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恋の悩みを知る君は  作者: 来栖ゆき
5章 もう飛ぶまいぞこの蝶々
35/48

◆5◆

 やっぱりあたしは健康だった。

 月曜の朝に起きたら何故か身体は軽く、むしろ午後8時に寝た影響か目覚めも良く頭もスッキリしていた。

 喉はちょっと痛いけれど、風邪ウィルスは土日の2日間でどこかへ行ったらしい。

 ベルはここを出て行くときも顔色が良くなかったし、ちょっと前に舞子ちゃんが風邪を引いた時だって3日休んたのち、調子が悪そうに出社していた事があった。

 こんなんじゃ、風邪を引いたと言ってもきっと誰も信じてくれないのだろう。それでも抵抗力の賜物なんだから、喜んで受け取っておくべきかしら?

「おはよー」

 ……と、いつものように戸を開けて、一人なんだと改めて思い知らされながら、朝食のトーストとコーヒーを自分で用意した。

 トースターを開けて食パンを置き、コーヒーメーカーのスイッチを入れた時、久しぶりすぎて不思議な感覚に陥った。どうして? と一瞬疑問が過ぎり、すぐ答えが出た。不意に泣きたくなったけれど、あたしはぐっと涙を堪えた。

 あまり考えないようにしようと思っていても、この狭い部屋の中にはところどころにベルの記憶が残っていて、これが結構難しかった。

 ベルの影響力は計り知れないらしい。記憶の片隅から追い出すことを早々に諦めたあたしは、いつもより早めに家を出る事にした。

 今までと同じを意識して、着替えて化粧を終わらせて……いつもと同じようにサイドテーブルに置いたバラのネックレスに手を伸ばしてピタリと止まる。

 チェーンが切れてしまった――正確には吉野さんに切られたという方が正しい、このバラのネックレス。試しにセロハンテープで切れた部分を繋げてみたけれど、流石にこれは……な見た目になっていた。

 他に持っているネックレスはシルバーのものしかなかったから、チェーンを付け替えるという選択もできず、今日は身に着けることを諦めた。

 そのせいで、信号や電車を待ちながら考え事をしている時、ついつい首元に手を持っていき、何もなくてはっとする事が数回あった。いつのまにかバラのペンダントトップに触れるクセがついていたらしい。

 首が心許なくて、まるで裸にされたような恥ずかしい気持ちになるのはきっと気のせいじゃないはず……。

 ああもう!

 こんな事になったのも全部吉野さんのせいだ。会ったら思い切り文句を言ってやるんだから!



「おはよう、ちょうちょちゃん」

 1階のエレベーターホールで吉野さんと会った。

「お、おはよう……ございます」

 って、なに目そらしてんの、あたし! 文句言ってやるんじゃなかったの!?

 ポーンと軽い音を響かせてエレベータが到着する。開いた密室の中に乗り込むのはあたしと吉野さんだけだった。

 狭い空間に……二人きり――。

 吉野さんは階数ボタンのパネル前に立つあたしの斜め後ろを陣取って壁に寄り掛かった。

 何故わかったかって? 扉の一部やパネルのまわりが鏡のようにピカピカの金属で、そこに映っていたから。

 視線はあたしの後頭部のようだ。

 平常心よ、あたし。何も気にしてないもん! 気にしていたら、からかわれるだけ!

「俺があげたネックレスつけてないの?」

 5階を押してドアを閉め、密室になった瞬間、吉野さんはそう言った。

「つ、つけません! あたし怒ってるんですよ! なんであんな事したんですか? 嫌がらせにしてはひどすぎです!」

 怒りを滲ませた声で、けれどあしたしは吉野さんではなくパネルに向かって話かけた。目を合わせたら多分言いたいことが言えなくなると思ったから。

 小心者だと笑ってもいいわよ、もう!

「そんなの――好きだからに決まってるだろ?」

「…………は?」

 好き? 誰が? 誰を?

 あたしは思わず振り返り吉野さんの顔をまじまじと見た。けれどそのポーカーフェイスからは何を考えているのかがわからなかった。

「なんでそんな驚いた顔をするんだ?」

「え、だ、だって……だって……えぇ!?」

 あたし、このときすごく変な顔してたと思う。

 吉野さんはそんなあたしを見て、出来の悪い部下を叱ったのにまったく効き目がなかった、という顔をした。

「や、だって……え、何でですか……?」

 だって――今まで吉野さんはあたしに対して鬼のように厳しかったし、好きアピールなんて一切していなかった。

 あたしは馬鹿じゃないんだから、好意を向けられれば気づけるはず……。

 むしろ逆に嫌われてるんだと思ってたから、寝耳に水だ。

「あの、えっと……あれ?」

 あたし今、なんて言おうとしたんだっけ? 頭が現状について行けてないらしい。

「ちょうちょちゃんが好きだからキスした。俺に振り向いてほしかったからね」

 吉野さんは涼しい顔をして言った。

 このエレベーターがすごい熱く感じているのは、ひょっとしてあたしだけ?

「どう? 俺と付き合わない?」

「な、何言ってるんですか!」

「俺、本気だよ? 嫌いなヤツにキスなんてしないだろう?」

「あたし……今、恋愛する気分じゃないんです」

「ふうん……」

 いつの間にか吉野さんはあたしの目の前に立っていて、目を細めて疑わしそうに見る。

「ひょっとしてあの外国人に振られた? 俺達がキスしたの見られたから?」

「そ、そんなんじゃ……ないです!」

 振られたわけじゃない。だってあたし達は付き合っていなかったから。

 でもあたしは結局何も言えなくて、無言で吉野さんに背を向けて階数ボタンをじっと見つめた。

「そう……別れたのか」

 あたしは先ほどの怒りと気合が萎んでいくのを感じながら、早く5階に着くことだけを願った。

 今すぐにでもこの場から逃げ出したい。でないと泣いてしまいそうだったから……。

「でも悪いとは思ってないよ。俺、ちょうちょちゃんが傷心だろうと恋愛の気分じゃなかろうと、手緩める気ないから」

 エレベーターが5階に着いて扉が開いた。

 先に降りて逃げようとしたら、吉野さんに肩を掴まれ、ぐいと引かれる。

「わっ!」

「てっとり早く忘れさせてあげるよ――」

 引かれた拍子に耳元でそう囁かれ、吉野さんはあたしを追い抜いてさっさとエレベーターを降りて行った。

「な……なんなのよ!」

 耳に残った囁き声の感触を消そうとして、あたしは耳元の髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜた。



 吉野さんからの突然の愛の告白に、怒る機会を失ったあたしが制服に着替えて席に着くと、その当事者はいつも通りにしていて、目を合わせるといつもの笑みを向けてから外回りに出かけていった。

 なんなのよ、気にしているのはあたしだけってこと?

 まったく、どこまでが冗談で、どこまでが本気かわからない人――そんな人とは距離を置くに限る。

 それにあたしは、これからは仕事を生きがいにしようとついさっき、心の中で誓ったのだ。愛だの恋だの生きていく上では必要ないでしょう?

 必要なのはお金――そう、働くこと!

 うん、あたし仕事ダイスキ!

 それだけに集中すればいくらか心が救われた気がして、あたしは電卓を無心で叩いていた。

 もうベルの事で心を痛めたり、吉野さんの言動に惑わされたりはしない!

 雑念に支配されないよう、集中力をかき集めていたところで舞子ちゃんの不満の声が横から聞こえてきて、あたしは彼女と部長の言い争いを横目で見た。

「ただでさえ月末で忙しいのに、それでもやれっていうんですか?」

「いや、月末に終わらせろって言ってるんじゃなくてだねぇ……」

 流石の部長も舞子ちゃんにはお手上げのようだった。隣の席のあたしをちらっと見たその目は、困り果てた様子で「なんとかしてくれ」と語りかけていた。

「部長、その資料あたしがまとめますよ」

 あたしはとにかく忙しくなりたかったから軽い気持ちで引き受けた。

「え、いいの? 悪いね深山さん……営業担当は吉野君だから、あとはよろしくね」

 ファイルをあたしに手渡した部長は逃げるように去って行った。

「えっ!」

 吉野さん担当の案件!?

 しまった! 距離を置こうと思った矢先に自ら縮めてしまうなんて……。

「あの、センパイ……なんか押し付けちゃったみたくなっちゃって……スミマセン」

 舞子ちゃんは先ほどとは打って変わって申し訳なさそうな顔をした。

「吉野さん、自分でやればいいと思って、アタシ断ったんですケド……」

「あ、ううん大丈夫よ、あたし、これからは仕事に生きる事にしたから……」

 舞子ちゃんはキョトンとした顔を向けたから、あたしは笑って誤魔化した。

 一人って楽でいい。

 早く帰る事も必要ないし、好きなだけ残業できるんだから。

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