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恋の悩みを知る君は  作者: 来栖ゆき
間章 今の歌声は~Bernardo~
23/48

◆4◆

「僕の大切な女性――か」

 星空に向かってため息とともに呟いた。こうして言葉に出してみれば、僕の心の中から様々な感情が生まれ続けている事に気付く。そう、あの時アゲハを大切な女性だと言ったのは嘘じゃない。

 アゲハと一緒にいたい。アゲハの声を聞きたい。僕の耳元で歌って欲しい。僕の名前を囁いて欲しい。

「ダメだよ……」

 アゲハの頬に触れたい。抱き寄せたい。長い髪に顔をうずめたい。そして、その唇に――。

「これ以上は考えてはいけない……」

 それは今まで見ないようにしていた僕の心の一部だった。この気持ちに意識を向ければ向けるほど心の中に何か温かい感情のようなものが溢れている事に気づき、そして同時に自分自信が信じられなくなった。

 こんな気持ちは持ってはいけない、捨てなければ……。生涯愛する女性は――ただ一人でないといけないのだから。

 僕にはユーカがいるのに……どうしてこんな感情が生まれてしまったんだ?

 ずっとこのまま――ここにいたい――それは絶対に望んではいけない事なのだ。

「これは僕に対する試練か? それとも、罰……?」

 誰もいない寒空の下で独りごちた。その問いに答えてくれるものはない。


 コンコン――とノックが聞こえベランダの窓が開く。

「もうすぐバイオリン演奏の時間ですよー」

 アゲハのバスタイム――という意味なのだろう。

 振り返ると彼女は1冊の楽譜を手に持っていた。僕の視線の先に気付くとアゲハはそれを手渡しながら言う。

「コレね、ついさっき大家さんが持って来たの。約束してた楽譜だって」

 アニメソング集と書かれたピアノの楽譜は、ピアノを習い始めた大家さんの孫からのリクエストだった。

 僕のバイオリンが近所迷惑になっていなければいいと思っていたけれど、今のところはクレームではなくこうしたリクエストが殆どだ。

「これピアノ譜って書いてあるけど大丈夫なの?」

「問題ないよ。ピアノに比べれば出せる音域は限定されるけれど、基本楽譜はどれも一緒だから」

「そうね、確かに一緒ね。あたし楽譜は全部同じに見えるもん」

 パラパラとめくる楽譜を後ろから見ながらアゲハが言う。

「ちょっと気になってたんだけど、ベルはいつもベランダで何してるの?」

「うん、空を見たり、景色を眺めたり……今はね、コンサートを聴いていたんだよ」

 アゲハは僕の言った事が理解できずに首を傾げる。それもそうだろう、知人に言っても僕の趣味を理解してくれる人はいなかったのだから。

「虫の声とか、風が紡ぐ音をね……こうして聴くんだ」

 僕は苦笑いで説明をする。

「あ、わかった! 自然界のコンサートって事ね? あたしも聴いてみようかな」

 アゲハは少し驚いた僕の隣に立つと目を瞑った。

 自然界のコンサート……か。そう表現したのはアゲハが初めてだった。込み上げてくる笑いを堪え、沈黙の中で演奏されるコンサーに聴き入る。

 規則的な虫の声と、冷たい風が生み出す葉の擦れる音――いつもなら落ち着くはずの音色は、何故だか今はいつもの効果を僕に生み出さなかった。

 だから僕は隣に立つアゲハを盗み見た。

 黒くて長い(まつげ)が月光に照らされて、くっきりと頬に影を作っている。このコントラストがやけに芸術的で美しく見えた。

 彫像の聖母マリアのようにやわらかい優しさを湛えた横顔に、危うく口づけしそうになるのを堪えた時、アゲハの顔がいつもより高い位置にある事に気づいた。

 手すりに身を乗り出しているのなら危ないな、と注意を促そうとしてはっとする。

「アゲハ、どうして裸足なの!?」

 彼女は裸足で、つま先立ちをしていた。

 急いでアゲハを抱き上げて足に触れるが、すでにアゲハの足は冷たくなっていた。ベランダは夜風によって冷やされたコンクリート素材なのだから当然だろう。

「ちょ…ベル! ベル!?」

 どうしてもっと早く気づかなかったのか――そればかりが悔やまれる。

「まったく、こんなに足が冷えているじゃないか」

「大丈夫だから、とにかく降ろしてっ! あたし重いし!」

 アゲハが僕の腕の中で暴れ始めたので仕方なく部屋の入り口に降ろした。

「し、死ぬかと思った……」

 アゲハはそこにぺたりと座り込むと小さな声で呟いた。

「心外だな、僕が下に落すとでも思った?」

「そ、そうじゃなくって!」

「ん? アゲハはそこまで重くなかったよ?」

「そこまでって…………もう! あたしお風呂入ってくるからねっ」

 心なしか赤い顔をしたアゲハはそう言い残してバスルームへと消えていった。

「ああ、そういう事か……あとで謝らないといけないな」

 女性に体重の話題は厳禁だと思い出したのはしばらくたってからだった。

 こんな事さえも忘れてしまうなんて――。


 アゲハを見送った後で窓を閉めると、僕はベランダの手すりに寄りかかった。

 この音色を聴いて自然界のコンサートだと言った彼女を、先ほどの聖母のような横顔を思い返す。

「僕は……5年間思い続けた恋人を探しに来たのに、会って数週間しか経っていないアゲハが気になっているんだ……」

 正直に思った事を口に出してみれば、すっと心が軽くなった。

 ああ、そうか――僕はすでにアゲハに心奪われてしまっていたのか。

 今頃になって気づくなんて、僕はなんて愚かなのだろう。ユーカに会いに来たのに、ほかの女性を――アゲハを好きになってしまった。

 君は僕を浮ついた心の持ち主だと軽蔑する? 軽い男だと言って非難する? それとも僕をここから追い出す?

 でも――もしもアゲハが、少なからず僕に好感を持ってくれていたら……。

 僕が気持ちを伝えたら、君は僕を好きになってくれる?

 あるいは嘘を吐いてしばらくここに滞在していようか。君が振り向いてくれるその時まで――。

「それこそ、アゲハの親切心につけいっている悪い男じゃないか……」

 自分で言って可笑しくなった。どうも自己中心的な考えしかできなくなっている。


 そんな想いを掻き消すように頭を振ると、ゆっくりとした動作で携帯電話をジーンズのポケットから取り出した。

 日本に来たもう一つの目的……そろそろ‘彼’に連絡を取らなければ、本気で日本の警察に捜索願いを出されてしまうかもしれない。

 成田空港に着いてからトイレに行くと言って2週間近く僕は行方不明になっていた。

 ため息を吐いて記憶している電話番号をゆっくりと押し始める。番号を押すごとに心がずしりと重たくなった。

 途中でOFFボタンを押すのを我慢した事に関しては自分で自分を褒めてあげたいくらいだ。

 ワンコール鳴る前にガチャリと‘彼’が電話に出た。

Pronto? (もしもし)……si.(ああ、)………… non dimentico.(忘れてないよ)

 「Come sta?(元気?)」という挨拶もなく、電話口で‘彼’からの説教が始まる。こちらの言い訳を挟む余裕すらない早口だった。

 こうなったら僕はずっと聞き役に徹する他ない。

 僕は電話を顔から少し離してそっとため息を吐いた。だから電話したくなかったんだ……。

 自分が行方不明になっていたのが一番の原因だったけれど、行き先を告げれば自由に行動できる時間が無くなる事は明白だったから黙って消えた。‘彼’がいるとユーカのアパートまで辿りつけないと思ったから。

 もっとも、アパートに着いたらユーカではなくアゲハがいたのだけれども……。

「si……Grazie.(ありがとう)

 やっと‘彼’のお小言が終わると、明日会う約束を取り付けてから電話を切る。

 すぐ後で非通知設定で電話をするのを忘れていた事に気付いた。せっかくアゲハに携帯電話の使い方を教えてもらったのに……。

「静かに暮らすためにも電源を切っておくべきかな」

 池袋でクレジットカードを2回使ったから、僕がその付近にいると思ったのか‘彼’は池袋付近のホテルに滞在しているということがわかった。

 この場所は絶対に知られたくなかったから、僕も池袋付近にいる知人の家にいると嘘を吐いた。‘彼’の事だから2、3日もすればこの嘘も暴かれるのだろう。



 思えばバイオリンと出会って20年もの歳月が流れた。子供の頃に強制された習い事は、いつのまにか僕になくてはならないものになっていた。

 将来の夢――というものを漠然と考えていた頃は有名なバイオリニストになるんだと思っていた。

「あの無謀な挑戦が、あそこまで難しいとは思わなかったけどな……」

 バイオリニストになるという夢は諦めてしまったけれど、僕には別の夢ができそうな気がするんだ。

 これは諦めたくないと思ったから、僕は明日‘彼’に会う。

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