから、写メも付けて送ってみたりもした。

 自己満足と言われればそうとしか言えないけれど、メールを送るだけでもギスギスした心が和んでしまうからどうしても止められない。

 だからこの携帯はもうしばらく解約せずに取っておく事にした。それにほら、もしかしたらベルが取りに来るかもしれないでしょう?

 その頃にはきっとこの携帯は大量の未読メールであふれているはずだ。

「読むのに何日かかるのかな……」

 携帯を開いて困ったように微笑む彼を想像したら無性におかしくなった。

 ねえ、気づいてる? あなたと出会ってから今日で一ヶ月経ったんだよ。



「携帯見てニヤニヤして、何かいい事でもあった?」

「わ、吉野さん! お帰りなさい、お疲れ様です」

 ちょうど外回りから帰ってきた吉野さんと1階のロビーで会った。

「はい、ただいま。ちょうちょちゃんにお帰りって言われると、そそられるよね」

「……疲れすぎじゃないですか、吉野さん?」

 あの日から吉野さんは、隙を見つけてはあたしに迫ってくるようになっていた。しかも絶対に誰も見ていない瞬間を狙っての狡猾さ。

 お陰でこの水面下の攻防戦は他の社員に知れ渡る事はなく、変な噂もたっていない。

 人気者の彼の事だから、こんなやり取りがバレたら恐ろしい事になる予感がして少しヒヤヒヤではあるのだけれども……。

 吉野さんの口説き文句を軽くスルーして、あたし達は並んで歩き始めた。

「もう帰り? これから飲みに行かない?」

「今日は疲れてるので遠慮します!」

「よかった、じゃあ西口に最近できた居酒屋にするか。一度行ってみたかったんだ」

「そうですね、駅前のエトワールでフルーツのタルト買って帰ろうと思ってるんです。疲れた時はやっぱり甘いものですよね」

 会話が噛み合っていないまま、あたし達は二重の自動ドアを通り抜けた。


 外に出た瞬間、冷たいビル風に吹き付けられた。高層ビルが立ち並ぶオフィス街の風は強くて冷たい。寒さを感じてショールを首に巻き直すと、最寄りの駅までの道を吉野さんと並んで歩いた。

 月末という事もあってか、夜8時にも関わらず人通りは多く、大通りに出るといつもの街灯の明かりに加えて、星や柊を模したカラフルな光が追加されていた。街路樹にもイルミネーション用の小さな電球が取り付けてあった。これが光れば一気にクリスマスムードに包まれるのだ。

「そっか、明日から12月になるんですね」

「まだ11月だってのに気が早いよ……」

 周りの光景を見渡しながらぼやく吉野さんに同意しようとして視線を戻せば、ふと視界の隅に見慣れた顔が映った気がした。

 今、角を曲がった外国人は――……。

「ちょうちょちゃん!?」

 気づくとあたしは走り出していた。

 いつもと違って人通りが多い事に内心舌打ちをしながら、あたしは縫うように人を避け、彼を追って角を曲がった。

 いない……ひょっとして人違い? それともどこか路地へ入ってしまった?

 背の高い黒髪を探しながら駅へ向かう人の流れの中をどんどん逆流する。

 すれ違い様、肩が触れた人にすみません、と軽く詫びながらあたしは人波をかき分けた。

 小走りのせいでパンプスのバックバンドがかかとに食い込むけれど、今はそんなことを気にしてなんかいられなかった。

 細くて目に見えない糸を手繰るように、あたしは見間違いではないと絶対の確信を持って彼を探した。

 見つけた! あの後ろ姿は――。

「ベル……」

 あたしは思わず叫んた。通行人が何人振り返ろうと関係ない。

 彼は自分が呼ばれたことに気づき、声の主をさがして左右を見回し始めた。

「ベル!」

 二度目で彼は振り返った。

 やっぱり本物だ、ベル! カミサマはあたしを見放してなんかいなかった。

「ア、アゲハ!」

 ぜいぜいと肩で息をするあたしを見てベルも驚いた顔をしていた。

 その表情さえも懐かしい気がして涙が出そうになる。感動の涙なんて久しぶり。

 たった1週間会わなかっただけで、あたしの記憶の中のベルは随分と色褪せてしまっていたのだと気付いた。目の前にいる彼は、夢でも妄想でもない本物のベルナルド。

 こんな所で会えるなんて、運命感じちゃってもいい?



 ベルは淡いグレーの色合いをしたスリーピース、いわゆる三つ揃えのスーツスタイルだった。ふわふわだった髪はワックスか何かを使って丁寧に撫でつけてある。

 まるでオシャレなセレブか芸能人みたい。

 つい先日までジーンズとエプロン姿で花屋に立っていた人物とは思えない程の変貌ぶりに驚きつつも、ちらりと見ただけで彼だと見抜いた自分の眼力に自信を持った。

 だてに1ヶ月近く一緒に住んでなかったってこと。

「あの、ベル……」

 彼を追いかけて声を掛けたものの、何と言って切り出そうかとあたしは迷った。

 迷った挙句、先日花屋の女性オーナーと会話した時の事をふと思い出した。

 一昨日くらいだっただろうか、会社帰りに花屋の前で、あたしはオーナーに呼び止められた。そしてベルが花屋のアルバイトを辞めたのだと聞かされた。

 そのこと自体は予想通りだったけれど、ベルが日曜の早い時間に尋ねてきたのだと聞いた時は流石に衝撃を受けた。

 日曜日とは――優花さんと出て行った次の日のこと。彼は花屋に出向いたのに、あたしのアパートには寄ってくれなかった。

 どうして会いに来てくれなかったのかと悶々と悩んだ挙句、恋人でもないのにそんな事を考えるのは身分不相応なのだと自分に言い聞かせたばかりだった。


 記憶が蘇れば口を開いたままぴたりと止まってしまう。思考回路も一時停止状態。

 えっと……なんて言おうとしたんだっけ?

「アゲハ、風邪は治ったみたいだね、体調はもう大丈夫?」

 救いの手を差し伸べるかのように、彼は笑顔を向けて言った。

「あ、大丈夫。あたし元気なだけが取り柄だし……」

「僕が風邪を移したようなものだから、心配していたんだ」

「うん、ありがとう……」

 ベルの変わらずの優しさが身にしみて、胸のあたりがぽかぽかと温かくなった。

 そうだ、とても大切な事を思い出した。あたしはベルにきちんと謝らなければならない。

「ベル聞いて、あのね…………アパートにロジン忘れていったでしょう?」

 こら、アゲハ! 言いたかったことはそれじゃないでしょう!

 何やってんのよ、まず謝らないとだめじゃない!

「ああ、やっぱりアゲハの所にあった?」

 彼は微笑みながら探していたんだ、と答えた。

「でも大丈夫だよ、どこにでも売っているものだから。そんな事よりアゲハ――」

 ベルはぴたりと会話を中断すると、あたしの背後に視線を向けた。同時に、あたしの背後に人が立つ気配を感じる。

 恐る恐る振り返れば息も絶え絶えの吉野さんだった。

「30歳を……走らせないで、くれ……」

 もう31歳じゃない?

 そう声を掛けようとして、ベルに名前を呼ばれてあたしは視線を戻した。

「アゲハ、話が――」

 ピリリリリ、ピリリリリ――。

 絶妙なタイミングで誰かの携帯電話が鳴った。自分の携帯はマナーモードにしていたから、あたしはてっきり吉野さんかと思った。

「ちょっと、ごめん」

 だから、ベルがスーツの内ポケットを探って携帯を取り出して、手慣れた手つきで二つ折りの携帯を開いて電話に出る姿を見た時、あたしの耳元では心音に合わせてどくどくと血の流れる音が聞こえていた。

 ねえベル、その携帯は――優花さんが用意してくれたの? それとも自分で契約したの?

 じゃあ、今まで使っていたやつは……もう必要ないの?


 電話の相手は何を喋っているかまではわからなかったけれど、声は女性のものだった。

「へえ、ポールスミスのフルオーダーとは。安く見積もっても40万……」

 後ろの吉野さんがぽつりと呟く。

 よ、よんじゅう……? あのスーツが?

 まじまじと観察すれば、彼のスーツは皺も汚れもなく着古した感じもしない。身体にピッタリとフィットしていて、自分の身体に合わせて仕立てたように見える。フルオーダーなら実際そうなのだろう。

 腕時計を見るために曲げた肘の部分にはやわらかな皺ができて、腕を戻した次の瞬間には跡形もなく消えていた。

 上質な素材で作られた証――。

「わかってる、すぐ行くから……」

 ベルは携帯の通話口を手で押さえてあたしに向き直った。

「アゲハ、少し話がしたい。今からいいかな?」

「今、から……?」

 でも、すぐ行くって言ったじゃない。

「待ってる人がいるんでしょう?」

「大丈夫、少し待ってもらうから。もしもし――」

 ベルはあたしの回答を肯定と受け取ったらしく、笑顔を向けると携帯を構え直した。

 電話口からは怒り狂う女性の声で「レストラン」と「予約」という単語が漏れ聞こえてくる。

「でも少しくらい遅れたって……わかったわかった、君の言うとおりにするから――」

 申し訳なさそうな顔のベルと目が合った。

 彼が口を開いたから、その前にあたしが言う事にした。

「ベル、偶然でも会えて良かった。あのね、実はロジン、落して割っちゃったの。でもどこでも買えるやつならよかった。それと色々謝りたかったの。なんか、よくわからないこと言っちゃってごめんね。あたしあの時から熱があったのかもしれない――それだけ伝えたかったの。じゃあ、ね」

「え、待って、アゲハ!」

 その言葉にあたしは振り返らなかった。だって笑顔がもう顔から剥がれ落ちる寸前だったから。

 本当は、回れ右をして吉野さんと目があった時には笑顔はもう跡形もなく消えていた。

 だからあたしは逃げるようにその場を去った。

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