第2話 クビになった理由を、俺は聞かなかった
名札を外すと、思ったより音が鳴った。
プラスチックのくせに、手の中で妙に重かった。
名札を裏返して、もう一度表に戻す。
意味はないが、名前が見えたままなのが、なんとなく落ち着かなかった。
結局、ポケットに入れる前に、向きをそろえてからしまう。
誰に見せるわけでもないのに、そこだけは雑に出来なかった。
「……今さらだな」
小さく呟いて、自分で分かっていることを確認する。
店内は昼前にしては静かで、ピークを外した時間帯特有の落ち着きがあった。
いつもなら気にしない空気が、今日はやけに広く感じられる。
「えっと……」
店長は言葉を探すように視線を落とし、そのまま一瞬、床を見つめた。
その仕草だけで、これから何が告げられるのかを察してしまう。
「急で悪いんだけどさ」
それは前置きだと分かる。
この場に呼ばれた時点で、結論はすでに用意されている。
「今回は――」
言葉が途中で止まり、続きを言わなくても意味は十分に伝わった。
最後まで聞かなくても、状況はもう完成している。
「……はい」
返事は考えるより先に口をついて出ていた。
自分でも驚くほど、自然で落ち着いた声だった。
店長は一瞬だけ間を置き、こちらの反応を確かめるように目を向けた。
想定よりも早い返答だったのか、少し戸惑った表情を浮かべた。
足りない。
そう思った、その瞬間に、 視線が一度、床に落ちた。
沈黙が数秒続き、その間に頭の中がゆっくりと静まっていく。
焦りはないが、楽観できるほど余裕があるわけでもない。
今じゃない。
ここで何かを付け足す時間でも、削り落とす時間でもない気がした。
少なくとも、この場で確定させる話ではないと思えた。
店長が息を吸い、次の言葉を選ぼうとする気配が伝わってくる。
説明に入る前の、あの独特の間。
その気配を感じ取ったところで、俺は少しだけ姿勢を正した。
逃げるためじゃなく、選ぶための準備として。
考える。
言い返すためじゃない。
どう終わらせれば、これ以上の被害を出さずに済むのか。
――ここで、
店長は次の言葉を口にする。
店長は、さっき吸い込んだ息を、ゆっくりと言葉に変えた。
その速度が、こちらの出方を見ているようで、少しだけ居心地が悪い。
「一応さ、理由は――」
そこまで言って、また言葉が止まる。
俺が続きを求めるかどうかを、待っているのがはっきり分かった。
一瞬だけ、喉の奥が詰まる。
聞けばたぶん話は早い。
説明する準備は、最初から出来ているのだと思う。
順序立てて、丁寧に、こちらが納得しやすい形で。
向いてなかったとか、
今は人手が足りているとか。
どれも、たぶん間違ってはいない。
だからこそ、それを聞くのは今じゃないと思えた。
「……大丈夫です」
そう返した声は、思った以上に低く、静かだった。
拒んだというより、差し出されたものを受け取らなかっただけだ。
「聞かなくていい?」
念を押すような問いが返ってくる。
逃げ道を用意してくれているのが分かって、余計に迷いが消えた。
「はい」
それ以上、付け足す言葉は浮かばなかった。
ここで説明を受け取れば、足りない部分を確定させてしまう気がした。
足りない。
それは事実だし、ずっと前から分かっていたことでもある。
ただ、それをこの場で確定させる必要はないと思った。
店長は少しだけ困った顔をしてから肩をすくめ、深追いしない選択をした。
説得もしないし、引き止めもしない。
「……そういう人も、いるからな」
その言い方には評価も否定もなく、ただ一つの型に当てはめるような響きがあった。
退く。
正解かどうかは分からない。
ただ、これ以上の評価や説明を増やさないための選択だった。
考える。
どう正しいかじゃない。
どうすれば、この場を静かに終わらせられるかだけを考える。
「じゃあ……」
店長は言葉を選び直し、いつもの業務連絡みたいな口調に戻った。
「今まで、ありがとう」
「こちらこそ」
それは社交辞令だ。
でも、否定するほどの違和感も、わざわざ掘り返す理由もなかった。
話は、それで終わった。
理由は、結局聞かなかった。
聞かなかったことで、
何かを失った可能性はある。
それでも今は、
失わずに済んだものの方が多い気がしている。
そう整理して
俺はその場を離れた。
店を出て、少し歩いたところで、
背中に感じていた空気が、急に冷たく感じられた。
昼前のはずなのに日差しはまだ弱く、
コートの中に逃げ場はなく、体の芯だけがゆっくり冷えていく。
手袋は、持っていなかった。
必要だと思ったことは何度もあるが、結局そのままにしてきた。
買うほどでもないか。
今じゃなくていいか。
そうやって先送りにした結果が、今の手元に残っている。
駅までの道は、いつもより少しだけ長く感じられた。
足音が一定の間隔で続き、それに合わせるみたいに思考も整っていく。
ホームに着くと、電車はちょうど出たところだった。
ドアが閉まる音だけが、遠くで短く響く。
次は、数分後。
待てない時間じゃないし、慌てて行動を変えるほどの切迫感もない。
急げば別の路線に回ることもできる。
階段を下りて、遠回りして、少しでも早く動く選択肢もある。
でも、そうまでして今すぐ何かを変える理由が、
自分の中に用意できなかった。
ベンチに座るほどでもなく、
柱にもたれて立ったまま、表示板をぼんやり眺める。
行き先。
到着までの時間。
並んだ数字だけを追い、その下の細かい文字には視線を落とさない。
ここで深く考え始めると、
足りないものの数だけ、不安が静かに増えていく気がした。
学費。
家賃。
次のバイト。
どれも重要で、無視できない話だが、
今このホームで結論を出す必要はないとも、はっきり分かっている。
今じゃない。
そう心の中で線を引くだけで、
問題そのものが消えるわけじゃない。
それでも距離だけは少し離れてくれて、
息が詰まる感じは、ほんのわずかに薄れる。
電車が来るまでの数分間、
俺は何かを決めようとせず、ただ時間が進むのを待っていた。
考える。
どう立て直すかじゃないし、正しく振る舞う話でもない。
今日という一日を、これ以上余計に壊さずに済ませるにはどうするか。
ここで何かを決めなかったからといって、
状況が良くなるわけじゃないことは、分かっている。
先延ばしにした分だけ、後でまとめて重くなるのも、たぶん正しい。
それでも今は、この場で無理に結論を出すことの方が、
余計に何かを壊しそうな気がしていた。
決めないという選択は、
何もしないのとは少し違う。
今の自分に出来る範囲を、勝手に広げないための線引きだった。
ここで踏み出したら、戻れなくなる場所がある気がする。
逆に、ここで立ち止まっていれば、まだ選ばなくて済む未来も残る。
どちらが正しいかは分からない。
でも、今の自分が耐えられるのは、後者の方だとは、はっきりしていた。
だから、今じゃない。
それは逃げでもあるが、同時に、これ以上壊れないための判断でもあった。
ドアが開き、人の流れに混ざって車内へ入る。
俺は、空いた席に座るほどの余裕もなく、つり革を掴んで立ったまま揺られた。
車内は静かで、誰も俺のことを気にしていない。
評価も説明も、この電車の中には持ち込めない。
それが、少しだけありがたかった。
窓に映る自分の顔は、思っていたより疲れて見えたが、崩れているほどでもない。
まだ、立っている。
数え始めたら、きりがないことだけは分かっている。
それは否定しようのない事実として、ずっと胸の奥に残っている。
それでも今この瞬間に出来ることは限られていて、
全部を同時に立て直そうとするほどの力は、まだ残っていない。
電車が動き出し、街の景色が窓の外をゆっくりと後ろへ流れていく。
つり革を掴もうとして、少しだけ手が届かない。
背伸びをするほどでもなく、かといって諦めるほどでもない高さだった。
一瞬だけ迷ってから、何事もなかった顔で腕を下ろす。
隣の人の肘が、やけに近い。
今日は、こういう日らしい。
そう納得して、立ち位置を数センチだけずらした。
誰も気にしていないことは、分かっている。
だからこそ、動きが小さくなる。
そのまま、何も決めないまま、時間だけが進んだ。
何も決めていないはずなのに、選べる幅だけが、さっきより少し狭くなった気がしていた。
退いた。
その判断が正しかったかどうかは、
今の時点では、まだ分からない。
ただ、これ以上説明や傷を増やさなかったという感覚だけが、
確かに、手応えとして残っていた。
それを確かめるように、俺は、つり革を少しだけ強く握り直した。
最寄り駅を出ると、帰り道にあるスーパーへ自然と足が向いた。
寄らない理由もなければ、わざわざ避ける理由もなく、今の自分にとっては一番無理のない動線だった。
店内は夕方にはまだ少し早い時間帯で、客の数も多くはない。
通路には余白が残り、急かされる感じもなく、考えながら歩くにはちょうどいい静けさがあった。
かごを取るほど買うつもりはなく、手ぶらのまま惣菜売り場へ向かう。
必要なものを増やすより、必要最低限を外さないことの方が、今日は大事な気がしていた。
値引きシールは、まだほとんど貼られていない。
少し早い時間だと分かっていながら、それでもこの売り場に来てしまうのは、癖みたいなものだ。
棚の前で立ち止まり、並んだおにぎりを一つずつ目で追っていく。
昆布。
おかか。
鮭。
いつもと変わらない顔ぶれだからこそ、余計な期待も生まれない。
今日は、鮭は選ばない。
理由は単純で、値段が少しだけ高いからだが、それだけで済ませていい判断だとも思っている。
高いといっても、手が出ないほどじゃない。
ただ、ここで余裕を使うほど、状況が好転しているわけでもなく、使った分を取り戻せる見込みも立っていない。
足りない。
だから削る、というほど切羽詰まってはいないが、今このタイミングで余裕を前借りする理由も見つからなかった。
結局、手に取ったのは、いつも通りの昆布のおにぎりだった。
特別感はないし、気分が上がるわけでもないが、選んで後悔する可能性が低いという一点だけで、今の自分には十分だった。
レジへ向かう途中で、菓子パンの棚に視線が流れかけ、そのまま足が止まりそうになる。
甘いものは嫌いじゃないし、疲れているときほど理由もなく手が伸びることも、よく分かっている。
一つくらい、あってもいい。
そう思った瞬間、自分の中で何かが緩みかける感覚があって、無意識に立ち止まりそうになる。
でも、今日は違う。それを選んだ先に、何かが良くなるイメージが、どうしても浮かばなかった。
今じゃない。そう判断する理由を、今日は自分の中で用意できなかったし、無理に用意する必要もないと思えた。
会計を済ませ、薄い袋を受け取る。
中身の軽さが、そのまま今の生活の重量みたいに感じられて、少しだけ苦笑いが浮かぶ。
それでも、何も持たずに帰るよりは、ずっといい。
ちゃんと食べる選択をしている限り、今日はまだ終わっていないと言える。
考える。どう立て直すかじゃないし、どう増やすかでもない。
今日という一日を、これ以上余計に壊さず、ちゃんと終わらせるために何が必要か、という話だ。
店を出ると、外の空気はまだ冷たかった。
それでも、さっき駅で感じた冷え方とは違い、どこか現実に戻ってきた感覚があった。
ポケットに手を突っ込んで、何も入っていないことに気づく。
右も左も同じで、指先だけが空気に触れた。
一度引っ込めてから、もう一度入れ直す。
結果は変わらない。
「そりゃ、何もないか」
小さく呟いて、肩をすくめる。
寒さより先に、間の抜けた感じだけが残った。
退いた結果として、手の中に残ったのは、温もりもない小さな選択だけだ。
でも、それでいいと、今ははっきり思える。
ちゃんと食べて、今日はここまでにする。
そう決めて、俺は袋を握り直し、家へ向かって歩き出した。
部屋に戻る前、玄関で靴を脱ぐより先に、スマホを取り出して画面を点ける。
特別な目的があったわけじゃない。
癖みたいなものだ。
通知は、ほとんど来ていない。
静かな画面を指で流していると、見覚えのある見出しが目に入った。
また、その話題かと思いながら画面に置いた指が止まり、そのまま数秒、
スクロールするでも戻るでもなく動かなくなる。
記事を開くつもりは最初からなかったし、
今の自分にそれを読む理由があるとも思えなかった。
それでも、冒頭の数行だけが、わざわざ読むつもりもないのに自然と視界に滑り込んでくる。
「初心者向け」
その言葉だけが、他の見出しや数字よりも少しだけ浮き上がって見え、目を離しづらくさせる。
初心者。
向いているかどうかなんて、正直なところ今の自分には判断のしようがない。
足りないものが多いことだけは、他の誰よりも自分自身がよく分かっていて、否定しようもない事実として胸に残る。
それでも、危険度が低い、という評価だけは確かにそこに書かれていて、消しようもなく存在している。
今じゃない。
そう判断する理由はいくつも浮かぶし、体力も準備も覚悟も、どれを取ってもまだ足りていないと冷静に数えられてしまう。
どう飛び込むかじゃないし、もし関わるとしたら、どこまで退いて、どこで引き返せるかという話だ。
画面を閉じて、スマホをポケットに戻すと、さっきまで張りついていた言葉だけが頭の中に残る。
今はまだ、生活を立て直す話の方が先で、優先順位は揺らいでいないはずだった。
それでも、あの言葉だけは、片づけたはずの思考の隅に引っかかったまま離れない。
初心者向け。
それが、自分に向けられた評価なのかどうかは分からないし、確かめるつもりもない。
ただ、無視できるほど遠い話でもなくなりつつある、という感覚だけが残る。
そう感じたところで、俺はようやくドアを閉め、外の空気と一緒にその話題を部屋の外へ置いて戻った。




