◆4◆
「ここでバイオリンを弾いてもいいかな?」
ベルがそう尋ねてきたのは、毎週欠かさず見ているドラマを見終わって、さあお風呂にでも入ろうかなという時だった。
「別にかまわないけど……本当にバイオリンが好きなのね」
そう答えると彼は嬉しそうに微笑んだ。
どうせなら目の前で弾いて欲しかったのだけれども。アゲハに捧ぐ曲――とか言っちゃって!
妄想を膨らませながらお湯に浸かりフンフンと鼻歌を歌い始めると、室内からもバイオリンの音色が聞こえてきた。
そしてあたしの心のうちを知ってか知らずか、曲名はまさかのカルメンのハバネラだった。
「あぁぁ……優花さんの事、どうしよう!」
あの日から1日が過ぎ、2日が過ぎ……そして数日が過ぎていた。
あれからベルは出て行くと言わなくなった代わりに、あたしも優花さんの事を考えるのをやめた。考えなければいつもの平穏で楽しい日々が続くから。
黙っていてはいけない、言わなければ――蓋を開ければ飛び出してきそうな、そんな良心を心の奥底にしまい込むのは結構な労力を必要とした。そしてその良心はあたしが一人きりになると不意に飛び出して来て、こうして悩ませ続ける。
言おう、言おうと思いながらぐずぐずしているうちに、優花さん宛に出した手紙は、今はあたしの物となっている郵便ボックスに投函された。
一応、郵便ボックスにはMIYAMAって書いてあるんだけど。ともかくこれで郵便物が転送されない事がわかり、彼女へと続く道しるべはあたしの胸の中にしかないという事で……。
届かなかった手紙をベルに渡せば、必然的に優花さんが見つかったという話をしなければならない……だから手紙は先に見つけたあたしの鞄の中で眠っている。
こんな風に隠すのは良くない、黙っていてはいけない――とあたしの心は悲鳴を上げていた。
でも……。
毎朝笑顔で送り出され、ランチタイムに他愛もないメールのやりとり。そして家に帰るとまた笑顔で迎えられ、食事をしながら今日一日、あたしの身の回りで起こったことを話して聞かせる……。今日からは入浴中にバックミュージックまで取り入れられた。
ねえ、こんな素敵な毎日って想像できる?
小さな幸せにつま先から頭の先までどっぷり浸かったあたしは、憐れにもこの生活を手放すのが惜しいと思ってしまっていた。
いつかは一人暮らしに戻るのに……この生活が長く続けば続くほど、一人になった時に寂しくなるという事はわかっているはずなのに。
わかっているのに抗えない――。
インターネットの動画サイトでこっそり見た優花さんの歌うハバネラと、ベルの演奏するバイオリンの曲があたしの頭の中で突然重なった。
驚いて身じろぎしたあたしは浴槽の中で手を滑らせてお湯の中へ沈む。
何やってんだあたし……。
けれど意外にもお湯の中が、誰もいない一人ぼっちの世界に思えて、あたしはしばらく息を止めて目を瞑った。圧迫されるような、心地良いような、不思議な世界。そしてだんだんと、息苦しさに頭が真っ白になる。
僅かながらにバイオリンの音色が耳に届いた。聞きたくないと思っても、こうして自分一人の世界に身を投じても、目の前の運命からは逃れられないと暗示されているように思えた。
どこへ逃げても無駄なのだ。真実が、黙っている事に対しての重圧が、一人きりになったあたしを追い詰め、早く伝えろと急き立てる。
酸素を求めてあたしはざばんとお湯の中から飛び出した。
「はぁ、はぁ、もう……限界っ」
彼の幸せをあたしが奪っているも同然だ。幸せを感じているのはあたしだけなのだから。
――だからもういい加減、行動を起こさなければいけない。
浴槽のヘリに頭をもたせかけ、天井に付く水滴を一粒ずつ数えた。
ハバネラが終わると、タイトルの知らない2曲目が聞こえ始める。
「あ、この曲、なんか好きだなぁ」
ふわふわと水の中をたゆたうような軽快なリズム、一度聞いたら耳に残る曲だった。もしかしたらCMで聞いた事あるのかもしれない。
……お風呂から出たら曲名を聞いてみようかな。
あたしは今しがた覚えたばかりのメロディを鼻歌に乗せてささやいた。
その後、数曲を聞いてから、あたしは意を決してお湯から上がった。
翌日、いつものように家を出て駅のホームで携帯を取り出す。
「すみません、今駅なんですけど、急に気分が悪くなって――」
丁度、電車の到着を告げるアナウンスが流れ、あたしは声を張り上げながら休む許可を貰った。大声を出せる病人がどこにいるっていうのよ、と気づいたのはいつもとは違う電車に乗って、会社をズル休みした事による自責の念に駆られた時たっだけれども……。
行き着いた先は、JR山手線・代々木駅。
ここに優花さんがオペラ歌手として所属している音楽事務所がある。もちろんインターネットで確認済み。
ベルには黙って来た。
きっと言えば、地理に疎い彼と一緒に来ることになると思ったから。恋人との再会を目の前で演じられて、あたしは素直に喜ぶことができない自信もあった。
だから優花さんにベルの手紙を渡すことにした。お互い連絡を取ってあたしの知らない所で再開を果たして欲しい。
こんなまわりくどい方法しか取れない自分に嫌気がさしたけれど……ここまで来たんだもの。もう後戻りはできない!
あたしは自分の背中をぐいぐいと押して駅の改札を出た。
突然の訪問でも迷惑にならない時間までカフェで時間を潰して、地図を頼りに駅から数分歩くとその住所の建物があった。
受付で用件を伝え持ってきた優花さん宛の手紙を見せると、笑顔で少々お待ち下さいと告げられた。どうやら不審者扱いは受けなかったようだ。ほっとしながら、あたしはソファに腰掛けた。
本人がいれば手っ取り早い。けれど、本人と会えなかったら代理の人に頼む事になるのだろう。もしも代理の人が質の悪いファンと誤解して手紙を捨ててしまったら?
そうしたら、優花さんとベルの再開は遠のいてしまうかもしれない。会えなかったら……あたしのせいかな?
唐突に自分が間違った事をしでかしているのでは、と思えてきた。
彼に黙って、無関係のあたしが優花さんに会うなんて……もしも優花さんが、あたしとベルの関係を勘違いしてしまったら?
その勘違いが原因で優花さんがベルに連絡を取らなかったら?
それこそ二人は結ばれないのではないか……。あたしは二人のためと思って行動して、二人の仲を切り裂こうとしている?
ドクンドクン、と心臓の音が耳鳴りのように聞こえ始めた時――。
「あの、私が真田ですけど……」
足元を見ていたあたしの視界の中に、かわいらしいピンクのパンプスが入り、同時に鈴の音のような声が降ってきた。
「あ、あの、はじめまして深山揚羽と申します!」
あたしはバネのように勢い良く立ち上がった。目の前の優花さんと目を合わせる。
うわぁ、写真で見るより……断然かわいい!
ぽかんと口をあけて見つめるあたしを気持ち悪いと思ったのか、優花さんは苦笑いで1歩下がると別室で話しましょう、と小さな打ち合わせ室へと案内してくれた。
いよいよだ……。
誤解を生まないように細心の注意を払って話をするのよ、あたし!