◆2◆
駅前のフラワーショップ・フランソワでは、お客の雰囲気を見て即席で花束を作るという趣向が人気の花屋だった。
テストを兼ねて作った花束は見事オーナーに認めてもらい、僕はこうしてこの店でアルバイトを始めたのだ。
「ベル君、それが終わったらミニブーケを作っておいてくれる?」
「はい、先ほど作っておきました……あの、もうすぐ無くなりそうだったので」
驚いた表情のオーナーにそう説明を付け加えた。出過ぎた真似をしてしまっただろうかと少し不安になったが、途端に彼女は笑顔になった。
「まあ、いい働きっぷりね。期間限定と言わずずっといて欲しいくらいだわ」
すれ違い様、バシっと肩を叩かれた。そう言ってくれると、この街に受け入れられたようで嬉しくなる。遠い異国で自分の居場所が見つかるというのは滅多にある事ではないから。
アルバイトを始めてから花屋のある駅前商店街の人たちとも随分顔見知りになった。
休憩時間や手が空いた時に店外でバイオリンを弾けば、興味を持った人が集まってついでに花を買ってくれる。
話しかけてくれる人たちもみんな、アゲハと同じように親切で、外国人の僕でも抵抗無く受け入れてくれた。このやさしさがすごく心地良い。
この街にずっと居続ける事ができたらどんなに楽しいだろうかと考えてしまうんだ。
ユーカを探すために始めたアルバイトだったのに、もうしばらくここで働きたいと感じるのはうしてだろう?
そんな事を考えながらバイオリンを弾き終えると、わっと拍手が鳴り響いた。
弾き始めと終わりではギャラリーの数があまりに違い過ぎて、気づくとすごい事になっていることがある。イタリアではこんな体験がないから、いつも照れてしまう。
「ご静聴ありがとうございました」
軽くお辞儀をして顔を上げると、大勢の人の輪の中にアゲハを見つけた。
駅前の時計台を見ると午後6時。いつの間にかアルバイトの終了時間を三十分ほど過ぎていたらしい。
「アゲハ! ちょっと……すみません」
人波をかき分けて彼女に近寄ると、アゲハは恥ずかしそうにそわそわと辺りを見回している。先ほどまで注目を集めていた僕が近づいたことで、彼女にも興味対象が広がってしまった事に今更ながらに気付いた。
沢山の人の中からアゲハを見つけたことで嬉しくなった僕はそこまで考えが及ばなかった。
「すごい人気ね、バイオリンかっこよかったよ!」
アゲハまでもが注目されたことで嫌な思いをしたかと思ったけれど、彼女の満面の笑みを見てほっとする。
「一緒に帰ろう。少し待っていて――」
これ以上彼女に注目が集まらないように、周りにいる他の誰にも聞かれないように、アゲハの耳元にそっとささやいた。
入り口でもう一度お辞儀をして店内に戻り、急いで帰り支度を始める。
「ベル君、今日もお疲れ様」
制服であるエプロンを外したところで客の相手をしていたオーナーが現れた。
「で、さっきのカノジョはとうとう見つかった恋人かな?」
オーナーは今日の分の給料を手渡しながら言った。短期のアルバイトである僕に、何かと入用でしょう、と彼女の厚意で日給制にしてもらっているのだ。
僕はお礼を言って今日一日働いた分の給料を受け取った。
「違いますよオーナー、僕がお世話になっている女性です。恋人なんて言ったら彼女に失礼ですよ」
「あらそうなの? ベル君見てたら嬉しそうに駆け寄ったから、てっきり愛する恋人が見つかったのかと思ったわよ」
「いや――……」
確かに、あの群衆の中でアゲハを見つけた時は嬉しくて何も考えずに駆け寄ってしまった。どれくらいの人がいたかも定かではないけれど、顔が少し見えただけですぐに彼女だと気付いたんだ。
――どうして僕は気づけたのだろう?
「……まいったな」
僕は自分の事がたまにわからなくなる。自分がした行動なのにいくら考えても答えが見つからない。
こういう時はどうすればいいのだろう……?
「何か手伝おうか?」
「いいや、座っていていいよ。アゲハは仕事で疲れているでしょう?」
ベルだってそうじゃない、と言うアゲハは少し不服そうだった。たまに彼女が残業をせずに早く帰ると、夕食まで少し待たせてしまう事があった。
そうするとアゲハは決まって何かを手伝うと申し出てくれる。
「言ったよね、食事を作るのは僕の担当だって。ここからこっちは僕の領域なんだから」
手で線を引く真似をすると、アゲハはおどけた顔をしてパントマイムを始めた。
「あははっ、わかったわ。あたしはこっち側で大人しくしてる――あら、この花はなに? 花瓶に移せばいいの?」
アゲハはキッチンカウンターの端に置いたバラの束を見つけて手を伸ばした。
新聞紙で無造作に包んだだけのそれは、花の色がくすんでいて売り物にならなかったので引き取ったのだ。店に並べていないからもちろん棘も処理していない。
「あ、待って、それはまだ棘が――」
「痛っ」
止める間もなくアゲハの指にバラの棘が刺さった。見る見るうちにアゲハの人差し指にぷっくりとした赤い粒が膨らみ始める。
「アゲハ、手を見せて!」
「大丈夫、ちょっと痛かっただけだから……すぐに血も止まるし」
逃げようとするアゲハの腕を掴んで引き止める。
「植物の棘だからって甘く見てはいけない。消毒液はある?」
彼女が怪我をしていない方の手で指し示した引き出しを開け、救急箱を取り出す。
「じ、自分でできる……だから手を――」
「こら、じっとしてるんだ! ちゃんと処理しないと化膿してしまうだろう!」
傷口を少しつまんで棘が残っていないことを確認してから、僕は消毒をしてバンドエイドを貼った。先ほどまで僕から離れようと暴れていたアゲハも今は大人しくしているのでこの作業は容易に終わったけれど――。
「ごめんなさい……」
アゲハは消え入りそうな声で呟いた。
「いや、僕が置きっぱなしにしたのがいけなかったんだ。アゲハは悪くないよ」
「でも……余計な事しちゃって、ごめん」
目に見えてしゅんとしてしまったアゲハを何とか元気付けようとして、彼女を上向かせた。
「アゲハ……」
彼女の眼には薄い涙の膜が張っている。少し強く言い過ぎたのかもしれない。
ならば謝らなければと思いつつも、彼女のうるんだ瞳に、上目づかいで僕を見る瞳に吸い寄せられた。
「ベル?」
そう呟く彼女の唇をじっと見つめる。
けれど彼女が一歩後ろに下がり、僕は魔法が解けたかのように我に返った。
「あ、ありがとね……その、手当てしてくれて」
「……ああ、うん」
僕は何も考えていなかった。ただ、彼女の肩があまりにも小さいから抱きしめようと思った。
そして、何故だろうか……「ベル」と呟くその開いた唇に、僕は……僕はアゲハにキスをしようとした――?