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退く理由ある探索者  作者: ソイラテ
13/13

第13話 半額弁当の前で、手が重なった

夜の空気は、まだ少し冷たい。

息を吐くと、白くなるほどではないが、喉の奥に残る。



歩きながら、肩の力が抜けていくのを感じていた。

疲れてはいる。

でも、今日はそれを気にするほどでもない。



ダンジョンから戻ったあとの、この感覚。

体の奥に残った緊張が、時間差でほどけていく。

今日は、生きて帰ってきた。

それだけで、十分だと思える。



上着の内側に、封筒の感触がある。

折り曲げないように入れたはずなのに、歩くたびに存在を主張してくる。

触らなかった。

今は、いい。



代わりに、目の前の街を見る。

明るい看板。

行き交う人の足音。

日常は、何事もなかったみたいに続いている。



スーパーの前で、足を止めた。

自動ドアが開く音が、やけに大きく聞こえる。



「いらっしゃいませーっ」



店員の声が、少し弾んで響いた。

同時に、店内のBGMが耳に入ってくる。

明るくて、軽いリズム。



一瞬だけ、足取りが遅くなった。



俺の中に残っている静けさとは、まだ少しだけ、噛み合っていない。

その感覚を、いったん脇に置く。


今日は、ちゃんと弁当を買おう。

そう思った。



贅沢をする気はない。

でも、無理に削る理由もなかった。

それだけの、ほんの少しの余裕が、今日はある。



カゴは取らない。

手に持つだけでいい。



店内の明るさに、目が慣れていく。

惣菜コーナーの方向を、自然と確認していた。


半額の時間には、まだ少し早い。

分かってはいる。

それでも、足はそちらに向かう。



急ぐ必要はない。

今日は、待てる。


そんなことを考えながら、

俺は惣菜売り場の前で、足を止めていた。



惣菜コーナーは、思ったより人が多かった。

時間帯のせいだろう。

仕事帰りらしいスーツ姿と、学生っぽい服装が混じっている。



照明が明るい。

少しだけ、明るすぎる。



パックに詰められた弁当が、きれいに並んでいる。

揚げ物。

焼き魚。

茶色が多い。



値札を見る。

まだ、定価のままだ。



足を止めている人は、俺だけじゃない。

なんとなく距離を保って、同じ棚を見ている。

誰も、声は出さない。



天井のスピーカーから、店内アナウンスが流れた。



「まもなく、お惣菜コーナーの……」



最後までは聞かなかった。

聞かなくても、分かる。


ここから、少しだけ空気が変わる。

待つ人と、通り過ぎる人がはっきり分かれる。



俺は、待つほうだった。



急ぐ理由はない。

今は、ここを離れるつもりもない。


弁当の前で、立ったまま、時間が過ぎるのを待つ。

それだけのことなのに、この場所には、独特の静けさがあった。



音はある。

人も多い。


それでも、どこか張りつめている。

俺は、棚の端に少し寄って、次のアナウンスを待った。





惣菜コーナーの前で、人は思ったより、動いていた。


立ち止まっているのは、俺だけじゃない。

ただ、全員が同じ待ち方をしているわけでもない。


棚の前を、ゆっくり周回している人がいる。

止まらず、離れず、同じ列を何度も行き来しながら、

時間が過ぎるのを、歩きながら待っているようだった。


その姿を、何度か視界の端で捉えた。



少し離れた場所では、すでに弁当を手に取っている人もいる。

パックを胸の前で抱えたまま、棚ではなく、店員の動きを見ていた。



どの弁当かは、もう決まっている。

あとは、タイミングだけ。



周回する人。

先に確保する人。



どちらが正しいかは、分からない。

ただ、そういう待ち方もある。


俺は、どれでもなかった。



弁当には、まだ触れない。

棚の端に、半歩分だけ距離を取る。

通路の邪魔にならない位置。



急ぐ必要はない。

今日は、ここで待てばいい。


もし、目当てのものが取れなかったら、別の弁当を選べばいい。

それで困るほど、追い詰められてはいない。


そう思えること自体が、少し前までの自分とは、違っていた。



天井のスピーカーから、

次のアナウンスが流れそうな、そんな気配があった。

まだ鳴っていないのに、耳が先に、そちらを待っている。


俺は、無意識に背筋を伸ばして、もう一度、棚の前に視線を戻した。


天井のスピーカーから、ほんの少し音が割れて、待っていた合図のようなアナウンスが流れ始めた。



「――お惣菜コーナーの……」



最後まで聞く必要はなかった。

言葉が途切れる前に、棚の前の空気が、わずかに変わる。



店員がカートを押して現れ、慣れた動きで棚の前に立つ。

片手には、赤い半額シールがまとめて握られていた。



待っていた人たちが、一斉に動くわけではない。

ただ、それぞれが、ほんの一歩だけ前に出る。



俺も、その中の一人だった。



貼られていくシールを、意識せずには追ってしまう。

一つ、また一つと、弁当の角に赤が増えていく。



どれが先かは、正直どうでもいい。

ただ、残るかどうかだけを、自然と計算している。



シールを貼り始めた店員が、一つ、また一つと作業を進めていく。

その背中を見計らって、その人は、声をかけた。



「これも、お願いします……」



声は小さい。

店内の音に、簡単に紛れてしまいそうな音量。

それでも、確かに届いている。


店員は、軽くうなずいて、受け取った弁当に手を伸ばす。

動作に、迷いはない。



周りの誰も、特別な反応は示さなかった。

視線が集まることもない。

ここでは、それも、よくある光景なのだと思う。



棚の端のほうに、同じ種類の弁当がいくつか見えた。

数は多くない。

一つだけ残るかもしれないし、全部なくなるかもしれない。



迷っている余裕は、ほとんどなかった。

一度だけ、視線を走らせてから、俺は手を伸ばす。

それとほとんど同時に、すぐ隣からも別の手が伸びてきた。



指先が、触れた。



ほんの一瞬だった。

触れたというより、確認する間もなく、重なった感触。



「あ……」



声が出たのは、ほぼ同時だったと思う。



「すみません」



俺のほうが先だった、ような気はする。

でも、それを確かめる理由は、どこにもなかった。


反射的に、手を引く。



「いえ……」


相手の声は、落ち着いていて、俺よりほんの少しだけ低く聞こえた。


弁当は、まだ棚の上に残っている。

どちらのものでもない状態のまま、置かれている。



一拍だけ、間があった。



その隙間に、店内の音が戻ってくる。

BGMの軽いリズム。

カートの車輪が床を擦る音。

遠くで鳴るレジの電子音。



俺は、視線を落とした。



「どうぞ」



そう言って、体を半歩ぶんだけ後ろに引く。


譲った、というほどのことではない。

ただ、最初から踏み込んでいなかった位置に、戻っただけだ。



相手は、少しだけ戸惑ったように見えた。

それでも何も言わず、弁当に手を伸ばす。


その動きを、横目で確認してから、俺は、別の棚に視線を移した。



同じ弁当は、もう残っていない。

代わりに、少し違う種類のものが並んでいる。



それで、いい。

今日は、ちゃんと食べられればいい。


そう思いながら、俺は、別の弁当を手に取った。





俺が別の弁当を手に取ると、

さっき隣にいた相手が、もう一度こちらを見た。


「……それで、いいんですか」


声は低めで、落ち着いている。

距離を詰める気も、責める気もなさそうな声だった。



「え?」


間の抜けた返事になった。



「その、さっきの弁当ですけど……本当に譲ってしまってよかったんですか」


少し言葉を選ぶような、慎重な言い方だった。



「ああ……はい。

 今日はこれで十分ですし、そこまでこだわってはいないので」

 


自分でも、少しだけ説明しすぎたと思った。



「でも……」



言いかけて、相手は言葉を止めた。

視線が、一瞬だけ棚に戻る。



「……一個しかなかったですよね。

 正直、もう一回手を伸ばす人のほうが多いと思います」



「そうですね」



事実として答える。



「本当は、欲しかったんじゃないですか」



少しだけ、探るような言い方だった。



「欲しくなかったわけじゃないです。

 ただ、競ってまで取るほどじゃないかなって思っただけで」

 


相手は、俺の顔を一瞬だけ見てから、視線を落とした。



「……そういう考え方の人、あまり見かけない気がします」



「たぶん、効率は悪いと思います」



少し考えてから、続けた。



「でも、勝ったあとに気まずくなるよりは、

 最初から下がったほうが楽なんですよね」

 


相手が、わずかに目を細める。



「……変わってますね。

 でも、さっきの場面では、ちょっと助かりました」

 


「いえ」



「ありがとうございます。

 こういう場所で、ちゃんと譲られると、少し戸惑いますけど」

 


「慣れてないだけだと思います」



それ以上、言葉は続かなかった。


相手は、弁当を持ち直す。



「じゃあ……先に行きますね」



「どうぞ」



短いやり取りで、会話は終わった。


相手はレジの方向へ歩き出す。

俺も、同じ方向に体を向ける。



並ぶほど近くはない。

離れるほど遠くもない。



ただ、同じ通路を、同じ速度で進んでいるだけだった。

惣菜コーナーの前は、もう次の人たちで埋まり始めている。


俺は、振り返らずに、その場を離れた。





レジに並ぶと、前の人との距離は、買い物かご一つ分くらいで、自然に保たれていた。


一定の間隔で鳴る電子音が、店内の空気を区切るように、淡々と響いている。



バーコードが読み取られる音。

袋が擦れる音。

店員の、抑揚のない声。



それらが重なって、ここが完全に日常の場所だと、改めて分かる。


弁当が袋に入れられ、持ち手が軽く結ばれた。



受け取った瞬間、中身の重さを、無意識に手のひらで確かめる。


ちゃんと、一食分ある。

それだけで、気持ちが少しだけ落ち着いた。



自動ドアを抜けると、夜の空気が、思ったより冷たく感じられた。


歩き出してから、少し遅れて、さっきの出来事が頭に浮かぶ。



手が、触れた感触。

指先に残っている、ほんのわずかな圧。



胸の奥に、どこか懐かしい感覚が、静かに残っている。


なぜそう感じたのかは、分からない。

理由を探そうとも、思わなかった。



袋の持ち手が、歩くたびに指に食い込む。


その確かな感触に引き戻されて、俺は、前を向く。



今日は、ちゃんと弁当を買った。

それだけのことだ。


街灯の下を一つ、また一つと通り過ぎながら、歩く速度を少しだけ一定に保つ。



特別な出来事は、何も起きていない。

それでも、世界がほんの少しだけ、近くにあるような気がした。




部屋に戻ると、外よりも、少しだけ空気が重く感じられた。

上着を脱いで、弁当の袋を机の上に置く。


電子レンジの扉を開け、中に弁当を入れる。

ボタンを押すと、低い音と一緒に、時間が動き出す。



待っているあいだ、特に何かを考えることはなかった。

今日の出来事を、意味づける必要もない。


温まった弁当を取り出して、机に置く。

割り箸の袋を破り、箸を一本ずつ揃える。



いつもと同じ動作。

いつもと同じ順番。


それで、十分だ。



蓋を開けると、湯気が、少しだけ立ち上る。

匂いを確かめてから、一口目を運ぶ。


ちゃんと、温かい。

ちゃんと、食べられる。


それだけで、今日が終わる理由になる。



特別な変化はない。

何かが始まったわけでもない。


それでも、今日も生きている。

明日も、たぶん、同じように過ごす。



半額弁当を選んで、考えすぎないようにして、ちゃんと食べる。


それでいい。



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