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恋の悩みを知る君は  作者: 来栖ゆき
5章 もう飛ぶまいぞこの蝶々
33/48

◆3◆

 どうしてだろうか、起き上がっていると頭がぼうっとしてきて部屋がぐるぐると回っているような気がしていた。

 ちょっと飲み過ぎた翌日に起きて天井を見つめると、四隅の角がゆっくりと右回りに回るような感じ。

 あ、目が回ってる、まだお酒残ってるのね……みたいな状態に良く似ていると思った。

 けれど不思議と飲み過ぎた後の気持ち悪さはない。

 実際、昨日はそこまで飲んていなかったから、この不可解な頭痛や寒気や倦怠感が、一体どこからきているのかわからなかった。

「なんか、ダメかも……」

 どうしても起きていられなくて、あたしは空になったマグをテーブルに置くと座っていたソファにどさりと倒れ込んだ。

 見慣れた天井がいつもと違って見える。

 なんでだろう?

 少し肌寒さを感じて隅に畳んであった毛布を足で引っかけて手繰り寄せた。

 もう一人だから、お行儀が悪いとか、女の子らしからぬ行動とか――気にしなくていいんだもんね。

 こっちの方が気楽でいいもんね……。

「はあ……」

 思いだすのは、振り返り様に見せるベルの屈託のない笑顔――。


 あたしは苦し紛れに夢だったのかも、と思ってみることにした。

 ベルナルドという人物は存在しなくて、あたしはこのアパートに引っ越してきて、一人暮らしを満喫していて……。

 引っ越したタイミングで買ったこのソファは、友達が泊まりに来た時、寝られるようにと買ったソファベッドだった。

 まだ1ヶ月も使っていないのに、ソファにはすでに白檀の香りが染みついている。

 それは――何故? と考えて、瞑っていた目を開けた。

 ベルを思い出してしまった。失敗……。

 横を向いて背中を丸め、膝を抱えた。

「あれ、これって……」

 目線の先、テーブルの下に転がっていたのは円柱形の小さなアルミケースだった。腕を伸ばして拾い、蓋をあけて中の飴色を見つめる。

「ワスレモノ?」

 これは確か――バイオリンを弾くときに必要不可欠な松脂(まつやに)というものだ。

 ベルがバイオリンを弾く前に弓の毛に塗っているのを見て、それは何かと質問したことがあった。

rosin(ロジン)だよ。こうやって――毛に塗るんだ。これを塗ることで、弦を弓で擦ると音がでるしくみなんだ……」

 ロジンは何で作られているのかな、と思ったあたしは後でパソコンで調べでみたんだ。そして日本語では松脂と呼ばれるものだという事がわかった。

 ついついあの時の事を思い出してしまい、知らず知らずのうちに頬が緩んだ。

 ベルはあたしがバイオリンに興味を持ったのが嬉しかったらしく、他にも聞いていないのに色々と教えてくれたのだった。

 例えば、弓の白い毛は白馬の尻尾の毛だとか、バイオリンの弦は、昔は羊の腸から作られたものだったとか――。

 驚いたあたしが楽器をまじまじと見つめていたら、ベルは「この弦はナイロン製だよ」と微笑みながら教えてくれたっけ。

 バイオリンの話をしているベルはいつもキラキラしていて、すごく楽しそうで、あたしはその笑顔に毎回キュンとした。

 またその顔が見たくて疑問が生まれるとすぐ彼に尋ねたりしてみたんだ。

 それはすべて、このアパートで、このリビングで本当にあった現実だった。


 このまま終わるなんて……やっぱり嫌……かも。

 あたしはほったらかしにしていた携帯を拾い、送信履歴からベルを選択して通話ボタンを押――そうとして一瞬迷った。

 落ち着いたら電話をして欲しいと言われた。でも……ここを出てから3時間後に電話するのってどうかしら?

 あたしは今落ち着いているの? 落ち着いて話をできる?

 もしかしたら今頃、ベルは優花さんと親密な話をしているのかもしれない。

 親密になりすぎている可能性も……。

「うわぁ!」

 とんでもなく下世話な想像をしてしまった事を悔いた。

 そもそも……電話してなんて言えばいいの?

 少し迷った後、手の平の松脂を凝視した。

「そうだ、これだ!」

 松脂を忘れて行ったことを伝えて、ついでに謝ればいいのだと思いついた。

 ……あたしって、こんなキッカケがないと電話もできないの?

 しかも謝る方がついでって……性格がひねくれすぎだ、と思った。

 自分で思って悲しくなった。

 でも――優花さんと会ってずっと黙っていた事、それから八つ当たりしてしまった事はきちんと謝りたい。作ってくれた朝食のお礼も言いたい。

 あたしとの生活を……最後にあんな思い出で終わらせてほしくない……。

 彼の幸せを奪うような余計な事は言わない。

 昨日のキスの理由も……聞きたいけど。いや、やっぱ聞きたくない! それだけは聞くのを止めようと思い直した。


 携帯とのにらめっこが終わると、あたしは通話ボタンを押して携帯を耳に押しつけた。

 あれ、なんか顔が熱くなってきた……。

 意識が朦朧とする。あたし、緊張しすぎじゃない?

 プルルルル――プルルルル――。

 呼び出し音が聞こえ始めると緊張のせいか心臓もそれに合わせてドクドクと脈打つ。そして、どこか遠くの方から――玄関の外からカノンのメロディが聞こえてきた。

 その曲はベルの電話用の着信音だった。

「うそ……ベル!」

 帰ってきてくれたの!?

 扉を隔てているせいで聞こえずらい着信音。

 でもこの音は……ベルは今、玄関の外にいる?

 あたしは飛び起きて玄関のドアを開けた。

「ベル!」

 けれどそこには誰もいなかった。

 音の発信元を探してキョロキョロと探し回るとそれはすぐに見つかった。郵便物の受け口に携帯が押し込まれるように挟まっていたから。

「ど、どうして……?」

 どうして携帯を置いて行ったの?

 そう思ってはっと気づいた。

 優花さんの笑みを、彼女の策略を――。

 しばらくすると着信音は止まり、あたしの携帯からは留守番電話に接続しているというメッセージが流れ始めていた。

「……どこに行ったのかわからないんだから――携帯がないなら……もう会えないじゃない」

 彼がここに来ない限りはもう会えないということ。

 今はじめてその事実があたしの脳に届いたようだった。

 そうだ――もう会えない。

 あたしの手から、するりと松脂が転がり落ちた。

 あ! と思った時にはすでに遅く、アルミのケースは乾いた音を立てて地面に叩きつけられた。

 落ちた拍子に蓋が外れ、割れた飴色の松脂が散らばった。

「割れやすいから扱いにくいんだ――」

 伏せ目がちにそう言いながら、丁寧に松脂を弓に塗るベルの姿が脳裏をよぎる。

 それはもう見事に――砕けてしまった。


 立っているだけでフラフラして、まるで雲の上を歩いているような不思議な感覚に見舞われたあたしはソファにどさりと倒れ込んだ。

 これはきっと天罰だ。

 嘘を吐いた罰。

 黙っていた罰。

 隠していた罰。

 他にもたくさんあるはずだ。

 カミサマは最もひどいやり方であたしを地獄に突き落としてくれた。

 会う機会はおろか、謝る機会さえも与えてはくれなかった。

 勝手にベルを好きになって、親切を押し売りしてここに住んでもらって、ご飯を作らせて……片想いでもいいと自分に言い聞かせながら、彼のためと裏で優花さんと会った。そのことを秘密にして、手紙を隠して、それが知られたら八つ当たり。

 そしてあたしは最後にこうして罰を受けた――。



「あれ、今何時……?」

 あたしはソファでうたた寝をしていたらしかった。

 すでに日は傾いていて洗濯の機会が失われたことを物語っている。

 ここまで寝入るつもりはなかったのだけど、起きたら頭痛が復活していてすごく寒気を感じたから、こんな状態なら昼間でも洗濯は諦めたかも、と思い直した。

 ああ、これはもしかすると……。

 救急箱から体温計を取り出して脇に挟んだ。ちらりと見れば電子数字はゆっくりと、そして確実に上昇していく。

 身体は熱いのになぜか寒くて、あたしは腕を身体に巻きつけていた。

 まさか……風邪引いた?。

 記憶を辿っても熱が出る風邪は久しく引いていなかったから、あたしは朝からずっと纏わりついていた気怠さが何なのかわからなかった。

 体温計はいよいよ38度を超え始め、じっと見ていたら本当に熱があるんだという実感が沸いてきて、あたしは途中でスイッチを切った。

 この風邪は……もしかして昨日のあの……?

 ああ、もう……やられた……!

 うつされた原因を思い出せば、首から上にかけて体温が集中して上がった気がした。

 鼻の奥がつんとして、悲しくないのに涙がでそうになる。ふわふわして夢を見ているような不思議な感じだ。

 本当なら水枕を用意してベッドに入るべきだけど、それさえも億劫に思えてしまい、あたしはソファで丸まった。

 のどか沸いた……スポーツドリンク、ちょっと残ってたよね。

 よし、あと10数えたら立ち上がって……冷却シートを額に貼って、ここよりは温かいベッドに入ることにしよう。

 いち、に、さん……。

 そしてあたしの視界は、カウントの途中で闇に包まれた。



 熱くて喉がからからだった。

 だってあたしは砂漠を彷徨っているんだから。

 どうしてここにいるんだっけ? あたしはそれさえも思い出せなかった。

 でもそんな事はどうでもいい。あたしがすべき事は、この道のない道をひたすら歩き続けることだけ。

 けれど、一体どこへ向かっているのか、どうして歩いているのかはわからない。

 しばらくしてから気づいた、これは罰なのだと……。

 それであたしは砂漠に送られたんだっけ?


 お願い、どうしても水が飲みたいの。冷たい水で喉を潤したい。

 喉がカラカラで、もう死にそうだった――。

 何度目かの祈りのあと、口に柔らかいものがあてがわれて、喉を生ぬるい水が通り抜けた。

 もう少し……欲しい。

 ぐいと背中を起こされて無機質な感触の――冷たいコップが口元に押し付けられた。今度は冷たい水だった。

「アゲハ……」

 誰かに名前を呼ばれた気がする。

 誰かが何かを喋っている。

 おかあさん……?

 ふわふわした感覚の中で感じるのは、背中に当たる優しい温かさと、水の中に浮かんでいるような揺れだけ。

 誰かに守られているような安心感で満たされた。こんな気持ち、子供の時以来じゃないかな。

 小さい頃は父や母に良く抱かれて寝た事があった。それも弟が生まれるまでの事だったけれど……。

 それ以来の感覚だった。

 うっすらと目を開けると‘誰か’と目が会った。

 ずっとこのままでいたい――どこにもいかないで欲しい。

 お姫様抱っこって、いくつになっても女の子の憧れでしょう?

 これって、最高に素敵!

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