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退く理由ある探索者  作者: ソイラテ
8/10

第8話 逃げた先で、生きていた

あれは、恐怖から出てきた判断じゃない。


怖いから避ける、という反射でもなければ、自信がないから退くという判断でもなかった。



さっきまで、俺はずっと距離を測っていた。

視界の広さ、音の返り方、戻るまでに必要な動きと時間、それらを一つずつ並べ直してきた。



その結果として、はっきりしたことがある。



見通しのいい道では、何かが起きた瞬間に選択肢が一気に減る。

迷う時間がなくなり、判断を先送りする余地も消え、立ち止まるほど状況が悪くなる形に見えた。


考えがまとまる前に、足だけが先に動きそうになる。

その位置に立つと、そういう感覚が強くなる。



危ないのは、敵そのものじゃない。

正面から行くことで、考える余地が削られていくことが一番の危険だった。



もう一方を見る。



奥は見えない。

情報は少なく、進めば進むほど判断は難しくなる。



だが、その代わりに、動き直せる余地が残っている。

下がれる。戻れる。立て直せる。

その順番が、最初から成立している。



見通しのある進み方には、なかった余白だ。


俺は、その進み方を選ばない。

少なくとも、今は。



それは逃げでも、諦めでもない。

理解したうえで、選ばないという判断だ。


正面から行くことが、いつも間違いなわけじゃない。

条件が揃っていれば、別の結論もあり得る。



だが、測れない状態で選択肢を削る動きは取らない。

それだけは、はっきりしている。


今日は、奥まで行くつもりはない。

代わりに、戻れる距離を保ったまま、分岐の位置と形を頭の中に刻む。



どこまで近づけるのか。

どこで引くべきなのか。

その線を、誰かの言葉じゃなく、自分の足元から引けるようにする。


そう決めて、俺は一度、入口のほうへ視線を戻した。

視線を戻すと、規制されたフェンスの輪郭が、まだ遠くに確認できた。


戻ろうと思えば、今なら戻れる。

それもまた、選択肢の一つだ。



正面から行くのは、たぶん危ない。

だから、今日は行かない。


生きて帰るために、選択肢を残すつもりでいる。

それが、今の俺のやり方だった。





本筋から外れたはずの通路は、ただ横に伸びているだけじゃなかった。



最初は、一本だと思った。

分かりやすい進路から外れただけの道で、少し進めば先が見えてくる。

そんな道だと勝手に決めていた。



けれど数歩進んだところで、その認識はあっさり裏切られる。


似たような細道が、左右にいくつも口を開けているのが目に入った。


どれも同じくらいの幅で、どれも似た色合いで、どれも奥まで見通せない程度に少しだけ暗い。



横に伸びているというより、横方向に静かに広がっている。

そんな表現のほうが近い。


そう気づいた瞬間、さっきまで当たり前だと思っていた距離感が、一気に信用できなくなった。



天井が低いわけじゃない。

壁が迫っているわけでもない。

物理的にはむしろ余裕があるはずなのに。



それでも視界が散る。

前を見ているつもりでも、意識の端に別の道や別の入口や別の影が引っかかり続ける。


どこまでが一続きで、どこからが分岐なのか。

立ち止まって眺めてもすぐには整理できない。




……安全、ではないな。




そう理解した時点で、進み方の性質が変わった。


見通しのいい道は分かりやすかった。

先が見えて、音が返ってきて、距離もある程度は感覚で掴めていた。



ここは違う。



音が少ない。

壁に反響しない。



だから静かだ。

そしてその静かさが逆に落ち着かない。



足音が自分のものしか聞こえない。

それが安心に繋がらないことを、体のどこかが先に理解している。



立ち止まる。



足を止めた瞬間、自分の呼吸の音だけが妙にはっきり聞こえた。



耳を澄ます。

一歩踏み出すかどうか決めきれないまま、ほんの数秒その場で何もしない。



それでも、返ってくるものは何もない。



何も聞こえないという事実が、この場所では判断材料にならない。




「……無理だと思う」




声に出してから、その言葉の意味を頭の中で切り替える。


今のは、やめたいじゃない。

逃げたいでもない。


状況を整理するための合図だ。



一本道じゃない。

進めば進むほど、選ばないといけない場所が確実に増えていく。



どの道を通ったのか。

どこまで来たのか。

戻るとしたらどこを戻るのか。



一つひとつは小さい判断なのに、積み重なると思考の余白が一気に削られる。



距離が測れない。

視界が信用できない。



だから、この時点で引き返す判断は、まだ遅くない。



戻るなら、今だ。


そう考えながら、無意識に来た道の方向だけは強く意識していた。



横に広がっている分、引き返す線だけは頭の中で太く何度もなぞっておく。


ここから先は、進むほど判断が増える。


この進み方は楽じゃない。

正面よりずっと。



それでも――

戻れる。


少なくとも、今の時点では。



一歩進む。



床の感触を、足の裏で確かめるように、慎重に重心を移す。


急がない。

急ぐ理由はまだない。



逃げた先は静かで、だからこそ落ち着かない。

生き残るための道は、いつもどこか居心地が悪い。





……そのときだった。

角を曲がった瞬間。



奥の通路で、空気が一瞬だけ押し潰された気がした。

音として理解するより先に、胸の奥が嫌な感じにざわつく。


視界が切り替わり、壁と床の色が変わるのを認識した、そのほんの一拍あとで異変に気づく。



俺は、動かない。



背中を壁に預け、呼吸をひとつずつ数える。

音を消すためじゃない。

自分を落ち着かせるためだ。




――通り過ぎていった。




そう思った、その直後。



通り過ぎていった。はずだった……。



距離が、近い。


思っていたよりもずっと近くに、それはもう、最初からそこにいたような距離で存在していた。



近すぎる。



頭の中で言葉になる前に、喉の奥がひりつき、息の通り道が一瞬だけ細くなる。



形は分からない。

全体は見えない。

それでも、そこに「いる」という圧だけが、視覚より先に伝わってくる。



一歩、下がる。



考えたわけじゃない。

危険だと判断する前に、

足が勝手に引いていて、体が元いた位置から静かに距離を作っていた。



床を蹴った感触が、遅れて意識に追いついてくる。


今、下がった。

そう理解したのは、体がすでに半拍先に動いたあとだった。



視界の端で、何かが揺れる。



空気が押されるような感覚があり、背中の皮膚が一瞬で粟立つ。


音が、遅れて届く。

重たいものが擦れるような、低くて鈍い音が、壁に吸われるように消えていく。



正面ルートなら、もっと前で気づけたはずだ。


曲がり角の手前で距離を測る時間があり、音を拾い、足を止める余裕もあった。



ここは違う。


横に広がっている。

視界が散っている。

だから、見落としが簡単に生まれる気がした。



距離を取る。

壁に寄りすぎないよう意識しながら、ほんの半歩だけ位置をずらす。



呼吸が、少しだけ速くなる。



息を吸った感覚が胸の奥で引っかかり、吐くタイミングを探す。


立ち止まれない。

でも、走れない。



走った瞬間に音で位置を知らせる気がして、足に力を込めきれない。


視線は前から外せなかった。

振り返った一瞬が、そのまま距離を詰められる時間になる気がした。



戻れる線は、頭の中にある。



来た方向。

角の位置。

視界が切り替わった地点。



それだけを意識の中心に置いて、他の情報を一度切り捨てる。


それだけで、今は十分だ。



一瞬、視界が重なる。



こちらが距離を取ったのと、向こうが動いたのが、ほとんど同時だった。


向こうも、こちらに気づいた。



それが分かる。

考えなくても、はっきりと分かる。



距離がこれ以上縮む前に、選択肢は消えていた。



逃げる。



理由を考える余地はない。

勝てるかどうかを測る暇もない。


逃げる以外の選択肢は、最初から、意識に上がらなかった。



考える時間は、もう終わっている。


ここからは、判断を続けるしかない。





逃げる。

そう決めた瞬間から、頭の使い方だけが切り替わり、余計な考えが後ろに押しやられる。



前を見る。

横を見る。

後ろは、見ない。



振り返った瞬間に距離を失う気がして、首の動きを意識の外に追い出す。


距離を保つことだけを、判断の中心に置く。



足を出す。

踏み込まない。

蹴らない。



床を強く叩かない程度の速さで、体の位置だけを少しずつ後ろにずらしていく。


速くはないが、遅くもない。

今はそれでいい。



一歩。

半歩。



角の手前で、進路を変える準備をする。



曲がる。

視界が切れる。



それだけで胸の奥が少しだけ緩み、次の判断に回す余裕が生まれる。


追ってきているかどうかは、確認しない。



確認した瞬間に、遅れる気がした。


音が、増えた気がする。



近づいたのか、反射しただけなのか、その区別は今の自分にはできない。



判断しない。

今は、距離。



曲がり角を使い、できるだけ直線を作らないように進路を選ぶ。


一直線になる場所を避け、視界が重なる時間を少しでも短くする。



一度、立ち止まりそうになる。



足が止まりかけて、体が警告を出す。


止まらない。


判断が、そこで途切れる気がした。



息を吸う。

吐く。



呼吸の音がこの場所では大きすぎる気がして、喉を鳴らさないよう意識を集中させる。


足音が、増えたり減ったりしている。



近いのか。

遠いのか。



測らない。

測れない。



ただ、一定を保つ。


分岐が見える。



右。

左。



一瞬だけ迷い、頭の奥に残していた線を引っ張り出す。


戻れる線は、左。


考える時間は、もう残っていない。



左に入る。

壁に寄りすぎないよう、体の位置をほんの少しだけ調整する。


距離を、わずかに広げる。



視界の端で影が動き、追ってきているのか角の向こうなのか分からないまま次に進む。



考えない。



距離が、少し縮む。


下がる。

角を使う。


視界を切る。

距離を戻す。



同じ動きを、何度も繰り返していることだけが分かる。


逃げているのに一直線じゃなく、前に進んでいる感覚もない。



今か。

まだか。


判断は、終わらない。

それだけが、続いている。





分岐の先で、道が目に見えて細くなっていくのが分かった。



さっきまで残っていた余白が、進むごとに削られ、左右に逃げるための選択肢が一気に減っていく。



距離が、詰まる。

詰まっていると理解するより先に、足が自然と後ろへ下がっていた。



下がる。

角を使う。




――使えない。




視界の先には抜けられそうな隙間が残っているが、そこへ体を滑り込ませるには距離が近すぎる。


完全に塞がれたわけじゃない。

まだ道はある。



それでも、このまま下がり続けるのは無理だと、体のどこかが先に理解していた。



逃げきれない。



そう考えた瞬間、頭の中が一気に静かになる。


どうするかを考えていない。

考える余地そのものが、もう残っていなかった。



体が、先に動いた。



当てるつもりはなかったし、押し返すつもりもなかった。


止めようとも、弾こうとも、そんな意識は最初から存在していない。



ただ、避けながら体の位置をずらした。


その途中で避ける動きの延長みたいに、触れただけのはずだった。



軽く、ほんの一瞬。



確かに前に出た腕の先が触れた感触はあった。

触れただけなら、これ以上のことは起きないはずだった。



それなのに。



手応えが、想定していたものと違う。

軽く触れたはずの場所に、妙に重たい感覚が残り、押した覚えのない反動が遅れて腕に返ってくる。



力を入れた記憶はない。

踏み込んだ感覚もない。



それでも、確かに何かが返ってきた。

向こうの動きが、一瞬だけ止まる。


完全に止まったわけじゃないし、崩れたと言い切れるほどでもない。

ただ、流れが切れた。



足運びが、ほんの一拍だけ遅れる。

踏み外したのか、バランスを崩したのか、その判断が頭に浮かぶ前に距離を取っていた。



下がる。

角を使う。


視界が切れる。



その瞬間、張りつめていた空気が一段遠ざかり、音の輪郭が曖昧になる。

心臓の音が、遅れて耳に届いた。

鼓動が、今さらになって速い。




今のは――なんだ。




言葉にしようとして、やめる。

答えを出すには情報が足りない。

それよりも、今は考えないほうがいい。


理由を探した瞬間に、足が止まる気がした。



ただ、おかしかった。

普通じゃなかった。

それだけが、頭の奥に沈殿する。


違和感だけを残したまま、体はまた距離を取る動きを続けていた。





角を二つ越えたところで、足がようやく止まった。

止めたというより、これ以上は無理に下がらなくていいと、体のほうが先に判断した感覚に近い。


追ってくる音が、聞こえない。

それだけで安心していいわけじゃないと分かっているのに、耳は反射的にその静けさを確かめようとする。



聞こえないだけかもしれない。

距離が開いただけで、まだ同じ場所にいる可能性もある。


そう考えて、呼吸を抑えながら、もう一度だけ意識を音に集中させる。

足元の擦れる音も、壁に伝わる振動も、気配らしいものは返ってこない。



ここだ、と頭のどこかが告げる。



完全に安全な場所じゃないことは、最初から分かっている。

ただ、今すぐ詰められる距離ではない。


それだけの理由で、この場所を一時的な逃げ場として選ぶ。

壁際に寄り、体を低くしながら、視界に入る情報を意図的に減らしていく。


周囲を見る余裕はない。

今は、余計なものを見ないほうがいい。



呼吸を、少しずつ整える。


吸う。

吐く。


胸の奥で鳴っていた音が、何度かの呼吸のあとで、ようやく一定の間隔に落ち着いていく。



それでも、完全には静まらない。

手が、わずかに震えている。


寒さのせいじゃない。

疲労とも違う。



今さらになって、張りつめていたものが緩み始めただけだと、自分に言い聞かせる。


力が抜けると、体は勝手に反応する。

それを止めるほどの余裕は、まだない。



倒していない。

追い払ったわけでもない。


逃げ切った、と言うには、その言葉が少し強すぎる。

距離を、ほんの少し広げただけだ。



ただ、ここに立っている。

それだけの結果が、今の現実だ。


視線を落とすと、足元の床が妙に現実的に目に入る。



ちゃんと、ここに立っている。

自分の体が、まだ動いている。


さっきの感触が、頭の隅をかすめる。

考えない。


そこに意識を向けると、また別の判断が必要になる気がした。



あれは――位置が良かった。

通路の幅や角の位置、立ち位置のわずかなズレが重なった。



タイミングも、たまたま合った。

向こうの動きとこちらの動きが、噛み合わない瞬間があっただけだ。



運も、少しだけ味方した。


どれか一つ。

もしくは、全部。


そういうことにしておく。



理由を掘り下げると、足が止まる。

今は進む。


この場所に長く留まる理由は、どこにもない。



視線を上げる。

来た道は、いくつもの角に遮られていて、一度に見通せる距離は短い。



一つ目の角。

二つ目の角。



どこで引き返せばいいかを、頭の中でなぞる。



戻れる。

まだ、戻れる。



そう確認してから、体の向きを変える。

背中を向けることに、さっきほどの抵抗は感じなかった。




生きている。




勝ってはいない。

何も得ていない。


息を吸って、ゆっくり吐く。


なんだか深い静けさを感じながら。



それでも――

逃げた先で、生きていた。



毎回お読みいただき、ありがとうございます!


次回から毎週月木更新予定です。


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