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退く理由ある探索者  作者: ソイラテ
11/13

第11話 逃げたあと、少しだけ当たる

気づけば、また一人になっていた。


ほんの少し前まで、誰かの気配があったはずの場所に、今は何もない。



足を止めて振り返っても、視界に映るのは、淡く輪郭だけが分かる通路だけだ。

足音は、俺のものだけ。

呼吸の音も、装備が擦れる微かな音も、全部自分から出ている。



静かすぎて、逆に落ち着かない。

だが、音が聞き取れるだけの余裕はある。



視界は、いつも通りだった。

光源らしいものは相変わらず見当たらないのに、通路の形だけは把握できる。

壁の凹凸や床の段差、曲がり角までの距離も、だいたい分かる。



明るいわけじゃない。

ただ、暗闇というほどでもない。



「見える」という事実だけが、最初からこの空間に用意されている感じがする。



考え始めると、不安になる。

だから、この感覚については、あまり考えないようにしている。


見えているうちは、動ける。

動けるうちは、生きている。



それでいい。



歩きながら無意識に、背後を確認する。

一度間を置いて、もう一度。


さっきまでより、明らかに回数が多い。


一人に戻った瞬間、背後を見る役割が完全に自分に戻ってきた。



前を見る。足元を見る。背後を確認する。


判断の数が増える。

止まる理由も進む理由も、自分で選ばなければならない。


それが普通だったはずなのに。



……妙だ。



胸の奥にほんの少しだけ、余裕みたいなものが残っている。


さっきまでの感覚と、完全には重ならない。

一人なのに、一人きりという感じがしない。



誰かと役割を分けていた感覚が、まだ体のどこかに残っている。

背中を完全に預けたわけじゃない。

助け合ったわけでも、支え合ったわけでもない。



ただ、「自分だけじゃない時間」を、確かに経験した。

それが、想像以上に厄介だった。


元の感覚に戻った、というより、戻りきれていない。



通路の先を見る。

視界の端で、壁の凹みや影の境目を拾う。


足元に転びそうなものがないかも見る。


そして、何もいないはずの背後を、もう一度だけ確認する。



動き自体は前と同じだ。

慎重で、遅くて、逃げ腰。


変わっていない。



なのに、判断のテンポだけが微妙に違う。

迷っている時間が、ほんの少しだけ短い。


考える前に、体が動く瞬間がある。

それが自分でも、少し気持ち悪い。



……慣れ、か。

そんな考えが、頭をよぎる。


たまたまだ。

一時的なものだ。



誰かと一緒にいたから、そう錯覚しているだけ。


そう結論づけて、深く考えるのをやめる。

ここはダンジョンだ。


慣れなんて、信用していいものじゃない。



一人で潜る場所だ。

一人で、生き残る場所だ。



考えるのは、生き残ることだけでいい。

それ以外は、今は、要らない。


そう自分に言い聞かせて、もう一度だけ背後を確認してから歩き出した。





通路を一つ抜けたところで、足が、ほとんど反射みたいに止まった。


音がしたわけじゃない。

はっきりした気配を感じ取った、と言えるほどでもない。


ただ、「この先は、そのまま行けない」

――そんな判断だけが、先に浮かんだ。



通路は細い。

左右の壁が近く、体を振る余裕がほとんどない。


正面はわずかに下り坂になっていて、視界の先が淡く沈んで見える。



引き返すことはできる。

できるが、その瞬間に背中を向けることになる。



距離が近すぎる。

背後を取られたら、反応が間に合わない。


正面突破は、論外だった。


この幅、この距離。

逃げる前提の立ち回りをするには、条件が悪すぎる。



選択肢は、どれも微妙だった。


止まる。

下がる。

進む。


どれを選んでも、「安全」と言い切れるものはない。



息を、静かに整える。

足の位置を、ほんの数センチだけ動かす。


この場でできる準備は、せいぜいそれくらいしかなかった。



……無理だと思う。



いつもの口ぐせが、ほとんど条件反射みたいに、頭の中に浮かぶ。


でも、今はまだ、引き返す判断じゃない。

そう結論づけて、視線を正面に戻した。



淡い視界の奥で、何かが、確かに動いた。


大きくはない。

だが、明らかに「生き物」の動きだ。


床を擦る、乾いた音。

硬いもの同士が、軽く触れ合うような感触。



鱗。


事前に見た動画や簡単な解説で出てきた、よく遭遇するモンスターの特徴とは、少し違う。



小型。

ただし、重なりが厚い。



それだけで、十分に厄介な相手になる。


距離は、近い。

近すぎて、完全回避は難しい。



だが、今すぐ襲いかかってくる様子でもない。


互いに、まだ様子を見ている。



そう判断できる、ぎりぎりの距離だ。


倒すつもりは、最初からない。



目的は一つだけ。

ここを、抜けること。


距離を作って、逃げ切ること。



一歩、踏み出す。


それに合わせるように、相手も、わずかに位置を変えた。



この位置、この距離。

完全に避けられない。


でも、詰んではいない。

そう判断して、体を低く構える。


ここから先は、逃げ続ける時間になる。





最初の動きは、攻撃じゃなかった。

踏み込むでもなく、構えるでもなく、ただ横に一歩ずれて、壁との距離をほんの少しだけ広げる。


それだけで、この場の危険度が、わずかに下がるのが分かる。



相手が動く。

ほとんど同時に、俺も動く。


速さは、向こうのほうが上だ。

ただし、一直線に来るタイプじゃない。



距離を詰めてくる、その瞬間だけを見て、半歩だけ下がる。

大きく逃げるほどでもなく、完全に避けたと言うほどでもない。


近づかせて、近づきすぎる前に、位置をずらす。


それを、淡々と繰り返す。



通路は狭く、左右の壁が、常に判断の余白を削ってくる。

ほんの少し遅れれば、体をぶつけるし、姿勢も崩れる。


だから、考えすぎない。

今、この瞬間にどちらが安全か、それだけを見る。



一度、距離を詰められる。

思ったより近く、息が一瞬だけ詰まった。



でも、ここでは踏み込まない。


体を低くして、壁沿いに半歩。

逃げるためだけの、最小限の動き。



擦れるような音がした。

向こうの外装が壁に触れた、乾いた音だ。


その一瞬の隙を使って、もう一歩だけ距離を取る。



うまくいっている、とは言えない。

ただ、まだ詰んでいない。


それだけで、十分だった。


前に出る理由は、ない。

後ろに下がりすぎる理由も、ない。



今の距離。

今の角度。


それを、維持する。



相手が動き、俺もほぼ同時に動く。

反応というより、もう癖に近い。


避ける。

下がる。

角度を変える。



攻撃は、しない。

当てることより、触れないことを優先する。


距離が、また詰まる。

今度は少し強引で、肩が壁に近づく。



逃げ道が、薄くなる感覚。


一瞬だけ、正面が頭をよぎる。

だが、その考えはすぐに切り捨てる。



無理だ。



そう判断して、体をひねる。

攻撃じゃない、逃げるためだけの動き。


結果として、また距離が開く。

ほんの一瞬、呼吸が元に戻る。



それを繰り返しているうちに、時間の感覚が薄れていく。

何秒経ったかは分からないが、判断だけが途切れずに続いている。


避けて、下がって、角度を変えて。

それでも、まだ生きている。





距離を取った、その直後だった。

逃げ切れたとは思っていないが、今の位置なら次の判断には、まだ間に合う。


そう考えた瞬間、

相手が、思っていたより深く踏み込んできた。



近い。



反射的に体を引く。

考える余裕はなく、避けるための動きだけが先に出る。


正面から腕を振るつもりは、なかった。

叩く意識も、狙う感覚も、最初から存在していない。


ただ、逃げる動作の延長で、

腕が遅れて動いただけだ。



――擦る。



重い音がした。

割れたというより、何かが剥がれ落ちたような、鈍く詰まった音だった。


手応えは、はっきりしない。

効いたと言い切れるほどでもなく、完全に外した感覚とも違う。



でも、

さっきまでとは、明らかに違う。



相手の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。

迷ったような、引っかかったような、説明しにくい間。


床に、何かが落ちる音がした。

軽くはないが、大きくもない、乾いた衝突音。



視界の端で、外装の一部が転がるのが見えた。



重なり合った鱗のような表面が、

欠けたまま、床に落ちている。



深追いはしない。


そう判断した直後、相手が思った以上に大きく距離を取った。


逃げたというより、こちらを警戒して下がったような動きだった。



一瞬だけ、間が空く。


床に落ちていた外装片を、考える前に拾い上げる。


長居はしない。



反射的に、もう一度距離を取る。

さっきまでと同じ、逃げるためだけの動きに戻った。



倒してはいない。


それでも、「当たらなかった」と言い切ることは出来なかった。

理由は、分からない。



近かったから。

角度が、たまたま良かったから。

相手が、ちょうど動いていたから。



そういうことにして、それ以上は考えない。

再現性は、ない。


狙ってできる動きじゃないし、もう一度やれと言われても、できる気がしない。



それでいい。

今必要なのは、勝つことじゃない。


逃げ切ることだ。



距離を崩さないまま、相手の出方を探る。


逃げたから、生きている。

少しだけ、当たった。





距離を保ったまま、相手の動きが完全に止まるかどうかを、息を詰めて見極める。



追ってはこない。

だが、完全に興味を失った様子でもない。


しばらく、同じ距離のまま睨み合う形になる。

足の位置を変えず、体勢も崩さず、ただ時間が流れるのを待つ。



やがて相手が通路の奥へと下がっていった。


こちらを警戒する姿勢は崩さず、だが、これ以上近づくつもりもない動きだ。



戦闘が終わった、という感覚はない。

ただ、ここで区切りがついた。


それで十分だ。



壁に背中を預ける。

ようやく肺に空気を入れ直す余裕が生まれる。


手の中にさっき拾った外装片が残っている。



重なり合った鱗の欠片。

思ったよりもはっきりと重さがある。


これのせいか。



いや。

そう決めるのは早すぎる。


距離が近かっただけだ。

角度がたまたま噛み合った。



相手が、ちょうど動いていた。

その条件が、偶然重なっただけ。



狙って出来たわけじゃない。

再現できる気もしない。


正面からやろうとしたら、たぶん、何も起きなかった。

逃げて、避け続けて、その流れの中でたまたま触れただけ。



それだけの話だ、と思う。


そう結論づけて、外装片をポケットの奥に押し込む。



期待はしない。

これに意味があるとも、考えない。



ただ、落ちていたから拾っただけだ。


次に同じ状況になっても、同じことができるとは思っていない。


出来たとしても、やるつもりはない。



正面は無理だ。

その判断だけは、変わらない。


今回も、生き残った。


それ以上でも、それ以下でもない、はずだ。





歩きながら、さっきの場面が、少し遅れて頭の中に戻ってくる。


戦っていた、という感覚は薄い。

避け続けて、逃げ続けて、判断だけが連なっていた時間だ。



正面から向き合おうとした、過去の場面を思い出す。

距離を測り、構えて、狙って、踏み込もうとしたときのこと。


あのときは何も当たらなかった。



狙って振ったはずなのに、距離も角度も噛み合わないまま終わった。


それに比べると、さっきの一瞬はあまりにも軽い。



踏み込んでもいない。

狙ってもいない。


逃げる動きの途中で、体を引き、位置をずらし、その延長で触れただけだ。



それなのに落ちた。


理由は分からない。

分からないままでいい。



正面が苦手なだけだ。


逃げるほうが性に合っているだけ。


それ以上の意味は、今は考えない。





通路をいくつか抜けて、ようやく気配の薄い場所まで辿り着く。


足を止めて、一度だけ振り返る。

何も追ってきてはいない。



それを確認してから、胸の奥に溜まっていた息をゆっくり吐いた。



倒してはいない。

成果と呼べるほどのものもない。


それでも、当たった。



逃げたから、生きている。

逃げたあとで、少しだけ当たった。


それだけの話だ、と思う。



今日は、それでいい。




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