第10話 一人じゃないだけ、少しマシ
見ているものが、違う。
同じ通路を進んでいるはずなのに、歩きながら、静かにそう気づく。
相手は前を見ている。
正面の通路だけでなく、その先に続く分岐の形や壁の返り方までを、一続きの情報として捉えている。
俺は、背後を見る。
音の変化と距離の揺れだけを拾い、それが近づいているのか離れているのかを測り続けている。
同じ場所に立って、同じ方向に進んでいるのに、意識の置きどころが違う。
その事実を認識したとき、不思議と焦りはなかった。
相手は、その変化に過剰には反応しない。
反応していないというより、慌てる必要がないと判断しているように見える。
必要な情報だけを拾い、それ以外を意識の外に押し出している。
そういう歩き方だ。
足音の間隔は一定じゃない。
止まったり、進んだりを繰り返しながら、通路の奥へと続いている。
俺は違う。
必要かどうかを判断する前に、全部を拾い上げてしまう。
音の反射、床の感触、空気の流れ。
どれも無視できない気がして、意識の中に並べてしまう。
そのせいで、判断の切り替えが遅れる。
そして、遅れていること自体に気づくのも、さらに遅れる。
相手が、ほんの少しだけ歩く速度を落とす。
立ち止まるほどではないが、無意識に合わせてくれているのが分かる。
余裕があるわけじゃない。
ただ、急ぐ必要がないと判断しているだけだ。
その差は、能力の差じゃない。
経験や勇気の話とも、少し違う。
見ている方向が、分かれているかどうか。
その一点に集約されている。
相手は前を見ている。
俺は背後を見る。
その違いだけで、判断の置き場所がはっきり分かれていた。
一人で動いていたときは、前も横も後ろも、全部を自分で管理していた。
見ているつもりで、実際には全部が薄くなっていた。
今は違う。
分けられたぶん、負担のほうが軽くなっている。
相手が、軽く手を上げる。
止まる合図だ。
理由は、すぐには口にしない。
説明より先に、まず止まる。
俺も止まる。
止まること自体に、迷いは生じない。
その数秒の間に、相手は周囲を一度だけ確認し、必要な情報だけを頭の中に残す。
それ以外は、迷いなく切り捨てている。
俺は、その様子を横目で見ている。
見ているだけで、同じことをしようとはしない。
同じことをすれば、逆に意識が散るのが分かっている。
慣れていないからだ。
「……反射、戻らないで」
相手が小さく言う。
壁の返りが、さっきより強くなっている。
音が壁に当たって戻ってくる感じが、さっきよりはっきりしている。
俺も、それには気づいていた。
気づいてはいたが、判断に使うところまで持っていけていなかった。
差はそこだ。
相手は拾った情報を、そのまま使う。
俺は拾った情報を一度並べてから、取捨選択しようとする。
音が返る場所は、形が読みやすい。
動けばその音も外に漏れる。
その間に、余白が削られる。
判断が、重くなる。
劣っているとは思わない。
負けているとも感じていない。
条件が、違うだけだ。
一人で判断し続けてきた人間と、誰かと役割を分ける前提で動ける人間。
その違いが、この場所では、感覚としてではなく、行動の重さとしてはっきりと形になる。
相手が前を見ている間、俺は背後に意識を割き、音と距離の変化だけを拾い続けている。
それだけの役割分担なのに、さっきまでより呼吸が乱れにくい。
そう感じていた。
楽になった、と言えるほどじゃない。
それでも、呼吸を数える必要はなくなっていた。
音を全部拾おうとしなくていい。
距離を全部、自分一人で管理し続けなくていい。
判断の数が、確実に減っている。
それだけで、体の奥に溜まっていた重さが、少しだけ薄くなる。
この状態はいつまで続くだろうか。
少なくとも何時間も同行するとは考えていない。
それでも――
一人で全部を抱え込んでいたときよりは、少しだけマシだと感じている。
相手は前を見るのをやめず、俺は背後から意識を離さない。
互いに踏み込みすぎない距離のまま、同じ通路を進み続ける。
比べてしまったことを、後悔はしない。
これは優劣をつけるための比較じゃない。
ただ、違いを知っただけだ。
それだけのことなのに、次の判断が、少しだけ楽になっている。
しばらくのあいだ、言葉を交わさないまま、同じ通路を進み続ける。
歩く速さは、速すぎも遅すぎもしない。
急ぐ理由も、立ち止まる理由も、今のところは見当たらなかった。
相手は前を見ている。
俺は背後を意識したまま、足音と距離の変化だけを拾い続けている。
それだけの分担なのに、頭の中が少し静かだと感じる。
静かになったというより、余計な音が減っている感覚に近い。
呼吸を数えていない自分に、少し遅れて気づく。
数えなくてもいい程度には、間が保たれているらしい。
背後を見なくていいわけじゃないし、油断できる状況でもない。
それでも、前方の気配まで同時に考えなくていい。
視線を一度に四方へ配らなくていい。
判断の数が、確実に減っている。
一つひとつは、ほんの小さな違いだ。
けれど、その積み重ねが、思っていたよりも大きい。
相手が立ち止まる。
俺も、それに合わせて足を止める。
理由は聞かない。
聞かなくても、今の俺には困らなかった。
通路の先に、分岐が見える。
正面と、少し角度の違う横道。
相手はすぐには指ささず、一度だけ周囲を確認してから、短く言う。
「……今は、こっち」
理由は添えられない。
判断だけが、共有される。
俺はその方向に視線を移し、背後の音が変わらないことを確かめる。
問題はなさそうだ。
だから、足を出す。
それ以上の理由はいらない。
一人のときなら、ここで少し迷っていたはずだ。
正面か、横か。
戻る余地は残っているか。
今は、そこまで考えていない。
判断を放棄したわけじゃない。
判断の順番が、少しだけ変わっている。
相手が前を見てくれている分、俺は背後の変化だけに集中できる。
集中しているというより、余計なことを考えずに済んでいる。
楽になった、と言えるほどじゃない。
緊張は、まだ体の奥に残っている。
それでも、一人で全部を背負っていたときよりは、少しだけマシだ。
そう言葉にしてしまうと軽く聞こえる気がするが、今の感覚に一番近い表現は、それしか見当たらない。
安心しているわけじゃないし、救われたとも思っていない。
ただ、判断の重さが、ほんの少しだけ分散されている。
それだけのことだ。
相手と目を合わせることはなく、名前も目的も聞いていない。
それでも、同じ通路を、同じ方向へ進んでいる。
この関係が、この先も続くとは思わないし、続けようとも考えていない。
それでも今は――
一人じゃないだけで、少しだけマシだ。
そう感じたまま、俺たちは次の分岐へ向かった。
分岐を一つ越えたところで、相手が歩く速度をわずかに落とす。
止まるほどではないが、ここから先を続けるかどうかを測っている間だと、自然に分かった。
通路は、さっきまでより少しだけ狭い。
音が返りやすくなり、直線が長く続く構造に変わっている。
ここから先は、判断を誤ると逃げにくい。
さっきまで通用していたやり方が、そのまま使えるとは限らなかった。
相手が、はっきりと立ち止まる。
俺もそれに合わせ、背後を一度だけ確認してから正面へ意識を戻す。
相手は、前方の通路と分岐の影を見比べている。
距離、音の返り、角度――短い時間で、必要な情報だけを拾っているのが分かる。
「……ここからは、別のほうがいい」
声は低く、抑えられている。
理由は語られないが、言わなくても察しはついた。
直線が増える。
音が返る。
二人分の動きは、どうしても目立つ。
合理的な判断だ。
俺はすぐには返事をしない。
拒む理由も、引き止める理由も、どちらも見当たらなかった。
「……ああ」
短く返す。
それで十分だった。
相手は、こちらを振り返らない。
頷きもしないまま、進路を少し変え、影の濃いほうへと歩き出す。
別れる、というほど大げさなものじゃない。
ただ、自然に分かれただけだ。
距離が少しずつ開いていく。
足音が、二つから一つへと減っていく。
その背中が通路の闇に溶けていく直前、ふと目に留まったものがある。
片耳だけ。
小さな黒いピアスが、この場所特有の淡い明るさを受けて、わずかに縁だけを浮かび上がらせていた。
実用一点張りの装備の中で、そこだけが妙に浮いている。
意味があるのか、ないのかも分からない違和感だった。
探索者って人種は、やっぱりどこか変わっている。
そういう連中と、この先また会うことがあるかもしれない。
ないかもしれない。
どちらでもいい。
足音が完全に消え、通路には、また一人分の気配だけが残る。
背後を気にする必要が戻ってくる。
判断の数も、少しずつ元に戻っていく。
それでも、不思議とさっきほど重くはなかった。
一度、判断を分けていたからだ。
役割を知った。
一人で抱え込んでいた重さの正体も、少しだけ見えた気がする。
今は、ここまでで十分だ。
一人に戻る準備は、もうできている。
来た方向を頭の中でなぞり、戻れる線を意識の中で太くする。
呼吸を一つ整え、体の位置を確かめる。
生きている。
それは、変わらない事実だ。
一人じゃない時間が、確かにあった。
それだけで、次の判断へ進むには十分だった。
そう思える程度の余裕を残したまま、俺は別の通路へ足を向けた。




