第3話 二万八千円の部屋は、思ったより寒い
ドアを閉める。
外の音が一段階、遠くなったように感じた。
蝶番がきしむ小さな音に続いて、鍵を回す金属音が部屋の中に残る。
その音を境に、外の気配が切り離された気がした。
靴を脱ぎ、畳に足を下ろす。
かかとから伝わるひんやりした感触が、思ったよりもはっきりしている。
靴をそろえようとして、少し迷う。
誰に見せるわけでもないのに、向きを合わせてから、やめた。
そのままでも、別に困らない。
そう思っているはずなのに、足先だけがもう一度、靴に触れた。
「まぁ、いいか」
小さく呟いて、今度こそ、そのままにする。
どちらでもいいことに、少しだけ時間を使ってしまった。
……冷たい。
外よりも、気のせいか部屋の中のほうが冷えている。
部屋は静かだった。
音がないというより、音そのものを吸い込んでしまうような静けさだ。
一度、大きく息を吐く。
自分でも気づかないうちに、思っていたより長く吐いていた。
「……帰ってきた。今日は、ちゃんと。」
声に出してみると、部屋に自分の声だけが落ちた。
誰に聞かせるつもりもないのに、言葉にしないと実感できなかった。
今日は、何も起きなかった。
怒鳴られることもなく、余計な言葉をぶつけられることもなかった。
言い返さなかったし、
揉め事にもならなかった。
それだけでいい。
少なくとも、今はそれで十分だと思えた。
上着を脱ごうとして、途中で手を止める。
部屋の空気が肌にまとわりつくようで、脱ぐ気になれなかった。
「疲れたな」
また、独り言が口からこぼれる。
声は小さく、すぐに静けさの中に溶けていく。
返事はない。けれど、この部屋は何も言わずに受け止めてくれている気がした。
上着を着たまま、しばらくその場から動かずに立っている。
次に何をするか、まだ決めなくていい時間が流れている。
考えなくていい場所に戻ってきた。
そう思えたことが、今日一番の、確かな手応えだった。
部屋の真ん中に立ったまま、ゆっくりと視線を巡らせる。
見えるものは、事前に想像していた通りのはずだった。
四畳半。
数字で知っていた広さだし、内見のときにも確認している。
布団が一組と、小さな机。
押し入れは古いが、ちゃんと戸は閉まる。
余計なものは、何もない。
むしろ、必要なものは揃っているはずだった。
それなのに、距離が近い。
一歩動くだけで、すぐ壁が視界に入る。
腕を伸ばせば畳の端から端まで、届きそうな感覚。
自分の生活が、すべてこの範囲に収まるのだと思うと、少しだけ息が詰まる。
この広さに、毎日戻ってくる。
そう考えた途端、胸の奥で何かがきゅっと縮んだ。
今日だけなら、問題はない。
引っ越してきた初日で、まだ慣れていないだけかもしれない。
でも、この距離感が当たり前になったとき、
何を手放すことになるのかは、分からなかった。
「そのうち………、慣れるのかな。」
小さく呟いてみるが、声には確信がなかった。
慣れること自体が良いことなのかどうか、判断はまだ先に残った。
ここにあるものは、最初から必要最低限だ。
これ以上減らせば、不便になるラインはすぐそこにある。
それでも、人は慣れる。
不便さも、寒さも、静けさも。
そうやって日々を重ねるうちに、
元に戻れなくなる感覚だけが少し遅れて、付きまとった。
「狭いな」
思わず、声が出た。
言葉にしてみて、初めて実感した気がした。
その直後、隣の部屋から物音がした。
低く鈍い音で、何かを置いたような気配。
壁越しに、生活がある。
誰かが、同じ建物で、同じように夜を迎えている。
音は小さい。
だが、思ったよりはっきり聞こえる。
壁が薄いという情報は、頭では分かっていた。
それでも、実際に聞こえると話は別だった。
天井を見上げる。
木の染みがいくつか残っていて、消されずにそのままになっている。
どれくらいの時間が、ここを通り過ぎてきたのか。
考えても分からないことが、急に現実味を帯びてくる。
足元から、また冷えが伝わってきた。
立っているだけなのに、体の熱が少しずつ奪われていく。
外より寒い、という感覚が消えない。
気のせいだと言い切るには、妙にしつこかった。
上着の袖口を、無意識に引き寄せる。
この部屋では、そういう仕草が自然になる気がした。
想定内のはずの生活。
でも、体が受け取る感触は、想像より一段重い。
「……思ったより、だな」
何が、とは言わなかった。
言葉にしなくても、違和感だけははっきり残った。
机の上に、スーパーの袋を置く。
中から出てきたのは、惣菜売り場で買ったおにぎりだった。
昆布。
おかか。
並べてみると、いつもと同じ組み合わせだとすぐに分かる。
特別な日でもなく、節約を強く意識したつもりもないただの昼食だった。
鮭も売り場にはあった。
少しだけ値段が高くて、いつもより数十円上のやつ。
一度は手に取って、しばらく迷ってから、元の場所に戻した。
理由は単純で、それ以上でもそれ以下でもない。
包みを開けて、一つ目のおにぎりを口に運ぶ。
昆布の味は、予想通りで、特に感想が浮かぶほどではなかった。
変わらない味だ。
悪くもないし、良くもない。
続けて、もう一つも食べる。
噛んで、飲み込んで、それで昼食は終わった。
「こんなもんか。まあ、昼なんて、こんなもんだ。」
独り言が、部屋の中に落ちる。
納得しているわけでも、諦めているわけでもない、ただの確認だった。
包み紙を丸めて捨てようとして、指が止まる。
一度広げて、妙にきれいに畳み直した。
何の意味もない。
畳んだからといって、腹が膨れるわけでもない。
それでも、机の端に置かれた包みが少しだけ整っていると、
部屋の中の雑さが一つだけ、減った気がした。
「だから何だ!?」
言ってから、自分で可笑しくなる。
声に出しても、何も変わらないのに。
食べ終わってしばらく経っても、体はあまり温まらない。
胃のあたりだけが少し重くなって、手足の冷えはそのまま残っている。
体を動かせば、少しは違うのかもしれないと思って、立ち上がりかける。
だが結局、そのまま椅子に座り直した。
今は動く理由がなく、用事もなければ行きたい場所も思い浮かばない。
部屋の中をあらためて見回して、ようやく一つのことに気づく。
ここには、これ以上削れるものが、もうあまり残っていない。
家具は最初から最小限で、食事もいつも通りの選択しかしていない。
無駄だと思えるものは、引っ越してくる前の段階で、すでに置いてこなかった。
「……他に、何かあったっけ」
独り言が、少し間を置いて部屋に落ちるが、返ってくるものは何もない。
考えてみても、すぐに答えが浮かばないことだけが、はっきりした。
今日をやり過ごすだけなら、特に問題はない。
昼を食べて、夕方を迎えて、そのまま夜まで待つことはできる。
実際、今もそうしている。
ただ、それを何日続けられるのかは、別の話だった。
だが、それを何日続けられるのかと考えた瞬間、感覚が急に曖昧になる。
明日も同じ昼を食べ、同じ組み合わせで同じ値段のものを選ぶ。
それ以上削れる場所を思いつかないまま、時間だけが静かに進んでいく。
何も起きていないのに、余裕だけが少しずつ削られていく。
「今日は、まだいいか。明日のことは、明日で。」
声に出してみると、その言葉が自分への言い訳なのか、それとも確認なのか分からなくなった。
机の端に置かれたエアコンのリモコンが、自然と視界に入る。
見るたびに、意識がそちらに引っ張られる感覚があった。
つければ、少しは楽になる。
それくらいのことは、分かっている。
それでも手を伸ばす直前で、動きが止まる。
今つけるほどか、と自分に問いかける間が入った。
リモコンを手に取って、親指を置いたまま、しばらく固まる。
押せば終わる話なのに、なぜか指だけが動かない。
少しして、何も押さないまま、元の位置に戻した。
戻す動作だけが、やけに丁寧だった。
「……押してないからな」
誰に言うでもなく、そう呟く。
言い訳としては、たぶん成立していない。
答えは出ない。
ただ、迷ったという事実だけが、その場に残る。
窓のほうに目をやると、外の明るさがわずかに変わっている。
昼の光が、気づかないうちに色を落とし始めていた。
時間は、確実に進んでいる。
何もしなくても、それだけは止まらない。
この部屋で、今日を過ごすこと自体に問題はない。
少なくとも、今この瞬間までは。
ただ、同じ選択を重ねていく様子を想像すると、
胸の奥に、言葉にしづらい重さが静かに残った。
今は、まだ大丈夫だ。
そう言える理由も、確かにある。
日は、少しずつ傾いていく。
その事実だけが、静かにそこにあった。
窓の外を、もう一度見ると、さっきよりも光の角度が低くなっているのがはっきり分かった。
昼の白さが薄れ、景色全体の色が少しだけ落ち着いてきている。
何かをしたわけではない。
この部屋にいる時間だけが、静かに増えていた。
それでも時間はきちんと流れていて、この部屋の中でも外と同じ速さで進んでいる。
気づけば、机の脚が落とす影の位置が変わり、さっきよりも長く伸びていた。
夕方が近い。
そう判断するには、もう十分だった。
「……もう、そんな時間か」
小さく呟いてから時計に目をやると、思っていたより針は進んでいる。
特別なことは何もしていないのに、時間だけが確実に積み重なっていた。
この部屋で、こうして時間を過ごすこと自体は、特別なことではない。
今日一日だけを切り取れば、何の問題もなく、ここまで来ている。
ただ、同じような時間が、この先も同じ調子で積み重なっていくとしたらどうなるか。
そう考えかけたところで、意識的に思考を止めた。
今は、まだ先の話だ。
今決めることじゃない。
部屋の中は、相変わらず静かで、昼と夜の境目が音もなく近づいてくる。
外の光が少しずつ弱まるのに合わせて、部屋の寒さも、じわりと増していった。
窓の外は、さっきよりもさらに暗さを増している。
夕方と夜の境目が分からなくなりつつあった。
夕方と呼ぶには遅く、夜と呼ぶには早い、どちらにも属さない曖昧な時間帯だ。
部屋の中の明るさも、それに引きずられるように少しずつ落ちていく。
電気をつけるほどではないが、何もしないには少し心もとない中途半端さが残る。
この時間になると、外に出る理由も、どこかへ戻る理由もなくなっていく。
選択肢が消えたわけではないが、選ぶ意味が薄れていく感覚があった。
今日という一日は、もう終わりに近い。
何かを成し遂げたわけでもないし、取り返しのつかない失敗をしたわけでもない。
それでも、何も残っていないわけじゃなかった。
部屋の中には、寒さと静けさだけが、そのまま置かれている。
机の上には空になった包みが、まだ手つかずのまま残っている。
片づけるほどでもないが、今すぐ触る理由も見当たらなかった。
視線を向けたまま、結局、目を逸らす。
今日は、そこに踏み込まなくてもいい気がした。
この部屋で過ごす夜が、また一つ増える。
そう考えた瞬間、胸の奥に小さな引っかかりのようなものが残った。
焦っているわけではない。
今すぐ何かを変えなければならない、と決めたわけでもない。
ただ、選べるものが少しずつ減っている感覚だけが確かに、存在していた。
音もなく、誰にも気づかれないまま、ゆっくりと。
「……まあ、今日はいいか」
小さくそう言って、いったん区切りをつける。
言葉にしたのは、自分を落ち着かせるためだったのかもしれない。
夜は、もうすぐそこまで来ている。
その事実だけが、はっきりと残っていた。




