◆2◆
ベルナルドの荷物は小さいスーツケースと瓢箪みたいな形をした楽器ケースだけだった。本当に身一つで日本に来たらしい。
「あの、優花さんには日本に来る事、伝えてなかったんですか?」
聞いていいのか解らなかったけれど、あたしは好奇心には勝てなかった。
プロポーズ大作戦を決行するために国境を越えて来たというのに、相手が行方不明というのはあまりにも切なすぎるし、サプライズを計画して失敗したのならとんでもなく不憫でならない。
「伝えました。結婚を申し込むから待っていて欲しいと――」
ベルナルドはマグカップを両手で掴み、中の黒い液体をじっと見ている。
「ユーカは喜んで、待っていると手紙をくれました……」
「それは――何年前の話ですか?」
ちょっと見知らぬ優花さんに同情してしまう。女は期待させておいて待たされるのは嫌いなのよ?
「大体ひと月前です。それから色々準備をして、パスポートを用意して日本に来ました」
「ひと月……?」
という事は、優花さんって人は待っているという手紙を投函してこのアパートを出払ったのだろうか。どうしてこんなイケメンのプロポーズ予告を受けていなくなったの?
もしもあたしが優花さんの立場だったら――そう、喜び勇んで結婚雑誌を買い漁って、一人ででもいいから式場に見学に行って、あとエステにも通いたい。
会社は……寿退社には憧れるけれど、子供が出来るまで続けるか、産休を取るか。
うーん、こればかりは相手の稼ぎによりけりだわ。
でももしイタリアに行く事になってしまったら会社は辞めないとダメね。あたし英語喋れないのに海外でうまくやっていけるかしら。あ、違う、イタリア語か。
どうでもいい妄想に花を咲かせていたら、ベルナルドは不思議そうな顔であたしを見ていた。急に黙って眉間に皺を寄せて、大真面目にくだらない未来を考えているあたしの顔を。
「アゲハさんが突然黙ったから、どうしたのかと思って」
「ご、ごめんなさい、優花さんがどこに行ったのかって考えていて……」
あたしは咄嗟に嘘を吐いた。会話中に妄想トリップなんて最悪だ。
けれどベルナルドはそれを聞くと、憂いを帯びた瞳で微笑んだ。
「アゲハさんは優しい人ですね」
グフッ!
今のはダメージが大きい。本当は阿呆みないな妄想してました、なんて死んでも言えなくなってしまった。
あたしはコホン、と咳払いをして話題を変えることにする。
「でもどうして手紙なんですか? メールや電話だったらすぐ連絡がつくし、便利だと思いますけど」
「うん、どうしてかな……」
ベルナルドはテーブルに置いてあったエアメールの宛名をそっと指で撫でた。優花さんが書いた彼の住所と名前の部分を。彼女の文字までも愛おしむような、優しい表情で。
それを見てあたしも気づいた。メールよりも手紙の方が心がこもっているのだから。それに国際電話も高そうだ。
あたしは愚かな質問をしてしまった事を心の中で後悔した。
「もしかして……引っ越しましたっていう手紙を出したのかもしれないですね?」
前向きに考えてほしくて、あたしは他の可能性を模索することにした。
「では行き違いになってしまったのかな。どうしてもユーカに早く会いたくて……性急過ぎたでしょうか?」
「そんな事ないですよ! 早ければ早いほど嬉しいですって!」
優花さんが羨ましいと思った。プロポーズのために国境を超えてくるイケメンにすごく愛されているのだから。
あれ、でもその割には間違えたのよね?。
「その優花さんって人は、あたしと似てるんですか?」
誰だって気になるでしょう? イケメンをここまでメロメロにする女性の存在が。
あわよくば今後の参考にしなくては、と思ったあたしは、彼にそう聞いてみた。
けれどベルナルドは言いにくそうに後頭部を掻いている。
もしかしてあたしなんかと間違えてしまった事が言いにくいの? もしも優花さんがあたしと似ても似つかない美人だっていうなら、間違えた自分が許せないと思うのは解るけど。解るけどね……。
その返答によってはあたしもショックを受けるんですけど。
「実は……ユーカには一度も会った事がないんです。彼女は僕の顔を知ってますけど」
「はぁ!?」
変な声が出てしまったのは確か。あと、テーブルに乗り出してベルナルドの顔をまじまじと見たのも、彼が一瞬怯えた表情になったのも。
あたし、目が血走ってたかもしれない。
だっておかしすぎるでしょ、この人は顔も知らない相手にプロポーズしようとしていたの?
「5年間ずっと手紙のやり取りしかしていません」
「そう、なんですか……?」
ああそうか、だから間違えたのか。この住所に帰ってくる女性が自分の結婚相手って事なのね?だったら「結婚しよう」って言われた時にあたしがイエスと言えば良かったわけだ……。
って、良くないし!
「顔も知らない相手と、その……結婚しようと思ったんですか?」
見知らぬ文通相手にいい人だな、って思う事はあっても、結婚しようなんて発想は、普通は出来ない。あたしだったら絶対そんな人からのプロポーズなんて受けないと思う。
5年間手紙のやり取りをしてプロポーズされて、OKだした後に会って、相手がとんでもなく……だったら結婚出来る? いや、出来るのかな? そんな状況になってみないと解らない。
「人は顔じゃないでしょう? 少なくとも僕は顔だけで人を判断しません。彼女は心の綺麗な女性です」
それなのにベルナルドは、あたしの遠回しな「人間顔でしょ」発言にムッとして優花さんを擁護した。
青い瞳には情熱の炎がメラメラと見えるようだ。この人本気だ……本気で会った事のない優花さんの事を愛しているのだ。
5年間も文通して彼女の人となりを知って、それで結婚しようと思ったのだろう。
きっと世界の常識を覆す気だ……男女は出会ってから恋愛するっていう常識を。
こんなの小説か映画でしか聞いた事ない。お互い顔も知らない男女が手紙を通して心を通わせ、色々な障害を経て最後に結婚するのだろう。そんなの見せられたら、感情移入してラストで泣いてしまいそうな気がする。
「ごめんなさい」
これは全面的にあたしが悪いからきちんと謝っておく。
「優花さんって……とっても素敵な人なんですね」
そんな彼女と比べて、あたしは性格があまりよろしくないみたい。さすがにこれはちょっとヘコんだ。
最後に幸せになるのは、何があっても諦めない心の綺麗なシンデレラ……それが優花さん。あたしは何も努力しないで、いい出会い落ちてないかな、いい男いないかな、なんてぐうたらと生活している義理のお姉さんってところだろう。
そして当然シンデレラの前には心優しい王子様が現れ、義理のお姉さんの前には……顔は良いのにイジワルな会社の先輩くらい?
「ユーカはね、とても優しくて頑張り屋さんなんだ。僕が夢を諦めかけた時、ずっと応援してくれた。自分も頑張るから一緒に頑張ろうって言ってくれて……」
黒髪に青い瞳を持つ見目麗しい――けれど売約済みの王子は、はにかんで頬を染めるとマグカップの持ち手部分をいじりだした。
かわいい仕草でどうやら照れているらしい。
「じゃあ、早く見つかるといいですね」
「ありがとうアゲハさん。あなたもとても優しい人です。見知らぬ異国の人間を疑いもせず部屋に入れてくれて」
青い瞳を細めてベルナルドに微笑みかけられた。
つられてあたしも笑ってしまった。多分ニッコリじゃなくてへらっとした、なんとも言えない顔になってたと思うけれど。
よし、明日の朝に管理会社に電話して、解らなかったら大家さんにも直接聞いてみよう。このアパートの隣に住んでいる大家さんは噂が好きそうな近所によくいる風のおばさんだった。
あたしが引っ越しの挨拶に行った時、恋人はいるのかとか根掘り葉掘り聞かれた事を思い出した。だから優花さんの事も何か知ってると思うんだ。
そうと決まったらさっさと夕飯食べてお風呂入って――。
「あの、つかぬ事をお伺いしますけど、ホテルとか取ってますよね?」
行くところがないって言うから、つい部屋に入れてしまったけど。
「あ……会いたい一心で、飛行機のチケットしか取っていませんでした」
い、一途すぎでしょう!
この付近にはビジネスホテルもカプセルホテルもない普通の閑静な住宅街だ。駅に行けば24時間オープンの漫画喫茶があったはずだけれど……
さすがに女性一人のアパートに知らない男を泊めるわけにはいかない。どうしようかな、とちらっと見たら彼も察してくれたらしい。
「すみません、荷物は明日まで玄関に置かせて貰えますか? 僕は朝までそこの公園にいますから」
コーヒーをご馳走様でした、と言ってベルナルドは立ち上がった。
え、ちょっと待って! 外寒いよ! 天気予報では深夜に雨って言ってた気がするし。
「一晩くらいならいいですよ!」
何故か気付いたら、あたしはそう言っていた。
ベルナルドは驚いたような顔であたしを見ている。
当たり前だ、初対面の男女が出会った当日一つ屋根の下……マチガイが起きてもおかしくない。
でもそれは100%有り得ないと思った。だってこの人「優花ラブ」だし。
単身異国にやって来て、プロポーズをしようと思った女性が行方不明、泊まる場所もない。そんな人を寒空の下に追い出すなんてできなかった。
「一晩だけです。風邪なんか引いたら大変ですから」
そう、彼の一途さと誠実さを信じることにした。
「……いいんですか?」
申し訳なさそうにおずおずと聞き返すベルナルドに、あたしは精一杯の笑顔を向けて快諾しようとした。
けれど、あたしの胃はどうやら限界らしい。グーーと大きな音で食べ物を要求してきた。
「フフフッ」
ベルナルドの曇った顔が一転、太陽の日差しが射すようなまばゆい笑顔で笑われた。
「し、仕事終わってまだ夕飯食べてないんです!」
笑う事ないじゃないの、もう。
「ごめ、なさい……」
それでもベルナルドは笑う事をやめない。
すぐ食べるから、とコンビニで温めてもらった色気のない夕飯は、蓋に水滴を残して冷え切っていた。
途端にコンビニでパスタと迷って牛丼を選んだ自分を罵ってやりたくなった。