◆3◆
8時間の労働を終えたあたしは速攻で業務を終了して会社を出た。
目的はただ一つ、ベルの言う「聞いてほしい事」を聞くためだ。悶々と考えてもその答えは出なかったが、帰って本人に聞けばそれがわかる。
「あれ、真っ暗?」
けれど急いで帰ったにもかかわらず、アパートの外から見上げる部屋は真っ暗だった。いつもなら明かりが漏れているのに。
花屋の前を通った時、ベルは店先にいなかったからもう家に帰っているのかと思ったのだけど……。
「やだ、本当に帰っちゃったの!?」
急に不安に駆られたあたしは急いでアパートの階段を駆け上がった。
鞄から鍵を探して開けるまでが長く感じて手が震える。ドアを開け、靴を脱ぎ棄て、冷え冷えとした誰もいないリビングに駆け込んで手探りで電気を付けた。
「な、なんだ……いるじゃない」
ベルの荷物はあるべき場所にあった。
あたしは脱力してその場にぺたりと座り込む。
だったら、どうしてどこにもいないの――?
静かな部屋にはドクンドクン、といつもより早く鼓動を刻む音だけが聞こえる。落ち着くのよ、と自分に言い聞かせながら、ゆっくりと息を吸って吐いた。
電話をしてみようと鞄の中から携帯を取り出したところで携帯のバイブが震える。
待ち受け画面にはベルからの着信を知らせる表示――。
「も、もしもし!」
「アゲハ? あの、まだ会社?」
朝も聞いたベルの声に涙が出そうになるほど安堵した。
「もう家だよ。ベルは今どこ?」
少しずつ落ち着きを取り戻したあたしは、鍵を掛けていなかった事に気付いて玄関へ戻った。
「ごめんね、まだ池袋にいるんだ。これから電車に乗るから――どうかした? 何かあった?」
「え? な、何もないよ?」
ずっと握っていた鍵を所定のキーフックにかけ、脱ぎ捨てた靴を揃える。
「そう……声がいつもと違うから。焦ってる感じがしたんだ」
「えっと、さっき帰ってきたばかりだったからかな? あはは……」
ベルがいなくて焦ってました、なんて言えるわけがない。
「そうか……。あ、電車が来た。すぐ帰るから、でも戸締りはしっかりね」
「待ってベル、あたしね――……」
今池袋なら、家に帰り着くまで40分弱。
ベルが電話を切る直前、あたしは「夕飯作って待ってる」と伝えた。電話口から驚いたベルの声が聞こえたけれど、電話を切って聞かなかったことにした。
「やった、ふふっ。今日はあたしが作っちゃうもんね!」
料理できない子だと思われているかもしれないけど、あたしだってオイシイもの作れるんだから!
気合を入れて腕をまくると、冷蔵庫を開けて食材をチェックする。
「よし、グラタンにしよう」
レパートリーが多いわけでもないあたしが一番味に自信があるものだ。
「もし気に入ってくれたら、もう少しここに……居てくれるわけないよね」
現実に戻って電話での会話を思い出せば、舞い上がった心が一気にしぼんでいくのがわかった。
彼は今日池袋に行っていた。どうして池袋に言ったのか――そんなのわかってる、優花さんを探しに行ったのだ。
ベルは花屋で働きながらも何か情報を得る度、その場所に行っていた。顔も知らない相手に自分を見つけてもらうためだけに――それはとても効率が悪くて、とても愛を感じる行動……。
今日この日に彼が池袋に行ったという事で、あたしは「聞いてほしい事」がわかってしまった。
突発的な行動ではなく、きっと前々から決めていたのだろう。彼なり決断して――最後に池袋へ赴いて……そしてイタリアに帰国するのだ。
「独りだと部屋が寒いなぁ……」
不意に肌寒さを感じて独り呟いた。サクサクと歩きながら音を楽しんだ枯葉は、全て地面に落ちて幾日も経っていた。もうすぐ冬が訪れる。こうしてあっという間に月日が過ぎていくのだ。
家に帰るといつも彼がいた。
部屋が明るくて、温かくて、おいしいご飯があって、そして笑顔のベルが迎えてくれた。彼の「おかえり」という言葉がすごく心地よかった。でも、もうじき終わってしまう。
告白されるかも、なんて一日中ずっと一喜一憂した自分に呆れ果てた。
「しかも寝不足だしね」
独り言を言った拍子に手を滑らせて袋からマカロニをまいてしまった。
「あーもうっ! やめやめ、考えるのは無し!」
あたしは最後までベルの良き友人でいなきゃダメだ。
良き友人? ならば優花さんに内緒で会った事や手紙の事を黙っているのは良き友人のすること?
「そんなの、違うよ……」
秘密を抱えて嘘を吐いて騙し続けて、それでよく友達面ができるわね?
あたしの目から勝手に涙が溢れ出た。
落ち込んだまま食材を切り終え、鍋のホワイトソースを静かに混ぜていたら微かに雨音が聞こえた気がした。
ベランダのカーテンを開けると街頭に照らされた地面が濡れてきらきらと輝いていた。いつの間にか雨が降っていたようだ。
「傘……なんて持って行ってないよね?」
駅まで迎えに行こうと上着に袖を通したところでガチャリと鍵の開く音が聞こえた。
「おかえり! 雨大丈夫だった?」
あたしは笑顔を作ってひょいと玄関に顔を出す。
「あ、ただ……いま……」
「――って、ずぶ濡れじゃないの!」
滴る水が、立ち尽くすベルの足元に水たまりを作っていた。
「駅に着いたら降っていて……アゲハはどこかへ出かけるの? 買い忘れなら言ってくれれば――」
「迎えに行こうと思ってたの! とにかくそこにいて、今バスタオル持ってくるから」
あたしは洗面所から畳んだバスタオルを掴むと急いで玄関へ戻った。
「もう、駅着いたら電話してくれれば迎えに行ったのに! ここで軽く拭いたらお風呂に直行、いい? それから濡れた服はほったらかしにしないで洗濯機に入れといてよね!」
頭を拭くベルに立て続けにそう言ったら、彼は目を丸くしてあたしを見た。
「アゲハ……怒っている?」
「お、怒ってない!」
怒っているように見えたのだとしたら軽くショックなのだけど……。
「大きな声を出してたら……ごめん。でも風邪引く前にお風呂に入って温まって。浴槽にお湯も入ってるし、夕飯ももうすぐできるから……」
そう言うと、彼は目元を緩ませた。怒っていないと理解してくれたようであたしはほっとする。
「ありがとう。でもお湯はいいや、熱いから」
「だ、だめよ! 身体冷えてるでしょう! ちゃんと温まらないと風邪引いちゃうよ!」
聞こえているはずなのに、彼は振り返らずにバスルームへと消えた。
それから15分ほどで出てきたベルにちゃんと温まったのかと問いただしたけれど、10秒しか入っていないと聞き出せただけだった。
「いい匂いがする。チーズ? 何作ったの?」
「グラタンが今オーブントースターに入ってる。それから話題を逸らさないで!」
「大丈夫だよ、今すごく熱いんだ」
そう言うと彼はあたしの手を取って自分の頬に当てた。
「ほら、アゲハの手の方が冷たい。冷たくて……気持ちいい」
「わ、わかった……」
あたしがベルの行動に焦って文句を言わなくなると、彼はほっとした顔でドサリとソファに座った。
それからベルからの手伝いの申し出を却下して、あたしは笑顔でテレビのリモコンを手渡した。大人しく座って待ってなさい、ってこと。
オーブントースターを開けるとチーズいい匂いが部屋中に広がった。最後に降りかけた粉チーズがいい具合に焦げていて、料理の成功にあたしは顔がにやける。
「ベル、できたよー」
キッチンから彼のいるソファに向かって声を掛けてみるが何の反応もなかった。
寝ちゃったのかな、と思いつつ、耐熱皿に乗せた熱々のグラタンをリビングに運ぶ。思った通り、彼はそこで寝ていた。
きっと疲れているのだろう――そう思うと胸が締め付けられるように苦しくなる。
「こんなにボロボロになるまで、シンデレラを探す王子様……」
彼の汗をかいた額に無意識に手を伸ばし、甲で軽く触れてみる。
愛されている優花さんが無性に羨ましく思うと同時に苛立たしさも覚えた。ベルが今も彼女が好きなのは事実で、あたしが入れる余裕はないというのに、彼女は――。
「え……? 熱すぎじゃない!?」
軽く触れたベルの肌が思ったよりも熱かった気がして、あたしは手の平でもう一度、彼の額に触れた。
「アゲハ……?」
気づいて薄く目を見開いた彼の目が潤んでいる。
「熱がある! だからちゃんと温まってって言ったのに!」
「アゲハ、また怒ってる……?」
「怒ってるんじゃなくて心配してるの!」
あたしは救急セットをひっくり返して滅多に使わない体温計を探す。やっと見つけたそれは、電池切れなのか電源を入れても無反応だった。
「こんな時に使えないんだから!」
とりあえず冷やさなきゃ、とあたしは冷蔵庫の奥から冷却シートの箱を取り出した。
「って一枚しかないしっ!」
残暑厳しい夏の夜に使い続けた事を思い出した。あたし馬鹿すぎる!
「アゲハ……」
ベルの横に膝をつくと、彼は熱を帯びた瞳で見つめてきた。当たり前だ、熱があるのだから。
「これ貼っとくから、ちょっと待っててね」
額に冷却シートを張ると、彼は眉間に皺を寄せた。
「ゴメン、アゲハ……今、食欲がなくて……でも後で食べるから」
「何言ってるの、ダメよ。チーズなんて消化に悪いでしょう?」
お米を炊いておけばお粥を作れたのに……どうしてよりによってグラタンなんて!
あたしは自分の選択に思い切り後悔した。
部屋の隅にある折り畳まれた毛布をベルに掛けると、上着を着て鞄から財布だけを取り出した。
「どこ、に……行くの?」
「駅前の薬局行ってくる。あそこまだ開いてるはずだから。体温計と、冷却シートと……水枕の方がいいかな? それからスポーツドリンクもあった方がいいよね」
風邪薬はあった。あと他に必要なものはなに? 弟が風邪で寝込んだ時を思い出しながら考える。幸か不幸かあたしはあまり風邪を引かない子供だったから、こういう時に欲しいものがわからなかった。
「アゲハ、行かないで。ここにいて――」
力のない熱い手に腕を掴まれ、ベルの弱々しい声に、思わずそうしてしまいそうになるのを懸命に堪える。
「すぐ帰るから……待ってて」
髪の毛を指に絡ませるようにして頭を撫でていたらベルは苦しそうにしながらも意識を失った。
後ろ髪を引かれるような思いで部屋を出ると、あたしは雨の中を全力で駆け出した。