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恋の悩みを知る君は  作者: 来栖ゆき
5章 もう飛ぶまいぞこの蝶々
32/48

◆2◆

「ユーカ……? 君が? 本当に?」

 ベルの驚いた声が聞こえる。でもあたしだって彼以上に驚いていた。

 あんなメッセージをあたしに頼んでおいて、優花さんが現れるとは――ベルに会いに来るとは夢にも思わなかったから。

 彼女には婚約者がいて、音楽の道を諦めたベルとは二度と会わないと言っていたのに、どうしてここに来たの?

 声を聞いて思わず寝室から飛び出したあたしはリビングで立ち尽くすばかりだった。

「まだ日本にいたのね、会えてよかったわ!」

 優花さんは鈴のようなかわいらしい声音でベルに笑いかけていた。

「聞いてベルナルド。あの手紙の返事には理由があるの……」

「手紙の……返事?」

「ええ、ミヤマアゲハさんから手紙を渡された時、私ホントは――」

「ちょっと待って、手紙って、僕の?」

 ヤバイ……あたしの背に一筋の汗が流れた。

「そうよ……あら、聞いてないの? あなたの手紙を私の事務所に持ってきたのよ」

 彼女が、と言いながら優花さんはあたしを指さした。

「聞いて、いない……」

 ベルはその指の先を追ってゆっくりと振り向き、雷に打たれたような驚愕の表情をあたしに向けた。

「アゲハ……これはどういう事? ユーカに会ったの? いつ?」

「あの、えっと……」

 優花さんが現れたタイミングはあたしにとって最悪だった。

 昨日の一件で気まずいと思っていたうえに、隠していた秘密が露見した。

「い、言おうとは……思ってたの……」

 言いよどむあたしを見て、ベルは踵を返すと大股でリビングへと戻ってくる。

 ど、どうしよう……何から話すべき?

 パニックを起こしそうになったその瞬間、ベルの背後からあたしを覗き見る優花さんと目が会った。

 彼女の瞳には「余計な事は言わないで」という強い感情がこめられている。

 そしてあたしは同時にあることに気づいた。

 優花さんは婚約指輪だと自慢げに見せびらかしてくれたダイヤの指輪をはめていない。

 それが意味することは一つ――。

 理由は何であれ、優花さんは他の男性と結婚する事を彼に隠したがっている。あるいは既に婚約を解消しているのかもしれない。

 とにかく優花さんは、何らかの理由があってベルとのよりを戻したいと望んでいるようだった。

 彼女と数秒間目が合ったのち、あたしはそう悟ったのだ。

「ユーカの居場所を知っていてずっと黙っていたの? いつから?」

 ベルに肩を掴まれ、あたしは現実に引き戻された。

 彼の目に動揺の色が見える。

「答えてアゲハ、どうして?」

「そ、それは……」

 そんなの決まってるじゃない、真実を伝えられなかっただけ。探していた人は他に婚約者がいて、あなたへの別れの言葉をあたしに押し付けた。

 真実を伝えてベルの傷つく姿を見たくなかった。だから言わなかったの――。

「ベルナルド、ちょうどいいわ、その話は私からする! ミヤマアゲハさん、あなたもそう思うでしょ?」

「いや、だめだ。アゲハ、いつユーカと会ったのか説明して欲しい――。それから昨日の件についても……僕たちは色々と話し合う必要がある」

 話し合いって……何を話すの?

 あたしは真実を伝えるべきなの――?

「あら、ミヤマアゲハさん?」

 優花さんは先ほどまでの焦りの表情を隠すと、口元に笑みを浮かべて妖艶に微笑んだ。

「ねえ、よく見ればヒドイ格好よ! 一体どうしたの?」

 小鳥のようにクスクスと軽やかに笑う彼女に、頭の先からつま先までまじまじと凝視されて、あたしは自分の姿がどれだけ酷いかを思い出した。

 ボサボサのはねた髪、顔だって一晩泣いた後で恐ろしいことになっている。

 昨日のままの服はよれよれで、きっと汗臭くて居酒屋特有のお酒とタバコの臭いも全身についているはずだ。

 そんなあたしとは対照的に、優花さんはつやつやの栗色の髪をふんわりとシュシュで軽く結って右横に流している。服装も化粧も完璧で、まるで童話の世界のお姫様のよう……。

 あたしの前に立つベルは優花さんを振り返り、またあたしに視線を戻した。

 実際はそういう意図でした行動ではないのだろうけれど、どうしても見比べられているように思えて恥ずかしくなる。

 もう消えてしまいたい……あたしはくるりと背を向けると、脱兎のごとく寝室へと逃げた。

 ベルが気づいて手を伸ばしたけれど、その前にバタンと戸を閉める。

 これ以上誰にも自分の姿を見られたくなかった。

「ねえ、そんな態度を取られたら話せない」

 閉めた戸にもたれて開けられないように押さえていたら、コン、と戸を叩く振動を背中に感じた。

 けれどあたしは何も答えなかった。子供っぽい事をしていという認識はある。

 でも今は話したくない、何を話していいかわからない――。

「アゲハ、あまり僕を困らせないで……」

「なによ、それ……」

 あたしはなぜかその言葉にカチンと来た。

 ベルを困らせているのはあたしで、だから全部あたしが悪いって言うの?

 誰のために手紙の事を、優花さんに会った事を黙っていたと思っているの?

 あたしの中に傲慢で自己中心的な気持ちがむくむくと膨れ上がる。それを止められなかった。

 本来なら大人の対応を、冷静な態度を取る必要があったにもかかわらず、あたしは感情を爆発させた。

「あたしを困らせているのはベルの方じゃない! どうして全部あたしのせいになるの!?」

 ……本当はこんな事を言うつもりはなかった。

 わかってる、ただの八つ当たり――。

「アゲハ……」

 呆れたような、イライラを抑えるような声音であたしの名前を呼ぶ声が聞こえ、ぐっとドアに力が込められた。

 開けられる! そう気づいたあたしは必死で戸を押さえる。

 お願いだから、ここを開けないで――。

「ねえベルナルド、ここは寒いわ。私のマンションで話しましょう?」

 優花さんの声でベルの力が少し緩む。

「何があったかは私から話すわ。それに今は彼女を一人にしてあげた方がいいんじゃない?」

 優花さんは今すぐにでもここを離れたいらしい。

 あたしに余計な事を言って欲しくないのだろうと思った。

「下にタクシーを待たせているの。一緒に来ないのなら、私はもう帰るから」

 そうよ、あたしは何も言わないから……だからさっさと行って。

 お願いだからあたしをこれ以上惨めな気持ちにさせないで――。

「……そうだね、僕も今は冷静に話ができなさそうだ」

 なによそれ……。

「僕達は少し――距離を置いた方がいいのかもしれない」

 距離を置く前から、あたし達の間には距離が開きすぎている。

「落ち着いた頃に電話をして欲しい。待ってるから――」

 けれどあたしは何も答えなかった。

 しばらくするとベルが戸の前から離れる気配を感じた。

「ベルナルド、私も荷物を半分持つわ!」

「重いからいいよ……じゃあ、このジャケットを持っていてくれる?」

 そんな会話が少し遠くから聞こえて、それから玄関のドアが閉まる音が静かな室内に響いた。


 ずっと戸を押さえていたあたしは、もう必要ないのだと気づき手を離してその場にぺたんと床に座り込んだ。

「距離を置こうって……今以上に離れたら――あたし達、ただの他人じゃない」

 自嘲気味につぶやいた声は思ったよりも部屋とあたしの心に響いた。

 あたしはとうとう一人になった。

 きっとこれで良かったんだ。

 優花さんは心変わりをしてベルに会いにきた。

 ベルはずっと探していた恋人と出会えた。

 わざわざ最愛の人の裏切りを伝えるべきではないでしょう?

 だからこれでハッピーエンド……。


 ほんと、自分を犠牲にするなんて馬鹿みたいだ――。

「それに、電話なんてできるわけないじゃない……」

 鞄の中から例の手紙を取り出した。ベルに見つかったらと思うと部屋に隠しておけなくて、ずっと持ち歩いていたのだ。

 あたしはどうしてこの手紙をベルに渡さなかったんだろう。

 渡していたら、今ごろどうなっていたのかな?

 裏を返すと優花さんのメッセージが目に入った。

 どうしてあたしはこの手紙を最後まで隠し続けたの?

「……馬鹿じゃないの!」

 自分の愚かさに腹が立ってあたしは手紙を二つに破いてゴミ箱に投げ捨てた。



 しばらくぼうっとした後、あたしはふらつく足取りで浴室に入り、熱いシャワーを浴びた。髪を洗い、身体を洗って30分後にはパジャマ代わりのスウェットに着替えて歯を磨いた。

 髪の毛をドライヤーで乾かしていて、途中で面倒になって止めた。

 日課ってすごい。考え事をしていても、していなくても身体は勝手に動いて必要な行動をとってくれるのだから。

 頭痛が収まった代わりに今度は寒気がしたから温まろうと思った。

 キッチンへ向かうとガスコンロの上のミルクパンには冷めたロイヤルミルクティ。空のマグと彼の飲み残しのマグが横に置いてあったから、残っている分はきっとあたしのなのだろう。

 ラップのかかったサラダとイングリッシュマフィン、フライパンにはベーコンと目玉焼きがある。

 ベルは昨夜あんな事があったにも関わらず、いつものようにあたしの朝食を作ってくれていた。

 それなのに、あたしはなんてひどい仕打ちをしたのだろう……。

 温め直したミルクティはあたしに優しい味と香りを届けてくれた。

 喉の奥から温かくなっていくようでほっとする。

 コーヒーではなくミルクティを用意してくれたベルの気遣いが垣間見えて、枯れたはずの涙がまたあたしの頬を濡らした。

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