◆5◆
「これはね、アゲハを想って束ねた花なんだよ。見て、アゲハらしいでしょう?」
ベルは透明なガラスの花瓶に花を刺しながら、どきりとするような事を言った。
でもきっと、ベルのあたしに対する感情は愛じゃなくて感謝だけだ。
誤解するな、あたし!
「そう……なんだ?」
薔薇、ガーベラ、カスミソウ。それと名前も知らない花々がキッチンカウンターで威風堂々と咲き誇っている。どれもピンクや白やオレンジなどの可愛らしい花ばかりで、どの辺があたしらしいの? という疑問が脳裏をよぎった。
どうしてあたしを想ってその花を選んだのか、そもそもどうしてあたしに花束を贈ってくれたのか。そこに深い意味はあるのか――それともただ単に売れ残った花を貰って来ただけ? 色々な思考が目まぐるしく生まれては消え、を繰り返す。
直接聞けばハッキリするのだけど、あたしはどうしてもそれができなかった。
聞きたいようで、聞きたくない……。
「ベル、紅茶入れたよ」
「ありがとう、アゲハ」
ふと目を向けるとベルは薔薇の香りを嗅ぐように顔を近づけて――そしてピンクの薔薇に軽く口付けをした。
ちょ……なにやってんのよ!
見てはいけないものを見た気がして、あたしは急いで視線を逸らした。ベルは薔薇に口付けをしただけだ、あたしではなくて。
けれど心臓は、この瞬間に目覚めたかのようにドクンドクンと脈を打ち始める。
あの薔薇があたしだったらいいのに――そんな想いを打ち消すようにあたしは首を振った。
「あのね、あたしイイコト思いついたの!」
鞄からレターセットを取り出してベルの前にずいと出した。
「これで優花さんに手紙を書くの。もちろんここの住所宛に」
ベルはティーカップを横に置き、よくわからないと言う顔をあたしに向けた。
「もし優花さんが郵便物の転送サービスに申し込んでいたら、その手紙は新しい住所に転送されるのよ」
「そうか! そしたらユーカから連絡が来るかもしれないんだね?」
あたしは笑顔で頷いた。手紙が届けばベルは優花さんと会う事ができる――。
でも、もし届かなかったら? 届かなかったら、ベルはまだここに住む事になる。
こら、余計な事は考えるな、あたし!
でもどうしてだろう、さっきからずっと胸が苦しい。
「ね、ねえ聞いてもいい? 優花さんとはどうして出会ったの?」
「最初はね、手紙を貰ったんだ」
そう言ってベルは視線をあたしの斜め後ろを眺める。視線の先はベルが持ってきていた楽器ケース。
「僕はジェノヴァでバイオリンの国際コンクールに出席していて、演奏が終わったあと僕宛てに、と手紙を受け取ったんだ。そこには自分も夢に向かって頑張っている、応援していると書かれていて――その手紙を貰った時、すぐに会いに行かなければって思った。何かに突き動かされるような感覚で、きっと運命なんだって思った……」
ベルは思い出すように目を瞑ると、続きを語り始めた。
「名前の音読みからすぐ日本人だって気付いた。すごく嬉しくて、どうしても会いたくて彼女を探した。音楽学校に通っている学生だと知って会いに行った。でも結局会えなくてね――知り合いの教授がいたから、彼女に僕からの手紙を渡してくれるように頼んでおいたんだ。そしたら数週間後に日本からエアメールが届いた……」
優花さんは夏休みを利用してイタリアの音楽学校に通っていた。オペラ歌手を目指している音大生で、夢に向かって頑張っていて、そして音楽を通じて運命的に出会った二人は意気投合して文通を始めたのだ。
会って話す事を望まず、大陸を越えて夢と手紙だけで繋がった関係――それを人は運命の赤い糸とでも言うのだろう。
「二人で約束したんだ。お互い夢を叶えたら、一緒に暮らそうって――」
そう話すベルがすごく眩しく見えて、あたしは彼から視線を逸らした。
これ以上は耐えられなかった。自分で聞いておいて、続きを聞きたくないなんて思うとは、我ながら我儘すぎる。
「アゲハ? どうしたの?」
「な、なんでもない、すごく……素敵な話だなって思って」
自分の気持ちに嘘を吐く度に、石を呑み込んだように息苦しくなってくる。
ねえ、あたし今――ちゃんと笑っている?
「素敵な話じゃないよ……結局、僕は夢を諦めたのだから」
ベルは自嘲気味に呟いた。
「どうして諦めちゃったの?」
うわ、あたしのバカ! 聞いていい事と悪い事があるでしょう!
「家の仕事の手伝いをしないといけなかったんだ……約束の期限がきてしまったからね」
勝手に口をついて出てしまった言葉にベルは嫌な顔をせず答えてくれた。
「家族と約束をしていたんだ。期限内にコンクールで1位を取れなければ――音楽の道を諦めて稼業を手伝うって。結局2位止まりだった――だめだったんだ」
「そんな、2位でもすごいじゃないの!」
「そうかな? 結局意味のない地位だよ……」
もうすぐ手に届いたかも知れない夢を諦める事は、きっと身を切るくらい辛いはずだ。しかもそれは優花さんとの約束を守れなかった事を意味している。
「ユーカはきっと軽蔑するだろうと思ったけど、そんな僕を慰めてくれて……だから結婚を申し込んだ。夢を諦めたこんな僕でも受け入れてくれたから――」
「優花さんに早く会えるといいね」
「うん、ありがとう……」
ベルは切なげに微笑んだだけだった。
「はぁ……」
食器を洗っていたら勝手にため息が出た。
夢――それは、あたしが持っていないもの。夢も、それを追いかける情熱も、夢を諦める辛ささえわからない。だからベルを慰める事もできない。
あたしはスタート地点にも立っていないのだと痛感した。優花さんが羨ましいと思ったのはこれで何度目だろう?
こんなあたしがベルの横に立ちたい、並んで歩きたいなどと考えること事態がおこがましい。好きになる事さえも許されない。
あたしだって最初から夢がなかったわけじゃない。けれどいつ失ったのかと聞かれれば曖昧な答えしか言えない――覚えていないのだ。
昔は絵本作家になりたかった。夢と希望が詰まった宝箱のような絵本を作りたかった。
けれどいつの間にかそんな夢は露へと消えていて、あたしはまったく関係ない大学へ進学して、そのまま大手だから安心という理由で今の会社を選んで就職した。志望理由なんて4年も経った今、覚えていないのが現状だ。
毎日がいつも同じで、忙しくて、単調な日々を過ごすうちに、夢も希望もどこかへ忘れて置いてきてしまったのだと気付いた。
「高校に入ったら本当は文芸部に入ろうと思ってたんだよね」
けれどあたしはクラスメイトに頼まれてサッカー部のマネージャーになった。
本当に適当で、周りに流され続けた人生――ミヤマアゲハって、なんてつまらない人間だのだろう。
「もう中に入ったら? 風邪ひいちゃうよ」
ベルは寒いのにずっとベランダにいる。星空を見つめて考え事をしているようだった。
「うん、もう少し……」
そういえば、初めてあった時もベルは空を見ていた。
どこかで同じ星空を見ているだろう優花さんに想いを馳せているのだろうか。
この日本のどこかにいるであろう愛しい人を想って――。
「大丈夫、きっと会えるわ。あたしはその手伝いをするの。そうするって自分で言ったんじゃない」
誰もいない部屋であたしは一人呟いた。
落ち込んでなんていられない。あたしにも今できることがあるのだ。それはベルナルドと優花さんの途切れてしまった赤い糸を蝶々結びしてあげること!
あたしとベルの運命はここでちょっとだけ交わっただけで今後はすれ違いもしないのだろう。
あたしがここまで手伝う義理がなくても、ベルには絶対に幸せになって欲しいから。
そうでしょう?
それに、これがうまくいったら、あたしもこの世界のどこかにいる誰かと全力で恋愛できるかもしれないと思った。
もちろんベル以外の男性とだけど――――。
……本当に恋愛できるって思ってる?
またひとつ、あたしから大きなため息が漏れた。