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恋の悩みを知る君は  作者: 来栖ゆき
3章 恋は野の鳥
16/48

◆3◆

 ――言うべきか、否か。それが問題だ――


 あたしは優花さんが見つかった事をベルに言うべきかどうかを迷っていた。

 同姓同名かもしれない、別人かもしれない――と。

 見つかったと伝えて期待させておいて、別人だったらどうするの?

 けれど心のどこかでは、別人なはずないでしょう――と告げるあたしがいる。オペラ歌手で、イタリア留学の経験があって、5年前は音大生――他に疑う余地はないのだから。

 そして見つかったと告げれば、ベルは今夜にでも彼女の元へ行ってしまうのだろう……。

 こんなにも迷っているのはベルのためじゃない。あたしの……くだらない独占欲。こんな感情、昨日捨てたはずなのにどうして今さら迷っているの?

 ベルの為に優花さんを見つける手伝いをしようと心に決めたあたしはどこにいったの?


「……ハ……ゲハ! アゲハってば!」

「え? あっごめん、なに?」

 何度かベルに名前を呼ばれていたようで、テレビのバラエティ番組をぼーっと見ながら悶々と悩んでいたあたしは慌てて振り返った。

「もうすぐ夕食ができるんだけど……」

「あ、じゃあお皿出すね!」

 立ち上がり、こちらを見ているベルと目が合う。

 いつもなら目が合うと微笑んでくれるはずなのに、今の彼は真面目な顔をしていた。

 そういえば、と帰ってからあまり会話が弾んでいなかった事を思い返す。あたしがずっと考え事をしていたせいなのだろう。

 澄んだ水のような深い碧眼にじっと見つめられ、心のうちが見透かされているような錯覚に陥ったあたしはぱっと目をそらした。

 何やってんの、アゲハ! これじゃ何か隠してるってバレバレじゃないの!

 そんなあたしの様子を見てベルは小さくため息を吐いた。

「アゲハ、聞いて」

 ガスコンロの火を消してベルがキッチンカウンターを離れる。

 彼の改まった物言いにあたしの背筋が自然と伸びた。

 ――とうとうこの時が来てしまった。

「い、今じゃないとだめなの?」

 ねえアゲハ、ユーカの事――なにか隠してるでしょう?

 次に口を開いて出てくるであろう、ベルの台詞があたしの頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 そうよ、逆に今がチャンスじゃない。言わなくちゃ……ずっと探している人なのよ。

「えっと、先にご飯の準備しちゃわない?」

 でも本当に、本当に別人だったらどうする? まだ黙っているべきじゃないの?

 ううん、別人なわけない。優花さん本人に決まっているでしょう!

「あたしもうお腹ペコペコなのよね」

 思いとは裏腹に、臆病者のあたしは逃げるような言動を繰り返す。

 別に隠し立てしているわけじゃない、ちゃんと言うつもり。

 もっと調べてから、その時になったら伝えるべきだ。そうよ、あたしは何もやましい事はしていない――。

「話なら食べながらでもいいでしょ?」

 心の中での葛藤の末、結局あたしは逃げる道を選んだ。

 けれど、ベルと入れ替わるようにキッチンへ向かおうとして途中で彼に腕を掴まれる。思ったよりも強い引きにあたしはその場に縫い止められた。

「アゲハ――」

 ああ、もう逃げられない……。意を決して頭上から降ってくる言葉を待つ。

 けれどベルは何かを言おうとして口を開き、言葉が出ないのかすぐに黙った。

「その、えっと……」

 言いよどむ彼の姿にあたしはごくりと唾を飲み込む。

 そして、沈黙――。

 テレビから聞こえてくる場違いな笑い声だけが唯一の雑音。

 やっぱり黙ってちゃだめ……言いなさい、アゲハ。あなた昨日なんて誓ったの?

 ベルの想いを成就させるって決めたじゃない。

 今しかない、今言わなければ――……。

「っ……」

 けれど、自らを急かせれば急かせるほど、あたしの声は喉に張り付いてしまい言葉が続かない。

「アゲハっ!」

「は、はいっ!」

 先に沈黙を破ったのはベルの方だった

「あ、あの――今朝はごめん! 本当に悪いと思っているんだ!」

「……へ? 今朝?」

 今朝って何かあったっけ?

 すべて話した後に告げられるであろう、ベルからの罵倒の言葉や失望の念までを覚悟していたあたしは、肩透かしを食らってぽかんと口を開けた。

「その――つい見ていないと嘘を吐いてしまったけれど、実は……」

 言いながらベルはくしゃっと前髪を掴んだ。

 あたしはまだ話が見えていない。

「何を、見たの……?」

 目が合ったベルの視線が下へと向かう。

 その視線を追いながら自分の胸元を見下ろして、あたしは初めて彼が何を言っているのかに気づいた。

 ボッと音を立ててあたしの全身に静まったはずの炎が蘇る。

 自己暗示によって胸中の深くに埋めた記憶が見事に掘り起こされた。あたし完全に忘れてたのに!

「怒るのも無理はないと思う。本当に申し訳ない事をしてしまったのだから……」

「えっと、ベル……」

 おずおずと視線を向けると、いつの間にか頬を朱に染めたベルと一瞬視線が絡み合う。

 今度はベルが先に視線を逸らした。その仕草が余計にあたしの羞恥心をかき立てる。

「ほんとうに、ごめん」

 ベルはもう我慢ができないといった様子でキッチンカウンターに手を置いて身体を支え、開いている手で口元を覆った。

 今やもう、耳までもが赤い。

 あたしが、帰ってからずっとそれを思い悩んでいたと――ベルは考えていたの?

 そんなベルの様子を見て、あたしはあたふたとうろたえる。

「あーその――……あ、あたしこそごめんねっ!」

 もしも聞かれたら笑って流そうと朝から考えていた台詞が出てこない。

 それもそのはず、この一件は優花さんが見つかった事で、あたしの中では過去の出来事へと風化してしまったのだから。

「ぜんぜん大丈夫だから!」

 ベル、あなた正直すぎるわ……。そこは嘘でも見なかった事にしておいて欲しかったのだけれども。

「全面的にあたしが悪いのよ。寝坊したのはあたしなんだし、ベルはもう気にしないで!」

 どうにか笑い話にもっていこうとあたしは無理して笑った。

「やっぱり、僕はここにいない方がいいと思うんだ」

「どう、して……?」

 この会話の流れでどうしてそうなるの?

「色々と生活が難しくなる。お互いに……」

「それは……」

 そうかもしれないけど。

「アゲハも嫌な思いをするだろうし――」

「あ、あたし嫌よ! あの――違う、そっちの嫌じゃなくて!」

 ああもう、何て言えばわかってくれるの?

 朝のはただの事故。

 それ以外は上手くいく自信があるのに、あたしは毎日が楽しみでしょうがないのに――ねえ、何て言えば説得できる?

「ベルが……こんな事で出て行こうとか考えるのが嫌!」

 ベルはあたしの言葉の真意を探るように軽く首をかしげてあたしを見つめた。

「お互い気を付ければ、なんて事ないじゃない……」

 視線を泳がせすぐそばにある鍋に目を向けた。

 どう言えば、ベルは納得してここに居続けてくれる?

 あなたが好き……だけどあなたには好きな人がいる。でもいいの、だからしばらくここにいて――と?

 ふっと笑い声が漏れ聞こえた。

「そうだね……代わりに食事を作るって約束したからね」

 あたしの視線を追って何かに気付いたベルはふわりと微笑を浮かべた。

「途中で投げ出すのはいけないね」

 振りむく彼はいつもの優しげな顔に戻りつつあった。

 ベルが考え直してくれたのだと気付いたあたしはほっと安堵の息を吐く。

「でもこれだけは忘れないで。僕は男で……アゲハは女性なんだ」

「うん、忘れない!」

 あたしはベルがまた考えを変えないようにと言われた事を復唱した。

 夕食の事を気にしているだけだと思われたってたいした問題じゃない。

 食いしん坊だとか、食い意地がはってるとか、放っておくとコンビニ弁当食べちゃうかもしれないとか――この際、どう勘違いされていてもいい!

 ただ、たた、ベルが考えを改めてくれた事に、あたしは心底ほっとしたのだ。

「えっと、わかってるかな……男は心と身体はベツモノなんだよ?」

「うん、大丈夫! 気を付けるわ」

 今回は社会人らしからぬ行為――寝坊という大失敗を犯しただけ。

 大丈夫、同じ過ちは繰り返さないんだから!

 それに、きっといつか近いうちにベルはここを離れる。

 それは仕方のない事。

 だったらもう少し、あと少しだけ――このままでいたい。


 やっぱりわかってないじゃないか……などとぶつぶつ言いながらベルはミネストローネを温め直そうと火をかける。

 あたしはお皿を用意しながら今の言葉の意味を考えようとしたけれど――。

「アゲハ、ついでにサラダを冷蔵庫からだしておいてくれる?」

「はーい」

 ま、いっか!

 あたしは有頂天になって余計な考えを閉めだした。優花さんの事は明日必ず言うわ!

 これ以上あたしが悩み続けたらベルが心配して家出しちゃうから。


 ねえ――お願いカミサマ!

 あと少しだけこの生活を続けたいの。全てが終わったら、どんな罰でも受けるから――。

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