第16話 そこまでで、よかった
部屋の鍵を回して、扉を閉める。
何も変わっていないことを、先に確認していた。
靴を脱ぎ、揃える。
床に置いたリュックの中身を、そのままにしておくのも、いつも通りだ。
外套を脱いで、壁際に掛ける。
肩のあたりに残っていた重さが、少し遅れて抜けた。
部屋は静かだった。
誰かがいなくなった、という感じではない。
もともと、こういう空間だ。
押し入れの前に座り込み、身体についたものを一つずつ外す。
布の擦れる音と、留め具の感触が、耳に残る。
動作の順番だけは、自然に決まっていた。
最後に、素材袋を床に置いた。
中身を確認する気にはならず、口を結び直す。
今日は、これでいい。
シャワーは浴びず、顔だけ洗った。
冷たい水が、思ったより指に残る。
鏡に映る顔を、少しだけ見て、視線を外す。
変わったところは、特にない。
布団に倒れ込むと、畳の冷たさが背中に伝わった。
目を閉じる。
考えないようにしよう、とは思わなかった。
ただ、考える必要がない気がした。
──それだけだった、はずだ。
朝、目が覚めたとき、部屋はまだ薄暗かった。
隣の部屋の生活音も、聞こえない。
起き上がって、窓を少し開ける。
冷えた空気が入り込んできて、目が覚める。
スマホを手に取るが、通知はない。
確認するまでもなく、分かっていた。
誰とも、連絡を取っていない。
それが特別だとも、思わなかった。
昨日の装備を、もう一度整える。
乾かしきれなかった布の匂いが、少しだけ残っている。
素材袋を持ち上げると、はっきりと重みが伝わってきた。
確かに、ここにある。
一人になった、とは思わなかった。
最初から、一人だった。
そういう感覚のまま、朝の支度を続ける。
まだ、何かを決める時間じゃない。
ただ、今日を始めるだけで、十分だと思った。
買取所のカウンターは、やはり低かった。
前に立つ探索者の背中が、視界の半分を塞いでいる。
床に置かれた素材袋を、足元で少し寄せる。
袋の口は、もう一度だけ確認した。
前の探索者が、まとめて袋を出す。
中身を広げる音が、乾いた空気に混じる。
「今回は数が揃ってますね。
この系統がこれだけ出るのは、珍しい」
「運が良かっただけです。
正面は、だいぶ削られましたけど」
担当者は、淡々と頷いた。
端末を操作しながら、数値を読み上げる。
「合計で、この金額になります。
内訳は、こちらで確認できますが……」
「いえ、大丈夫です」
探索者はそれだけ言って、金を受け取った。
表情は動かない。
順番が回ってくる。
「お願いします」
袋を差し出すと、担当者は一瞬だけ中を見る。
すぐに、分かったように息を吐いた。
担当者は画面を見たまま、言った。
「……分配分? ですね。
全体の、四割前後といったところでしょうか」
「はい。
その取り分になります」
「了解しました。
取引としては、この量が基準になります」
それは、責める言い方ではなかった。
事実を、そのまま置いているだけだ。
「今回は、この範囲になります」
端末に表示された金額を見る。
少ない。
けれど、想定より下でもない。
「分かりました。
それでお願いします」
現金を受け取り、財布に入れる。
厚みは、ほとんど変わらない。
担当者は、こちらを見ずに言った。
「同じ個体でも、
回収された状態や、
分割の仕方で、評価は多少前後します」
「……ですよね」
「ええ。
分配された分が、そのまま取引単位になります。
今回は、その範囲での評価です」
そう言って、次の客に視線を移した。
それ以上、話は続かない。
隣のカウンターでは、別の探索者がやり取りをしている。
袋の数も、量も違う。
「今日は、かなり入ったみたいですね」
「ええ。
久しぶりに、ちゃんと数字になりました」
声は落ち着いている。
喜びを誇示する感じではない。
比べる必要はない。
そう思いながら、目は一度だけ向いた。
すぐに、視線を戻す。
これは、俺が選んだ分だ。
外に出ると、空気が少し冷たかった。
ポケットの中で、財布を押さえる。
受付で告げられた数字を、もう一度だけ思い返す。
数日前なら、考えもしなかったやり取りだ。
数字は小さい。
だが、判断は形になった。
今日は、それで足りていた。
電車は、思っていたよりも混んでいた。
夕方に近い時間帯で、座席はほとんど埋まり、立っている人の肩が触れる距離だ。
俺も立ったまま吊り革を握る。
人の気配は多い。
会話の断片や、スマホを握り直すときの小さな音、誰かの笑い声が、断続的に耳に入ってくる。
それらはすべて、この場にあるだけの音だった。
こちらに向けられたものではないし、関わる必要もない。
一人でいる、という感覚はなかった。
ただ、他人と並んでいないだけだ。
窓に映る自分の顔を、ぼんやりと眺める。
疲れているのは分かるが、嫌な疲れ方ではなく、頭の中は静かだった。
今日のことを順番に思い返そうとはしなかった。
浮かんでくるのは、切り取られた場面だけだ。
楓の背中。
一定の速度で、迷いなく進んでいく動き。
俺の足音。
半拍遅れる判断と、呼吸を整えるために必要だった時間。
並べなかった、という事実だけが残っている。
理由を探すほどでもなく、否定する気にもならなかった。
強さの差、という言葉で片づけるのは簡単だ。
だが、それだと、少し違う。
同じ場所に立っていた。
同じ危険を理解し、退く判断も出来ていた。
ただ、続けられる時間が違った。
止まらずに進める距離が違った。
それだけのことだ。
一人で潜る、という選択は、勇気の話じゃない。
誰かに置いていかれないためでも、誰かを避けるためでもない。
速度を合わせない、というだけだ。
合わせられない、ではなく、合わせない。
その違いは小さいが、意味は違う。
並べないから一人になる、という順番じゃない。
自分の速度があって、それを守ると、結果として一人になる。
電車が揺れ、吊り革を握り直す。
周囲を見渡すと、誰もがそれぞれの速度で動いている。
急いでいる人。
疲れて座り込んでいる人。
スマホから目を離さない人。
同じ車両にいても、並んでいるわけじゃない。
それと、少し似ている気がした。
孤独、という言葉は少し大げさだ。
だが、否定するほどのものでもない。
一人でいる時間は、確かにある。
ただ、それが失敗だとは思わない。
誰かと一緒にいることが、常に最適なわけじゃない。
今日の俺は、誰かの速度に合わせる余裕がなかった。
それだけだ。
足元に伝わる感触を、無意識に確かめる。
重みは、さっきと変わらない。
選んだ立場。
選んだ距離。
それが、現実として残っている。
電車が次の駅に差し掛かり、降りる人たちがドアの前に移動した。
俺はその後に続く。
一人でいることに、特別な意味づけをする必要はない。
今は、これでいい。
そう思える程度には、気持ちは整っていた。
――あとのことは、降りてからだ。




