◆3◆
どさりと段ボールを置いてやっと一息ついた所に、吉野さんが何食わぬ顔をしておはよう、とやってきた。結局手伝ってくれず、しかも時間までずらしてのご登場にあたしは怒りを露わにキッと睨む。
けれど胡散臭い笑顔を向けられただけだった――そう、女性社員がほぅ、とため息を吐いてしまうような笑顔。
でもあたしはこの笑顔の裏側を知っているから騙されない。
「あー深山センパイやっと見つけた! どこ行ってたんですか!」
同じ営業部で後輩の田中舞子ちゃんだ。
くるくる縦巻きロールであたしより背の小さい彼女は、口を尖らせて書類の束を抱えている。
「コピー機が壊れちゃったんです! アタシ直せません~」
「はいはい、ちょっと待ってね。見に行くから」
営業部には事務担当の女性が3人しかいない。その中でアイドル的存在なのが2つ年下の舞子ちゃんだ。甘え上手で、首を傾げて上目づかいにおねだりする姿はあたしでもクラっときてしまう程の魅力の持ち主。
これで大抵の男は簡単に落ちるのだ。真似したってドン引きされるだけだからあたしはやらないけれど。
「人がいるんだから、誰かに頼めばよかったじゃないの」
あたしは部内にいる男性陣を見渡した。
「深山センパイがいいんですっ!」
なんか知らないけどあたしは舞子ちゃんに気に入られているみたいだった。彼女が新人の頃に仕事を教えたのがあたしだったから懐かれたのかもしれない。頼られるのは嫌いじゃないからついつい面倒を見てしまうのだ。
「セ・ン・パ・イ……アタシ見ちゃったんですよっ! 超イケメンじゃないですかセンパイのカレシさんっ!」
コピー機へと向かう途中、突然そう言われてあたしは焦った。
「はい? え、彼氏って……いつ見たの? 舞子ちゃんも池袋いたの?」
やっぱり傍からみたら恋人同士――に見えるのかしら?
嬉しい―じ―ゃなくって。
「池袋? 違いますよ、先週の金曜日! 残業抜け出して会社の近くで会ってたじゃないですか、金髪で豹柄ジャケットのワイルド系!」
……ああ、そっちね。
「センパイって草食系が好みかと思いましたけど、まさかの肉食系カレシですか? しかも年下じゃないですかっ!」
「そんなんじゃないって、あれ弟だから」
何だか拍子抜け。いや、良かったと安心すべきだ。
ベルとの同棲生活はバレちゃマズい。
「だって仲良さそうに肩組んでたじゃないですか。それから何かプレゼントあげてましたよね?」
肩を組んで見えたのは首を締め上げられていたから。プレゼントに見えたのは現金2万円。カツアゲされていた訳じゃなくて引っ越しを手伝って貰った時のお駄賃。
あの時は残業中に呼び出されて「これから飲み会だから、この前引っ越し手伝ったバイト代よこせよ」と2万円請求されたのだ。
「なぁんだ、センパイにカレシができたのかと思ったのにっ!」
あたしがそう説明すると、舞子ちゃんはつまらないとでも言うような顔で呟いた。
「簡単にできたら苦労しないって――はいこれで直ったよ」
詰まっていた紙を抜いて、あたしが顔を上げると同時にコピー機がウィーンと音を上げて再起動を始めた。
「でもアタシもうみんなに言いふらしちゃいましたよ。これでライバルが一人減ったと思ったのに……アタシの天下はいつ来るんだろう?」
天下? いや、その前に、言いふらしたって――?
舞子ちゃんの台詞にあたしは一瞬言葉を失った。
「ちょっと、言いふらしたって……誰によ?」
「営業部の人たちでーす! 深山センパイの秘密のカレシは年下でワイルドな肉食系って言って――」
ごそごそと携帯を取り出すと、画面をずいと見せてきた。
「証拠写真も見せちゃいました!」
舞子ちゃんは詫びれもせず、にこにこしている。
そこには暗いながらもあたしだと分かる後姿と、金髪で背の高い派手な男の姿――間違いなく、ちゃらんぽらんなあたしの弟だ。
「なんでそんなこと――」
「だって、がっかりして諦める男性社員の姿を見たかったんだもん!」
「もしかして……変な賭けでもしてるのね!?」
あたしに彼氏ができたらいくら、みたいな? ちょっと失礼すぎるじゃないの!
「違いますよっ! もう、鈍感な深山先輩にはこれ以上教えません!」
「とにかく舞子ちゃん! 教えてくれなくてもいいから、その情報今すぐ訂正してきなさいっ!」
舞子ちゃんは「はぁい」とかわいらしい返事をすると、コピー機から印刷された紙を持って小走りに戻って行った。途中振り返ると、コピー機ありがとうございます、とお礼を言った。
言いふらしたって……。
もしも池袋で舞子ちゃんに会っていたら――そう思うと背筋がぞっとした。彼女が知ったら翌日は社員全員が知ることになる気がする……。
小さい会議室を陣取ってそこに資料を広げ、あたしは一人で電卓とにらめっこ中だった。
運の悪いことに渡辺部長に経理部の資料の話をしたら、光栄にも費用の洗い出しの仕事を任されたのだった。
ああもう面倒くさい!
時計を見るとちょうど午後3時だった。コーヒーでも買いに行こうと考えながら、一人なのをいい事に両腕を伸ばしながら大きな欠伸をした時だった。
「うひゃあぁ!」
両頬にひやっと冷たいモノを当てられて、あたしの心臓は跳ね上がった。
「変な悲鳴……」
振り向くと缶コーヒーを2本持った吉野さんが気配なく立っていた。
「お、驚かさないで下さいよ!」
はい、とコーヒーを渡され、あたしはお礼を言って受け取った。飲み物をくれるなんてどういう風の吹きまわし?
「ちょうちょちゃん、いつ彼氏できたの? 年下でワイルドなイケメンだって?」
あたしはため息一つ。
「吉野さんまでその話、信じてるんですか?」
あの後営業部のフロアに戻ると、舞子ちゃんは吉野さんにも携帯を見せていた。
しかも「本人曰く、弟だって言ってますけど、アタシはわかりませーん」などと煽るような事を言っていて、訂正する気はないらしかった。あたしが無言で睨んでいたら舞子ちゃんは笑って逃げて行ったけど……それに吉野さんの事だから、有り得ないって一蹴すると思っていた。
まったくもう!
「だからあれはですね――」
「そのネックレスは彼氏からのプレゼント?」
「え、あの、えっと……」
シャツの下に隠れていたネックレスには誰も気づかなかったのに、よりによって吉野さんに気付かれてしまったなんて……。
あたしは思わず隠すように薔薇のネックレスに手を伸ばした
「それ、ちょうちょちゃんには似合ってないよ」
アゲハ、やっぱりかわいい――そう言ったベルの言葉があたしの脳裏によぎる。
「似合わないのは――わかってます! でも吉野さんには関係ないじゃないですか」
あたしだってかわいい系は似合わないってわかってる。フリフリのワンピースとか、ラビットファーのマフラーとか、もちろんピンクゴールドのネックレスだって例外ではない。
だからかわいいって言われて、本当に? と疑う気持ちもあったけれど、ただ純粋に嬉しかった。あたしが今まで勝手に思い込んでいただけで、他の人から見たら――もしかしてあたしってかわいいのかなって……まあ、自惚れてしまった。
そんな事あるはずがないのに……。
「関係なくないよ。俺ならもっと似合うもの探してプレゼントするけどね」
「関係なくなくないです! 吉野さんがどんなプレゼントするかなんて知りません!!」
けれど、もう誤解とか訂正とかはどうでもよくなってしまった。今の台詞はいただけない。
似合わないとかガサツだとか、あたしを馬鹿にするだけなら構わない。けれどベルの優しさや気遣いを否定される事はどうしても耐えられなかった。
「どうしてそう思うの? 俺、いいものプレゼントするよ?」
「……コーヒーご馳走様でした。もう仕事の邪魔しないでください! あと、舞子ちゃんの言ってる年下の彼氏の件は本当に弟ですから!」
そう言い放ってあたしは資料に向き直った。
「それを聞いて安心したよ。ちょうちょちゃんは年下好みかと思った」
「歳は関係ありません。あたしは優しい人が好みです」
「優しい人間なんて、何考えているか一番解らないよ。ちょうちょちゃんは騙されないようにね」
無視して電卓を叩き始めていたら、吉野さんはいつの間にか姿を消していた。
「なんなのよ、もう!」
ベルは優しい人だ――けれど見え透いた嘘やお世辞を言うような人じゃない。会って1週間も経ってないけどそれだけは自信を持って言える。
「優しい人は相手を気遣う事をちゃんと考えてくれるんだから!」
薔薇のネックレスを貰った時、あたしは女の子なんだと認められた気がして嬉しかった。でも違う、こういう物は舞子ちゃんのような女の子を飾るのに相応しい。
男の人から見て、守ってあげたくなるような女の子――。
「これじゃ八つ当たりだ。あたし何やってんだろ……」
吉野さんの言った事は正しい。元はと言えば、薔薇のネックレスとベルの優しい気持ちを台無しにするくらい、ガサツで可愛げがない自分が悪いのだ。
あたしの首元で煌々と咲き誇る薔薇に申し訳ない思いがこみ上げてくる。
その後、心乱れたあたしは何度も計算ミスを連発して、その度に小さなイライラを蓄積させていった。
今日の乙女座は2位じゃない、間違いなく最下位だ。