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退く理由ある探索者  作者: ソイラテ
9/10

第9話 まだ、終わっていない

本日から月木更新になります。

しばらく進んでから、ようやく足を止めた。



止めてもいいと判断できる距離まで来た――

そう、体が先に理解していた。



足を止めたあとも、すぐに次の動きに移れない。

周囲を見回しながら、視界の端から端までをゆっくり確認する。


動くものはない。

影の揺れも、形の変化も、気配らしい兆しも見当たらない。


耳を澄ませる。

呼吸の音を抑え、余計な音を立てないよう意識しながら、静けさの中に紛れ込む。



それでも、今この瞬間に危険が迫っている感覚はなかった。

完全に安全だとは思わないが、追ってくる気配も戻ってこない。



それで、十分だった。



少しずつ体の力を抜くと、肩や背中に入っていた緊張が、想像以上に重かったことに気づく。

張りつめたまま動き続けていた反動が、遅れて体に現れている。


さっきまで、自分は何をしていたのか。

改めて振り返ってみても、倒した記憶はどこにもない。



向かっていった覚えも、押し返した実感もなく、勝ったと言える感触は一切残っていなかった。

あるのは、下がったことと、曲がったことと、その都度選び続けていたという事実だけだ。


正面から進んでいたら、どうなっていたか。

一瞬だけ考えそうになって、その思考を途中で止める。



考えれば、別の判断が正しかったかもしれない。

もっと良い選択肢があった可能性も、完全には否定できない。


それでも、今はここにいる。

戻れる距離で、息をしている。



それが、この場面で出せる唯一の答えだった。



怖かった。

ずっと、途切れることなく怖かった。


逃げることを選び続けながら、それが正しいのかどうか確信を持てた瞬間は、一度もない。

それでも立ち止まらず、判断を切らさずに動き続けていた。



止まれば、次の判断ができなくなる気がした。

だから、逃げた。


下がって、曲がって、迷いながらも選び続けた。

その先で、まだ生きている。



勝ってはいない。

何も手に入れていない。


成果と呼べるものは何一つなく、胸を張れる結果でもない。

それでも、選び続けた結果として、今もここに立っている。


一度、息を吸う。

肺の奥まで空気が入っていく感覚を、ゆっくり確かめる。



そして、吐く。

胸の奥に溜まっていた緊張が、少しずつほどけていく。


逃げたことを、後悔はしていない。

少なくとも、今の自分にはそう言える。


逃げなかった場合の未来より、逃げた結果の今のほうが、まだ受け止められる。

そう思える程度には、ここに立っている現実が重かった。



逃げた先で、生きていた。


それだけで、今日は十分だ。

――そう、思おうとした。



「まだ、終わっていない。」

足は止まっているはずなのに、頭の中だけが止まらず、次に考えるべきことを探し続けている感覚が抜けない。



通路の幅、天井の高さ、音の返り方。

見慣れたはずのものが、どれもついさっきまでと変わらないように見えるのに、体のどこかが「同じじゃない」と静かに警告を出している。



呼吸を数える。

吸って、吐いて、間に一拍置く。


落ち着こうとしている自分の意図は分かるが、落ち着いていいと判断できるだけの材料が、まだ揃っていない。



ここは逃げ切った場所じゃない。

ただ、今すぐ距離を詰められる位置ではない、というだけだ。


壁に背中を預けない。

寄りすぎれば視界が欠け、視界が欠ければ判断が遅れる。


立ち位置をほんの半歩だけずらし、床の感触を確かめるように足裏に体重を乗せ直す。



静かだ。

さっきまでより、ずっと。



けれど、この静けさは安心とは違う。

音が少ない分、判断に使える材料も削れている。


耳を澄ませる。

何も返ってこない。


その事実だけで、ここでは足りないと、体が先に理解していた。



「……無理だと思う」


声に出してから、その言葉の意味を頭の中で切り替える。



今のは、引き返したいという感情じゃないし、諦めでもない。

状況を整理するための合図だ。


戻れる線は、まだ頭の中にある。

角の位置、視界が切り替わった地点、その順番。



一つ、二つと数えかけて、途中でやめる。

数が増えた時点で、余白が削れていくのが分かる。



前を見る。

横を見る。

後ろは、見ない。



振り返った瞬間に判断の必要なことが一つ増える気がして、首の動きを意識の外に追い出す。


足音は、自分のものしか聞こえない。

それなのに、それが安心には繋がらない。



知らない誰かと遭遇するのは、不安がある。

さっきまでは、確かにそうだった。



今も、その前提は変わっていないはずなのに、さっきより判断が重く感じる。

一人で全部を見て、一人で全部を決め続けている。


それは、ここに来るまで当たり前だったし、そのやり方で生き残ってきた。

今はその当たり前を続けるだけで、少しだけ負担が増えている。


理由を探そうとしてやめる。

言語化した瞬間に評価が始まり、そうなると足が止まる気がした。



進む。


急がない。

急ぐ理由は、まだない。



床を強く叩かない程度の速さで、体の位置だけを少しずつ前に移していく。

視界の端に、分岐の影が引っかかる。



全部を見ようとしない。

今は、正面だけでいい。



角が近づき、視界が切り替わる直前で、呼吸が自然と浅くなる。

体が頭より先に警戒している。


角を使い、視界が変わる。




――何も、いない。




それでも、すぐには緩まない。

緩めていいと判断できるだけの情報が、まだ足りない。


歩く。

止まる。

また、歩く。



その単純な繰り返しの中で、判断だけが確実に消耗していくのを感じる。


生きている。

それは確かだ。



でも落ち着けてはいないし、回復したとも言えない。

ただ、判断を続けているだけだ。一人で。


この状態が長く続けば、余裕が残らないのは目に見えている。

だから、足を止める。


止めること自体が、今この瞬間の判断だった。



耳を澄ませる。

もう一度、慎重に。



――そのとき、遠くで音がした。



床を擦る音。

反響の仕方が、さっきまでと違う。

そこには、かすかな規則性があった。



モンスターじゃない。

でも、信頼できる存在だと断定できるほどの情報もない。



人――



その可能性を考えた瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。

安心ではなく、選択肢が増えたことによる重さに近い感覚。



距離を測る。

近すぎない。

遠すぎもしない。



見に行かない。

けれど、距離は保っている。


一人で判断し続けている状態は、まだ終わっていない。




――ここから先は、俺は、もっと慎重にいく。




そう決めて、俺は音のする方向とは逆に、半歩だけ位置をずらした。





音は、はっきりとは聞こえなかった。



正確には、聞こえた気がした、という程度だ。

床を擦るような、乾いた音が一拍だけ混じった気がして、次の瞬間にはもう形を失っている。


反射的に足が止まる。

止まったというより、止めた。



耳に意識を集中させる。

呼吸の音を抑え、衣擦れが出ないよう肩の力を落とす。



静かだ。

さっきと同じくらい。



でも、同じじゃない。



音のない静けさに、わずかな違和感が混じっている。

壁に返るはずの反響が、どこかで欠けている気がした。



もう一度、音がする。



今度は、はっきり床を踏む感触を伴っていた。

間隔がある。

不規則だけど、完全に偶然とも言い切れない。


モンスターの動きじゃない。



そう判断できたのは、音の出方だった。

重すぎない。

軽すぎもしない。


装備を身につけた人間が、慎重に動いているときの音。

それに近い。



……人、か。



言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。

安心じゃない。

むしろ、判断の必要なことが一つ増えた感覚に近い。


人がいる。

それだけで、選択肢が増える。



増えるということは、選ばないといけないということだ。



距離を測る。

近くはない。

でも、遠すぎるとも言えない。


壁の位置、分岐の角度、音が届いた方向。

頭の中で重ね合わせるが、像ははっきりしない。



見に行く、という選択肢が一瞬だけ浮かぶ。

すぐに、消す。



見に行くには、情報が足りない。

戻る線を失う可能性がある。


無視する、という選択肢も浮かぶ。

それも、消す。



無視したまま進めば、背後に回られる距離だ。

背後に何かを置いた状態で判断を続けるのは、今の自分には重すぎる。


立ち位置を、半歩だけ変える。

音の来た方向と、正面を同時に視界に入れられる位置。



足音は、続いている。

一定ではない。

止まったり、動いたりを繰り返している。



相手も、こちらを探っている可能性がある。

もしくは、同じように警戒しているだけかもしれない。


どちらにせよ、確定できない。



確定できない相手は、危険だ。

敵だとも、無害だとも決められないまま、距離だけを保つ。


ここで声を出す、という判断も浮かぶ。

消す。



声を出した瞬間に、距離と位置を確定させてしまう。

今は、それをする段階じゃない。



光源は見えない。

ライトの反射も、影の揺れもない。


音だけが、存在を主張している。



人がいなければ、考える対象は減る。

ここまでは、それで生き残ってきた。


それでも、人がいることでしか生まれない選択肢があるのも、事実だ。



一人で全部を見て、全部を決め続ける状態。

それが、少しだけ揺らいでいる。


まだ、楽にはなっていない。

むしろ、判断は重い。



ただ――

この重さの種類が、さっきまでとは違う。



モンスター相手の重さじゃない。

環境だけを相手にしていたときの重さとも違う。


他者がいる、という前提が加わった重さだ。



距離は、まだ保てている。

位置も、把握できている。



だから、動かない。

今は、動かないという判断を続ける。


足音が、少しだけ遠ざかる。

完全には消えない。


相手も、確定を避けている。

そう感じられる程度には、余裕が残っていた。



――慎重にいく。



そう決めて、俺は通路の影に体を預け、音と距離の変化だけを待った。





影が、通路の奥でゆっくりと形を持ちはじめる。

はっきりと見えたわけではなく、壁と床の色が切り替わる境目で、何かが動いたように感じただけだった。



次の瞬間、足音が止まる。

それとほとんど同時に、こちらも足を止めていた。



距離は、まだある。

今すぐ詰められるほど近くはないが、無視できるほど離れているわけでもない。


互いに、動かない。

動かないまま、相手の出方を待っている。


視線を正面から外さず、通路の幅や角度、逃げ道になりそうな位置関係だけを意識に入れる。

その中で、相手の装備がぼんやりと視界に浮かぶ。



ライトは点いていない。

手ぶらではないが、武器を構えている様子も見えない。


探索者だ。

そう判断できたのは、立ち方だった。



警戒はしているが、最初から踏み込むつもりの姿勢じゃない。

距離を測りながら、こちらの反応を見ている。




「……人、だよな」




低く、短く響いた相手の声だった。

確認するような言い方で、断定する響きは含まれていなかった。


俺は、すぐには返事をしない。

返さないというより、間を置く。



声を出した瞬間、距離と位置が確定する。

一度確定した距離は、簡単には戻せない。


数秒、呼吸一つ分の間。




「……ああ」




それだけを返す。

余計な情報は、足さない。


相手も、それ以上を求めてこなかった。

影がわずかに揺れ、軽く頷いたのが分かる。



近づいてはこない。

こちらも、距離を詰めない。


合流した、と言えるほどの距離じゃない。

ただ、同じ通路に、同時に存在しているだけだ。



相手が、通路の先を指さす。

音を立てないよう、指先だけで示す仕草だった。




「……そっちは、反射が弱い」




説明はない。

評価も、感想もない。


事実だけが、短く落とされる。



俺は黙って頷き、示された方向と、さっきまで聞こえていた音の位置を頭の中で重ね合わせる。

確かに、壁の返り方が違い、音が吸われる感じがある。



相手は前方を見ている。

背後は、見ていない。


その代わり、背後を見ない前提の立ち位置を取っている。

完全に任せているわけではないが、役割を分ける意識ははっきりしていた。



俺は、自然と背後を見る。

振り返らない程度に、気配だけを拾う。


話し合ったわけでもなく、決めたわけでもない。

それでも、役割が分かれた。




「……止まるなら、ここ」




相手が小さく言う。

命令でも指示でもなく、判断の共有に近い。


否定する理由は見当たらない。

だから、その場で止まる。



壁との距離を微調整し、視界が欠けない位置に体を置く。

相手も、ほぼ同時に同じような調整をしていた。


近づいてはいない。

だが、離れすぎてもいない。



妙な距離だ。

安心できるほど近くなく、危険だと断じるほど遠くもない。


それでも、一人でいるときとは、明らかに違う。

全部を見なくていいし、全部を同時に考えなくていい。



背後に意識を割いている間、正面は相手が見ている。

逆も、おそらく同じだ。


判断を丸ごと預けているわけじゃない。

だが、判断の数が確実に減っているのを感じる。



楽になった、とは言えない。

緊張は、まだ体の奥に残っている。




ただ――

少しだけ、マシだ。




相手が、もう一度だけ前方を指す。

その先に、分岐がある。




「……今は、同じで」




そう言って、相手が歩き出す。

誘いではなく、提案に近い言い方だった。


俺は一拍だけ置いてから、同じ方向へ足を出す。

並んだわけでも、前後関係が決まったわけでもない。



ただ、同じ通路を、同じ速さで進んでいる。



利害がぶつかっていない。

その分、考えることが少し減る。



判断が減った分、気を抜けるほどでもない。

今は、その程度の関係だ。



――それでも、一人で進んでいたときとは、何かが違う。

何が違うのかは、まだ分からない。



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