第6話 準備しないと、測れない距離
「ここは外なのか!?」
気づけば、ダンジョンの入口はもう見えなくなっていた。
振り返っても、そこには普通の道路と、いつも通りの街並みしかない。
建物の壁に貼られた広告や、少し色あせた看板、信号待ちをする人たちの無関心な横顔が並んでいる。
さっきまで確かに存在していたはずのものが、何事もなかったように消えている。
あの音は、もう聞こえない。
湿った空気も、壁に反響していた足音も、少し遅れて返ってくる気配も、すべて消えていた。
代わりに耳に入ってくるのは、車が通り過ぎる音と、誰かが笑いながら話す声だけだ。
どれも、間違いなく現実の音だった。
ちゃんと、戻ってきている。
そう思おうとした瞬間、胸の奥がわずかに重くなる。
息を吸うと、埃っぽい匂いが鼻をついた。
排気ガスとアスファルトが混じった、都会特有の少し乾いた匂いだ。
さっきまで感じていた冷たく湿った空気とは、はっきりと違う。
それでも、全部が消えたわけじゃない。
体の奥に、薄く引っかかるような感覚が残っている。
寒さとも恐怖とも少し違う、名前をつけるには早い違和感だけが、まだそこにあった。
俺は立ち止まって、しばらくその場から動けなかった。
夢だった、とは思わない。
気のせいだった、とも思えない。
足は確かにあそこに立っていたし、耳は確かにあの音を拾っていた。
息を殺し、距離を測ろうとして、結局何も分からなかったことだけは覚えている。
それだけは、はっきりしている。
通り過ぎる人たちの中に、俺を気に留める様子はない。
スマホを見ている人、急ぎ足の人、イヤホンで世界を遮断している人が行き交う。
誰も、さっきの場所のことなんて知らない。
世界は何事もなかったように、当たり前の顔で続いている。
それでいい、と思った。
あの場所が簡単に日常へ溶け込んでいないこと。
気軽に、誰でも踏み込める場所じゃないこと。
まだ、ちゃんと「危険」だということ。
それが、少しだけ救いだった。
俺はようやく足を動かし、駅の方向へ人の流れに混じるように歩き出す。
ポケットの中で、スマホの重みがやけに意識に残った。
画面を見なくても、さっきの光景が何度も浮かぶ。
距離が分からず、
聞こえた音も信用できず、
どこが境界なのかさえ曖昧だった。
どこまでが安全で、どこからが危険なのか。
その線を引くための材料が、何一つ足りていなかった。
――だから、出てきた。
頭の中で、そう言い切った。
それは逃げた、という感覚とは少し違う。
反射でも衝動でもない。
今の自分には、測れないものが多すぎただけだ。
理由は、もうはっきりしている。
怖かったからでも、勢いが足りなかったからでもない。
判断だ。
そう言い聞かせるように歩いていても、足取りはまだ少しだけ慎重だった。
マンホールの縁を無意識に避け、狭い路地に視線を向けてしまう。
現実に戻っても、中の感覚は完全には抜けてくれない。
それでも。
今は、この距離でいい。
分からないまま踏み込まず、ここで立っていられることを優先する。
駅へ向かう途中で足を止めて、俺は一度だけ深く息をついた。
それから、自分の判断をなぞり直す。
逃げたのか、と聞かれたら、即座に否定できるほど自信はない。
胸を張って「違う」と言えるほど、潔白な選択だったとも思えない。
怖くなかったと言えば嘘になる。
あの空気、あの距離感を前にして、平然としていられるほど強くはない。
心臓の鼓動は速かったし、呼吸も浅くなっていた。
身体が警告を出していたのは、間違いない。
それでも、理由は恐怖だけじゃなかった。
少なくとも、自分の中では、そこを一緒くたにはしたくなかった。
中にいたとき、俺は何度も距離を測ろうとした。
目で見て、音を聞いて、空気の重さで、危険の輪郭を掴もうとした。
前に出れば何が起きるのか。
少し下がれば、どこまで安全なのか。
その判断を、何度も頭の中で繰り返していた。
だが、どれも途中で止まった。
測れなかった。
分からなかった、というより、測るための基準そのものが存在していなかった。
近いのか遠いのかが分からない。
聞こえた音も、距離としては掴めなかった。
境界線を引こうとしても、線を引くための道具がなかった。
判断しようにも、判断材料が欠けていた。
だから下がった。
勢いで走ったわけでも、衝動的に逃げたわけでもない。
立ち止まって、少し考えて、それから下がった。
それは反射ではなく、一応は選んだ行動だった。
「……無理だと思う」
あのとき口に出た言葉を、頭の中でもう一度なぞる。
投げやりな響きに聞こえたかもしれないが、あれは諦めではなかった。
今のままでは、条件が揃っていない。
進んでも、何が起きるか説明できない。
そういう意味での「無理」だった。
行けない理由を並べたかったわけじゃない。
行く条件が、一つも揃っていなかっただけだ。
もし、あのまま進んでいたらどうなっていたか。
考えないわけじゃないが、その先に浮かぶのは、ろくな結末じゃない。
勇気があれば違った、とは思わない。
覚悟が足りなかった、とも思わない。
勇気や覚悟があっても、測れないものは、やはり測れない。
判断材料が不足していた。
それだけの話だ。
あの選択が正しかったかどうかは、まだ、この時点では決めなくていい。
少なくとも、今は。
逃げたかどうかは、まだ分からない。
その評価を下すには、材料が足りない。
だが、考える余地を残して戻ってきたことだけは、確かだった。
勢いで踏み込まず、次の判断に繋げる場所へ戻ってきた。
それを、今は否定しなくていい。
駅へ向かう人の流れに身を任せて歩きながら、
俺は中で感じていた違和感を、
感情ではなく起きていた現象として一つずつ引き戻していった。
怖かった、で片づけてしまえば簡単だが、それでは次に何も残らない気がしていた。
あの場所で一番困ったのは、距離だった。
見えてはいるのに、どれくらい離れているのかが、最後まで分からなかった。
近いのか、まだ余裕があるのか。
一歩踏み出していい距離なのか、それとも下がるべき距離なのか。
判断しようとするたび、基準になる感覚が揺らいで、信用できなくなっていく。
視界が悪いわけでも、遮られているわけでもないのに、数字に変換できなかった。
音も同じだった。
確かに聞こえているのに、その情報を判断材料として使えなかった。
反響なのか、移動なのか。
止まっている音なのか、こちらへ近づいている音なのか。
耳は情報を拾っているのに、その意味が最後まで確定しない。
警告なのか、ただの環境音なのか、切り分けることができなかった。
そして、一番厄介だったのが、境界だった。
どこまでが安全で、どこからが危険なのかという線が、どうしても引けなかった。
線を引こうとするたび、曖昧な領域が広がっていく。
安全とも危険とも言い切れない場所が、異様に多かった。
距離が測れない。
音が信用できない。
境界が曖昧。
それはつまり、測定するための手段が、何一つなかったということだ。
強さが足りなかったわけじゃない。
度胸や覚悟が不足していたわけでもない。
測るための道具がなく、基準がなく、比較対象もなかった。
だから、判断そのものが成立しなかった。
あの場所で必要だったのは、前に出る勇気じゃない。
状況を数え、危険度を整理するための基準だった。
危険度が低いとか、中程度だとか。
そういう言葉は、外の世界ではいくらでも使われている。
だが、中に立った瞬間、それらは自分の足元とは結びつかなかった。
他人の距離で測られた数字は、俺の立ち位置では意味を持たなかった。
当てはめようとすればするほど、判断は歪み、元の状況から少しずつズレていく感覚があった。
歪んだまま使えば、いずれ誤るのは目に見えていて、取り返しがつかなくなる可能性も高い。
中で感じた違和感は、直感や勘が鈍ったという話ではない。
判断の前提となる材料が欠けていて、組み立てそのものが成立していなかっただけだ。
測れないまま進むのは、慎重さが足りないという以前に、単なる無謀に近い。
分からないまま踏み込むのは、勇敢さではなく、危険を直視していないだけだ。
それは、覚悟や根性の問題ではなく、ただ危険なだけの行動になる。
俺に足りなかったのは、強さや経験値の量じゃない。
測れる状態で、あの場所に立つための準備と基準、その両方だった。
そう整理できたところで、胸の奥に引っかかっていたものが、
ようやく少しだけ下に落ちた気がした。
中で止まっていた思考が、外に出て、ようやく次へ進み始めた。
駅のベンチに腰を下ろしてから、俺はポケットの中のスマホを取り出した。
中にいたときの感覚だけを頼りに考え続けるのは、さすがに限界だった。
ニュースアプリを開くと、ダンジョン関連の記事がいくつも並んでいる。
危険度、攻略情報、注意点といった見慣れた言葉が、整った形で画面を埋めていた。
危険度は低から中。
初心者向け。
慎重に進めば問題なし。
そう書かれた文字を追っていくうちに、胸の奥に小さな違和感が溜まっていく。
意味は分かるのに、さっき中で感じた感覚と、どうしても重ならない。
次に、配信の切り抜き動画をいくつか眺める。
装備を整えた探索者が、軽い調子で中の様子を語っている映像だった。
「ここは音に気をつければ大丈夫っすね」
「変なのが出ても、距離さえ取れれば問題ないです」
画面の向こうで、探索者は笑いながらそう言った。
まるで、起きることの大半が最初から想定内だと言わんばかりの口調だ。
「近づかれたら下がればいいし」
「面倒そうなら、別ルート行けば当たらないんで」
語られているのは、進む方向と立ち回りの話ばかりだった。
避けるか、下がるか、回り道をするか。
何が出るのか。
どう動くのか。
それ自体については、具体的に語られない。
どれも間違ったことは言っていないのだと思う。
実際、その人たちは生きて帰ってきていて、その実績が言葉に重みを与えている。
それでも、その言葉はどこか軽く聞こえた。
軽いというより、距離が合っていない。
画面の向こうで語られている距離感と、俺が中で感じた距離感が、まるで噛み合わない。
同じ場所の話をしているはずなのに、立っている前提が違いすぎる。
彼らは測れている。
距離も、音も、危険の範囲も。
だから、モンスターの話も処理の話になる。
出るかどうかではなく、どう当たらないか、どう減らすか、どう片づけるかの話になる。
近づく前に間引くとか、動きを止めてから崩すとか。
倒しているはずなのに、その過程は細かく語られない。
画面の向こうでは、敵を相手にしているというより、 問題を一つ処理しているような話し方だった。
画面の向こうの探索者たちは、測れる前提で立っている。
だから、倒すか、避けるか、片づけるかという話が自然にできる。
俺は、その前提に立てていなかった。
測れる状態にすらなっていないまま、あの場所に立っていた。
同じ言葉を使っていても、立っている位置が違う。
そこにある断絶は、思っていたよりもずっと大きかった。
掲示板も少しだけ覗いてみる。
経験談やアドバイスが、勢いよく流れている。
「正面は避けろ」
「引けるなら引け」
「無理しなきゃ、ちゃんと片づく」
倒せないから避ける、という言い方じゃない。
無理をしなければ、倒せるところだけを倒す、という前提だ。
慣れるために、何を基準にすればいいのか、その前提がどうしても見えてこない。
引くべき距離を、どの時点で、どんな感覚で測ればいいのかも分からない。
どの程度なら倒せて、どこから先は手を出さない方がいいのか。
そういう判断の境目が、言葉としては語られていない。
そこが抜け落ちたまま、話だけが先へ進んでいる。
説明が、最初ではなく、途中から始まっているような感覚だった。
資格者と、そうでない者。
その差は、知識や経験の量だけの話じゃない。
測れる前提を、最初から持っているかどうか。
倒せるかどうか以前に、測れる状態で立っているかどうか。
そこに、越えられない溝がある。
彼らの言葉を、そのまま真似すればいいわけじゃない。
むしろ、無理に当てはめれば、さっき整理した通り、判断は歪む。
この場所では、自分の基準が必要だ。
自分の立ち位置から、距離も危険も測れるやり方が、どうしても必要になる。
そう思ったところで、俺はスマホの画面を閉じた。
今は、これ以上情報を重ねても意味がない気がした。
今の自分に足りないのは、答えじゃない。
測れる状態になるための準備だ。
駅を出て、アパートへ向かう道を歩きながら、俺は次に何をするべきかを改めて考えていた。
考えている内容自体は単純なのに、頭の中では同じところを何度も行き来している。
行くか、行かないか、という二択ではない。
その問い自体が、もう今の状況には合っていない気がしていた。
今のままでは、行けない。
それは感覚の問題じゃなく、条件の問題だ。
距離が測れず、音が信用できず、境界が引けないままでは、判断が成立しない。
それはもう、はっきりしている。
だからといって、完全に諦めたわけでもない。
あの場所を、もう二度と考えないと決めたわけでもない。
少なくとも、もう一度近づく可能性までは、まだ手元に残していた。
ただし、その形は、さっきまで考えていたものとは違う。
必要なのは、勇気じゃない。
覚悟でも、勢いでもない。
測れる状態で、あの場所に立つこと。
それが、次の段階に進むための前提条件だと分かっている。
距離を測るための手がかりが必要だ。
自分の感覚だけに頼らず、比較できる基準が欲しい。
音を信用するための基準も必要だ。
聞こえた瞬間に判断を迫られるのではなく、整理できる余地が欲しい。
どこまでが安全で、どこからが危険なのか。
その線を、自分の足元から引き直せるだけの材料が必要になる。
それらが揃わない限り、次の判断は成立しない。
進むか引くかを考える以前の問題だ。
装備の名前や、具体的な道具を思い浮かべるには、まだ早い。
それを決める前に、何のために必要なのかをはっきりさせる必要がある。
情報を集めるにしても、闇雲では意味がない。
他人の前提をそのまま借りるのではなく、自分の位置から拾い直す必要がある。
逃げ道も、最初から用意しておく。
引くと決めた瞬間に、迷わず下がれる状態を作っておきたい。
迷いながら下がるのと、決めて下がるのとでは、結果が変わる。
それは中で、嫌というほど感じた。
生活が先に崩れる選択は、最初から外しておく。
探索より先に、日常が壊れるようなやり方は取れない。
生き延びたあとに困る選択は、最初から避けたい。
行くこと自体が目的になるのは、違う。
何も持ち帰れない探索なら、そもそも成立しない。
目的は、生きて帰ることだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そうやって一つずつ整理してみると、やるべきことは意外と多い。
同時に、今すぐ結論を出す必要はないとも分かる。
焦って動けば、また測れない状態に戻る。
それだけは、繰り返したくない。
今は、行かなくていい。
まだ、行く準備を整えている段階だ。
無理だと思ったから、終わりじゃない。
無理だと思った理由を、ようやく言葉にできただけだ。
分からないまま、踏み込まないと決めている。
測れないまま、手を出さないと決めた。
次は、無理だと思わない状態で立つ。
そのために、何が足りなかったのかは、もう分かっている。




