第4話 選択肢がないから、危険を選ぶ
お正月休みなんて一瞬の出来事でした。
休み明けも、まだ原稿のストックがあるので大丈夫です。
床に残っているのは昨日のままの空気。
畳の端に、使い終わったビニール袋が丸まっている。
何を入れていたかは、もうどうでもいい。
押し入れの前には、昨日履いたままの靴が置きっぱなしになっている。
付いた土はすっかり乾いていて、白っぽくなっているのが分かった。
拭こうか、と一瞬だけ思った。
けれど、そのままにしておいても、今日は問題にならない。
リモコンは、テレビの前に落ちたままだ。
電池が切れかけなのは分かっているけれど、替える気にはならなかった。
そもそも、点けなくても困らない。
今は、音が増えるだけで、部屋が狭くなる気がする。
部屋は相変わらず静かで、寒さも、昨日とほとんど変わらない。
変わったのは、たぶん時間だけだ。
ただ今日は、そのままにしておけない感覚が、少しだけ残っていた。
いつもなら後回しにしていた「確認」を、先にやっている。
何かを決めた、という手応えはない。
気持ちの中で線を引いた覚えも、はっきりとは残っていない。
財布を開く。
中身は、だいたい予想していた通りの状態だった。
紙幣は入っていない。
小銭だけが、少しだけ音を立てる。
その軽さに、今日をどう過ごすかを、改めて考えさせられる。
机の上には、昨日使ったものがそのまま残っている。
改めて見直してみると、「生活に必要なもの」というより、「これ以上減らせなかったもの」だけが並んでいた。
必需品、という言葉を使うには、どれも少しずつ心許ない。
これが俺の全装備で、ここから選ぶしかない、と思う。
ゲームだったら、出発前に「装備が不十分ですが、進みますか?」と確認される場面だ。
ただし、ここでは再挑戦の表示は出ない。
机の上に、持ち物を一つずつ並べていく。
スマホと鍵と、折りたたんだメモ。
使う順番を考えるほどの数でもない。
それでも、視線で追って、位置を確かめる。
昨日までの俺なら、この時点で理由を探していたと思う。
今すぐじゃなくてもいい理由。
やらないで済む可能性を、先に拾うための言葉。
先延ばしにしても問題ない、そう自分に言い聞かせるための材料。
でも今日は、そういうものを探していない。
探さないまま、指先でスマホを持ち上げている。
画面が点く。
その明るさ自体は、昨日と何も変わらない。
けれど、それを見ている自分の感覚が、ほんの少しだけ、昨日とは違っていた。
何かに向かって踏み出した、という感じではない。
むしろ、戻れる場所が静かに減っているだけだ。
選んだつもりはない。
ただ、残ったものを見ているだけ。
その感覚を、今日は特に疑わず、先に進めていた。
スマホの画面を、指でゆっくりと下に送っていく。
見ているのはニュースでも掲示板でもなく、今の生活に直結しそうな情報だけだ。
今の俺にとって必要なのは、煽り文句や成功談みたいな、気持ちを持ち上げるための話じゃない。
まず目に入ってくるのは、危険度評価という項目だった。
表示は「低〜中」とされていて、区分だけを見れば最初から弾かれるほどではない。
その下には、「初心者向け」という言葉が、ほとんど同じ書き方のまま、いくつかのサイトで並んでいる。
初心者向け。
便利で、柔らかくて、そのぶん、どこまで本気で受け取っていいのか分からない言葉だ。
初心者向けということは、初心者が実際に入り、
その結果がある程度は積み重なっている、という意味でもある。
戻ってきた人数も、戻ってこなかった人数も、具体的な数字としては、どこにも書かれていない。
死亡率の項目は見当たらず、代わりに並んでいるのは、注意事項ばかりだった。
装備不足に注意。
無理な進行は避けること。
状況判断を怠らないこと。
単独行動は、非推奨。
推奨人数、二名以上。
その一文を読んだところで、俺の視線は、少しだけ画面の上で止まる。
俺は、基本的に一人だ。
この条件は、今さらどうにもならない。
次に、報酬のページを開く。
素材の名前がいくつか並んでいるが、正直、どれも聞いたことのないものばかりだった。
それぞれに相場価格が表示されている。
日付ごとに更新されていて、多少の上下はある。
ただ、劇的に跳ねている様子はなく、安定していると言えば、そうも見える。
一回の探索で、浅い階層を前提にすれば数千円程度。
成果が出なければ、その日は収入がない。
赤字になる可能性については、どの説明にも、はっきりとは書かれていない。
命や身体以外の損失は、だいたい、こういうところでは曖昧に扱われる。
画面を切り替えて、ダンジョンの構造を示した図を見る。
図の下に添えられた説明では、一本道は少なく、分岐が多い構造だと書かれていた。
正面突破は推奨されておらず、慎重に進み、状況を見て引ける探索者ほど、生存率が高い。
その一文を、俺は特に感情を挟まず、もう一度読み返す。
評価でも忠告でもなく、ただの統計として書かれている文だ。
──ここまで読んで、
少なくとも「無理だ」と切り捨てる理由は見当たらなかった。
スマホを持ったまま、指の動きを止める。
画面を見下ろしたまま、しばらく考える。
怖いかどうか、という話ではない。
問題にしているのは、やれるかどうかでもない。
今見ているのは、この条件が、生活として成立するかどうか、という一点だけだ。
比べているようで、実際には比べようのないものまで、同じ表に並べていた感覚だった。
画面を消す。
必要な情報は、ひとまず並んだ。
これ以上、今の俺に判断を楽にしてくれる材料は、増えそうにない。
まだ、結論を出したわけじゃない。
ただ、今の条件が出そろっただけだ。
スマホを伏せて、机の上に静かに置く。
画面が暗くなっただけで、部屋の静けさが一段はっきりした気がした。
視線が、そのまま部屋の中をゆっくり一周する。
広くもないし、特別きれいに片づいているわけでもない。
それでも、ここに何があるかは、もう全部分かっている。
削れるところは、だいたい削った。
食費も、光熱費も、移動にかかる金も、思いつく限りは切り詰めてきた。
これ以上削ろうとすると、生活の質じゃなく、生活そのものを削る話になる。
先延ばしにすること自体は、できなくはない。
今日じゃなくても、明日でもいいし、数日延ばすこともできる。
でも、明日にしたところで、何かが好転する材料は、今のところ見当たらない。
減らない支出と、増えない収入。
その間を埋めるように、時間だけが静かに削れていく。
財布の中身を思い出す。
さっき確認した数字を、もう一度頭の中でなぞる。
わざわざ数え直す必要もない。
あの軽さは、感触としてもう残っている。
今すぐ働ける先は、見えていない。
学費の話も、現実的な進展はない。
節約で耐える期間が、もう計算に入っているという事実だけが、はっきりしている。
その上で、さっき見ていた情報を、改めて思い返す。
危険は、確かにある。
怪我をする可能性も、何も得られずに終わる可能性もある。
それでも条件を絞って見れば、
数字の上では、完全に破綻している選択肢ではなかった。
最低限の装備で、浅い階層までを前提にして、無理をしない進み方を選ぶ。
そう仮定すれば、成立しないと切り捨てるほどではない。
これは、夢の話じゃない。
挑戦とか、覚悟とか、そういう言葉で語るものでもない。
ただ、今の生活の延長線上に、現実的に残っている手段の一つだ。
危険かどうか、という基準ではない。
やりたいかどうか、という話でもない。
他に、同じように現実的な選択肢が残っているか。
それだけを考えて、答えを並べていく。
そして、その数が、一つずつ減っていくのが分かる。
机の上には、さっき並べた持ち物が、そのまま残っている。
どれも特別なものじゃない。
けれど、どれも、今日の続きに使うものだ。
まだ、行くとは決めていない。
ただ、戻れる方向が、少しずつ狭くなっている。
その感覚を、俺は言葉にせず、黙って受け入れていた。
考えるのをやめた、というわけではない。
ただ、同じ場所を行ったり来たりするだけの思考を、いつまでも続けなくなった。
条件は、もう十分に並べてある。
新しい情報が急に出てくる余地も、判断を楽にしてくれる都合のいい抜け道も、今のところ見当たらない。
行くか、行かないか。
そういう形で考えようとすると、どうしても途中で引っかかって、思考が先に進まなくなる。
その二択自体が、今の自分の状況や生活には、あまり合っていない気がしていた。
行かない、という選択肢は、結局のところ「何もしない」という形でしか成立しない。
そしてそれは、同じ日を、そのまま何度も繰り返すという意味になる。
行く、という選択肢も、前に進めることや状況が良くなることを保証してくれるわけじゃない。
ただ、結果が出るかもしれない、という可能性が残るだけだ。
もう一度、条件を頭の中で並べ直してみる。
危険度、収入、生活。
順番を変えてみても、区切り方を変えてみても、出てくる要素は同じだった。
危険を先に考えれば、当然行かない方が安全に見える。
生活を先に考えれば、何もしないまま時間を消費する方が、結果として削れていく。
どちらかに重心を寄せてみても、残る違和感の位置は変わらない。
計算し直しているつもりで、実際には、同じ数字を違う角度から眺めているだけだと気づく。
入れ替えても、削っても、最後に残る形は、やっぱり同じだった。
どちらも、正しいとか、間違っているとか、そういう分かりやすい基準で比べられるものではなかった。
それでも一瞬だけ、ここで何も選ばなければ何も失わずに済む気がした。
そこで一度、考えが最初に戻りかけて、同じ結論しか残っていないことに気づく。
しばらく考えているうちに、頭の中に残る問いの形が、少しずつ変わっていく。
「行くか、行かないか」ではない。
「どちらの状態を、もう少し続けられるか」という問いだ。
今のまま、減っていく数字と、動かない現実を、ただ見続けている状態。
それとも、条件を限定した上で、結果が出るかもしれない場所に、時間を使っている状態。
そこまで整理して、ようやく比べる対象が一つにまとまった気がした。
勇気や覚悟の話ではなく、ただ、今の状況をそのまま当てはめる段階なんだろう。
必要なのは、今の状態を基準にして、どちらが、まだマシかを選ぶことだけだった。
机の上に並べた持ち物に、自然と、もう一度視線が落ちる。
スマホも、鍵も、急に特別な意味を持ち始めたわけじゃない。
ただ、今日の続きをどこで過ごすかを決める材料にはなっている。
まだ、決めたつもりはない。
口に出して、何かを宣言したわけでもない。
それでも、戻る前提で考える思考そのものが、いつの間にか、選択肢の外に追いやられていた。
机の上に置いたものを、意味を与えるでもなく、順番に手に取っていく。
特別な準備をしている感覚はなく、置き場所と重さを確かめ直しているだけだ。
スマホを手に取り、ポケットに入るかを確かめながら、画面が割れない向きを選ぶ。
ほんの少し角度を変えるだけの動作に、いつもより時間をかけている自分に気づく。
鍵を握る。
金属の冷たさが指先に残り、落とさないよう意識して、自然と力が入る。
押し入れの前に置きっぱなしだった靴を、足元まで引き寄せる。
乾いた土が畳に少し落ちるのを見て、拾う理由も拾わない理由も考えなかった。
紐の状態を確かめ、ほどけやすそうなところだけを選んで、軽く結び直す。
強く締めるほどの覚悟はなく、ただ今できる範囲の調整をする。
上着を手に取ると、思ったより軽く感じて、ポケットの中を探る。
何も入っていないことを確認し、それでいいと判断する。
余計なものを持つほどの余裕はない。
今は、増やすより減らしたままでいる方が楽だった。
部屋の中を、もう一度だけゆっくり見回す。
広さも寒さも昨日と変わらず、ここに残る理由が増えたわけでもない。
生活の痕跡はいくつも残っているが、それらが今の判断を引き止めるほど、強い存在感を持っているわけでもなかった。
ドアの前まで歩いて、一度だけ足を止める。
深呼吸をするほど気持ちが高ぶっているわけでもなく、落ち着いているとも言えない。
行く、とは思っていない。
戻らない、と決めた覚えもない。
気づけば、今日の続きを、今までとは少し違う場所で過ごす準備だけを、淡々と進めていた。
ドアノブに手をかけ、冷たい感触を確かめてから、力を入れる前に指を止める。
その言葉を声に出してみると、諦めというより、状況を整理し、判断を確かめるための言葉に近かった。
そう呟いたまま、俺はドアノブから、まだ手を離さなかった。
「……無理だと思う。」




