第17話 一人で潜る意味
部屋の明かりを点けると、音が消えた。
外の気配が、扉の向こうに置き去りになる。
冷えた空気だけが残り、ここまで戻ってきて、ようやく一人だと思えた。
上着を脱いで椅子の背に掛け、床に座り込む。
先のことを考える必要はない。
そう思ってから、カバンを開いた。
一つずつ確認して、元に戻す。
増やすつもりはないし、減らす理由も特にない。
指先で布の縫い目をなぞると、擦れている箇所が少しだけ硬くなっているのが分かる。
気になるほどではないし、使えなくなるほどでもない。
今は、それで足りている。
スマホを取り出して画面を点け、地図アプリを開く。
拡大はせず、入口までの経路を軽くなぞるだけに留める。
ダンジョンの情報ページも確認するが、指を止めることはなかった。
新しい情報は特になく、変わったのは入口の混雑状況くらいだ。
それも、もう知っている。
画面を伏せてスマホを置く。
調べれば、もっと細かい数字はいくらでも出てくる。
危険度の推移。
時間帯ごとの回転率。
人の増減。
だが、今日はそこまで要らない。
必要なのは、行くかどうかではなく、行ったあとにどう戻るかだ。
その点だけを、頭の片隅で確認する。
床に置いた靴を見ると、靴紐の結び目には少し癖がついている。
ほどけにくい結び方だが、直すほどでもない。
ほどけたら、そのとき考えればいい。
立ち上がって軽く肩を回し、身体の重さを確かめる。
動けるし、無理をしている感覚もない。
カバンを閉じて取っ手を持ち上げる。
そのとき伝わる感触は、想定の範囲内だった。
増えてもいないし、減ってもいない。
準備は、それだけで終わった。
次に向かう場所を、頭の中でなぞる。
入口までの道、人の流れ、並ぶ時間。
どれも、特別なものじゃない。
一人で行く、という点を除けば。
それも、さっき整理したばかりだ。
改めて考え直す必要はない。
今日は、同じやり方でいい。
同じ速度で、同じ判断を積み重ねる。
それが、今の自分には自然だった。
電気を消す前に、部屋を一度だけ見渡す。
変わったところは、何もない。
だから、行ける。
そう思っただけで、それ以上の理由はいらなかった。
――あとは、扉を開けるだけだ。
入口前は、いつもより少し静かに感じられた。
人が減ったわけではないが、全体の動きが落ち着いている。
列の端に立ち、流れを待つ。
前にも後ろにも人はいるが、会話は控えめで、視線も散っている。
耳に入るのは、足音と衣擦れの音。
装備が触れ合う、乾いた気配だけだ。
視線を上げると、少し離れた場所に、固まって動く一団がいた。
人数は三人で、誰も周囲を気にしている様子がない。
動きは無駄に速くもなく、かといって遅くもない。
立ち位置が最初から決まっているようで、自然に間が取られている。
誰かが指示を出すわけでも、確認の声が飛ぶわけでもない。
短い視線のやり取りだけで、次の動きが揃っていく。
受付が進み、番号が呼ばれる。
三人は順番を入れ替えることなく、そのまま前へ出た。
申請のやり取りは短く、説明も言い訳もない。
係員が何かを確認し、三人は揃って頷く。
それだけだった。
入口へ向かう足取りも一定で、速さを競っている様子はない。
周囲の流れに合わせ、必要な分だけ進んでいる。
近くにいた探索者が、小声で言った。
「……あの人たち、だいぶ前から潜ってるらしい」
返事はなかった。
言葉を受け取る必要がない、という空気だった。
三人は入口前で一度だけ立ち止まる。
中を覗くような素振りもなく、視線はすでに内側を向いている。
深呼吸をする者も、気合いを入れる様子もない。
ただ、そのまま踏み出した。
その動きにためらいはないが、勢いも感じられない。
「行けるから行く」という軽さでもない。
むしろ、「今日はこの深さまで」と決めているように見えた。
並んでいるのに、同じことをしている感じがしない。
それぞれが自分の役割だけを持っている。
前を行く三人の歩き方は、揃っているようで、揃いすぎていない。
歩幅も、腕の振りも、完全には同じじゃない。
それでも、速度だけが自然に噛み合っている。
誰かが合わせているようには見えない。
近すぎず、離れすぎず。
声を出さなくても届く距離を、無意識に保っている。
足運びに迷いがない。
重心の移動が滑らかで、止まる必要がなさそうだ。
俺は、その背中を目で追いながら、
同じように歩いているはずなのに、はっきりと違う、と感じていた。
同じ場所に立つことは出来る。
でも、同じ感覚では進めない。
出来ない、というより、
無理に合わせる理由がない。
あの人たちは、並ぶために並んでいるわけじゃない。
それぞれが自分の身体を把握していて、
その結果として、距離が揃っているだけだ。
入口の向こうに、三人の姿が消える。
足音も、ほどなくして聞こえなくなった。
騒がしさはなく、目立つこともない。
ただ、積み重ねてきた時間の分だけ、身体の使い方が違うのだと分かる。
強さを誇る様子もなく、誰かを引っ張ろうとする気配もない。
それでも、無理なく動けるだけのものを、すでに身体の中に持っているように見えた。
列が少し進み、俺は前を向き直る。
さっきの光景を、言葉にする必要はなかった。
比べる段階じゃない。
ただ、あそこまで続けてきた人たちがいる。
その事実だけが、静かに残った。
――次は、自分の番だ。
列は、ゆっくりと前へ進んでいる。
周囲の足音も、同じような速度で、一定の流れを作っていた。
自分の番が近づいているのは分かる。
それでも、急ぐ理由はどこにもなかった。
前を見る。
入口の向こう側は、相変わらず淡く輪郭を浮かべたままだ。
近い。
けれど、手を伸ばせば届くほど近すぎるわけでもない。
踏み出せば入れる距離にある。
ただ、それ以上でも、それ以下でもない。
一人で行く、という選択を、大げさに考える気はなかった。
それは、何かを決めたというより、今の状態をそのまま受け取った結果に近い。
誰かと距離を取るつもりもなく、ただ元の感覚に戻っただけだ。
今の速度で進むなら、
一人のほうが、測りやすい。
それだけのことだった。
止まるタイミング。
引く距離。
戻る判断。
誰かと合わせる必要がない分、それらすべてを、自分の感覚だけで決められる。
無理をしない、という言葉は使わない。
まだ、そこまできれいに整理出来ていない。
ただ、並べない相手と、同じやり方で潜るのは危険だ。
その事実だけは、さっき確かめた。
だから、今日は一人でいい。
そう言い切れるほどの確信はない。
けれど、否定する理由も見当たらなかった。
入口の前で、係員が声を上げる。
次の番号が呼ばれ、列が一段だけ動く。
一歩、前に出る。
足の裏に伝わる床の感触は、いつもと変わらない。
高揚も怖さも、特に浮かばなかった。
ただ、向き直る。
今日は、ここまで潜る。
そう決め切るほどの準備も、気持ちの整理も出来ていない。
それでも、戻る場所だけは、ちゃんと頭の中に残っている。
それで、十分だった。
一人を選んだ理由は、誇れるものじゃない。
誰かに説明するための言葉も、用意していない。
続けるために、壊れない位置へ戻るだけだ。
入口の向こうへ視線を向ける。
淡い明るさは、最初から何も変わっていない。
踏み出す前に、小さく息を吐く。
次に進むかどうかは、中に入ってから決めればいい。
今はただ、一人で向かう。
それだけで、今は足りていると思えた。
――そして、足を前に出した。




