第1話 引く理由
2026年、あけましておめでとうございます。
ローファンタジー作品、連載開始です。
正面から行った探索者は、だいたい帰ってこない。
だから俺は、逸れる。
一本道には、ちゃんと理由がある。
作られた道は、歩きやすく、迷わず進める。
でも、そういう道は誰にとっても同じだ。
同じ場所で足を止め、同じ位置で躓く。
そして、同じところで死ぬ。
俺は、それを何度も見てきた。
正面に続く通路を避け、壁際に身を寄せて進む。
足音は立てない。呼吸も、できるだけ浅くする。
遠くで、何かが動いた。
金属を擦るような、低く重たい音だ。
……近づいてくる。
俺は立ち止まらない。
立ち止まった瞬間、選択肢は一気に減る。
逸れた先は暗く、狭く、湿っている。
足元もよく見えないし、安心感もない。
それでも、引き返せるだけまだマシだ。
一本道は前にしか進めない。
逃げ場がない、という意味で。
だから、強そうなやつほど、あそこを選ぶ。
「行けるだろ」
そんな声を、何度も聞いた。
自信に満ちた声で、根拠はたぶん勢いだけだ。
俺は、行けるとは思わない。
無理だと思う。
だから、進まない。
壁に手をつき、正面から少しずつ位置を外していく。
横へ動いているはずなのに、進んでいる感覚が、一定じゃない。
身体を擦らせ、音を殺す。
勝つ方法は考えない。
倒す手段も、浮かばない。
考えているのは、どうやって生き残るかだけだ。
その先のことは、まだ考えない。
自分が弱いと、ちゃんと分かっていることだ。
……そのときだった。
奥の通路で、空気が、一瞬だけ押し潰された気がした。
音として理解するより先に、胸の奥が嫌な感じにざわつく。
理由は分からない。
ただ、身体のほうが、先に危険を察知した。
来る。
そう思った直後、遅れて音が追いついてきた。
ズン、と。
腹の底を殴られたような低い衝撃が走る。
耳鳴りがして、思考が一拍だけ途切れる。
壁が震え、足元の小石が細かく跳ねた。
……まずい。
喉がひくりと鳴りそうになり、息が、一気に浅くなる。
意識して抑えないと、音を立ててしまいそうだった。
俺は反射的に、その場にしゃがみ込んでいた。
考えたわけじゃない。
身体が、そうしろと判断した。
音の方向は、一本道のほうだ。
さっきまで、俺が見ていた場所。
……潰れた。
そう考えた瞬間、胃の奥が急に冷たくなる。
誰かとは、考えない。
考えたら、動けなくなると分かっている。
重たいものを引きずる湿った嫌な音が続く。
それは、確実にこちらへ近づいてきていた。
心臓の音が、やけにうるさい。
このままじゃ、聞かれるかもしれない。
俺は、動かない。
今は、そうするしかない。
背中を壁に押しつけ、呼吸をひとつずつ数える。
音を消すためじゃない。
自分を落ち着かせるためだ。
もし、あそこで逸れていなかったら。
もし、正面を選んでいたら。
そんな考えが勝手に浮かび、すぐに押し戻す。
意味がない。
今、生きているかどうかとは関係ない。
音は、すぐ近くまで来てから何事もなかったかのように通り過ぎていった。
……行ったように見えた。
膝の力が抜けそうになるが、俺はまだ立たない。
今、立つ理由はどこにもない。
判断が正しかったのかどうかは、分からない。
あの選択が正解だったという確信も、まだ持てない。
ただ、まだ息ができる。
それだけが、
この場で、信用できる唯一の事実だった。
──ダンジョン探索の数日前。
コンビニの蛍光灯は、やけに現実的な明るさをしていた。
目が覚めるというより、逃げ場がない感じの、光だ。
俺はレジ横の棚の前で足を止め、しばらく、何も取らずに立ち尽くしていた。
財布の中身は、あらかじめ分かっている。
確認するまでもなく、軽い。
半額シールの貼られた、おにぎりが一つ。
昆布。
今日は、それでいい。
レジに向かう途中、スマホが小さく震えた。
バイト先からの通知だと分かっていたから、
すぐには、画面を開かなかった。
別に、内容は予想できる。
今日で終わり。
だいたい、そんなところだろう。
会計を済ませ、コンビニの外へ出る。
空気は冷たいが、凍えるほど、ではない。
もう少しで暖かくなる、そんな中途半端な寒さだ。
アパートまでの道を歩きながら、俺はようやく通知を開いた。
やっぱり、予想どおりだった。
理由は、書いてあったが、俺は最後まで読まなかった。
聞かなかった。
というより、聞けなかった。
理由を知っても、
自分に何かできる気がしなかったからだ。
部屋に戻る。
木造二階建ての、古いアパート。
階段を上るたび、どこかの部屋の生活音が聞こえる。
人が生きている音だ。
それを聞いて
なぜか少しだけ安心した。
四畳半の部屋は、相変わらず寒い。
暖房をつけるほどではないが、何もしないでいるとじわじわ体温を奪われる。
「よっこいしょっと」
俺はコートを脱がず、そのまま座った。
おにぎりの包装を開ける。
昆布の匂いが、少しだけ広がった。
ちゃんと食べないと、駄目だ。
理由はよく分からない。
でも、それだけは昔からなんとなく正しい気がしている。
食べ終えて、押し入れからノートを引っ張り出す。
大学のノートだ。
今は休学中。
逃げたわけじゃない。
そう言いたいが、自分でもはっきり区別はついていない。
将来のことを考えると、だいたい、同じところで思考が止まる。
……無理だと思う。
その言葉は、諦めでもあり今の自分の正直な評価でもあった。
ニュースアプリを開くと、指先が一瞬だけ止まった。
嫌な予感がしたが、そのまま、画面を下へ送る。
東京第三区に発生したダンジョンの話題が、今日も変わらず画面の上のほうに載っていた。
「……また、か」
声に出した瞬間、思ったより音が大きく感じられた。
誰もいない部屋なのに、つい、周囲を気にしてしまう。
死亡者数は、少ない。
ただし、ゼロではないときちんと書いてある。
「少ない、って言葉で済ませるのは簡単だけどさ。
それが誰の話なのか、考えたことあるのかよ。
運が悪かった、で終わらせるには重すぎるだろ」
言い切ったあと、少しだけ息が詰まった。
自分に言っているのか、それとも、誰かに向けたのかも分からない。
危険度は低〜中。
初心者向け。
そう軽い言葉でまとめられている。
「初心者向け、ね……。
死なないとは書いてないし、
帰ってこれるとも、どこにも書いてない」
俺は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
胸の奥に重たいものが沈んでいく感覚がある。
強くなりたいわけじゃない。
英雄になりたいわけでも、もちろんない。
ただ、金が必要だった。
それだけは、どうやっても否定できない。
気づくと、奥歯を噛みしめていて顎が少し痛んだ。
「生活ってさ、続けるだけでこんなに金が要るんだな。
何もしなくても、勝手に減っていくのに」
言い終えて、俺は一度スマホから目を離した。
考えたくないことほど、頭に残る。
金が必要だ。
でも、そのために死ぬ気はない。
じゃあ、どうする。
そうやって考え始めると、頭の中は自然とあの場所に向かっていた。
正面から行くと、たぶん死ぬ。
それは直感じゃなくこれまで見てきた結果だ。
でも、曲がれば生き残れるかもしれない。
「……かも、だけど」
そんな曖昧な希望に、縋っている自分がいる。
それでも何も考えないよりはマシだった。
俺はスマホを閉じ、そのまま窓の外へ視線を向ける。
白い息は出ない。
でも、空気はまだ冷たい。
もう少しで暖かくなる。
毎年そう思って、結局何も変わらなかった。
その前に、何かを、決めないといけない気がしていた。
俺は、小さく息を吐く。
「……無理だと思う」
それは弱音でもあり、今の自分なりの正直な評価でもあった。
でも、理由があるなら、退いてもいい。
そう考えられたのは、たぶん――このときが、初めてだった。
……だからといって、気持ちが、軽くなるわけじゃない。
「楽になったら、話は早いんだけどな」
自分で口にしてみて、少しだけ苦笑いが浮かんだ。
退いてもいい。逸れてもいい。
そう思えたはずなのに、胸の奥はざわついたままだ。
理由があるなら、逃げてもいい。
その考え自体は、たしかに正しい。
でも、理由を持った瞬間から、考え続けなきゃいけなくなる気がした。
「……面倒だな」
誰に言うでもなく、ぽつりと声が漏れる。
退くか、退かないか。
行くか、行かないか。
選ばなかったほうの未来が、頭の片隅に、いつまでも、残り続ける。
逃げるって、思ったより疲れる。
考えなくていいなら、そのほうがずっと楽だ。
それでも俺は、考えるほうを選んだ。
たぶん、それが一番俺らしい気がした。
それが俺らしい、と考えたところで何かが変わるわけでもなかった。
「……そう簡単なら、苦労しないよな」
口の中で転がした言葉は、思ったより手応えがなく、少し軽い。
退いてもいい。
逃げてもいい。
「そう思えたのは、たしかなんだけどさ」
でも、それは気分の話でしかない。
現実は、変わらずそこにある。
財布は軽い。
さっき買ったはずなのに、もう減った気がする。
「減るの、早すぎだろ……」
減ったというより、減ったことを意識させられている。
金がないと頭のどこかがずっと騒がしい。
「静かにしてくれればいいのに」
もしダンジョンが、生活の穴を埋める手段になるなら。
もし運が良ければ、俺にも何か拾えるとしたら。
「……たられば、だな」
今の俺に、何ができるんだろう。
考え始めた瞬間、答えは出ないと分かっていた。
「分かってるけど、考えるよな」
分かっているのに考える。
たぶん、怖いからだ。
何もしないでいると、怖さが形になって近づいてくる。
「だから考えるしかない」
装備がない。
知識もない。
経験も、体力も足りない。
最後に残るのは運だけだ。
「心許ない。今のままじゃ」
足りないものを並べるのは簡単だ。
問題は、その状態で行くかどうか。
行けば、危ないかもしれない。
行かなければ、今は大丈夫かもしれない。
「生きてるだけ、ってのも案外大変だな」
でも行かなければ、生活は確実に削れていく。
削れた先が、いつか命に触れる気もしている。
それでも俺は、死ぬ確率が高いほうを選びたくない。
「当たり前だろ」
選びたくないというより、選べない、が正しい。
「胸張って言える話でもないけど」
勇気がないから、と言ってしまえば楽だ。
「それで終われたら、楽なんだけどな」
でも、それで終わるのは危ない。
俺はスマホの画面を眺める。
表示された危険度は、低から中。
初心者向け、そう分類された場所だった。
「便利な言葉だよな、初心者向けって」
言葉だけ見れば、俺にも手が届きそうに思える。
でも、その中にはきっと、死んだ誰かが混じっている。
「初心者向け、でも死ぬ。 矛盾じゃないのが、余計に嫌だ」
「……足りないな」
声に出すと、ほんの少しだけ間が空いた。
足りないのは、金だけの話じゃない。
「全部、足りてない」
行くために必要な材料が、全部、揃っていない。
退く理由を探したつもりで、行けない理由を積み上げている。
「やってること、完全に逆だな」
行く理由ならある。
金がどうしても必要だ。
「それだけで動けるほど、俺は割り切れない」
死ぬのが怖い。
怖いまま、何とかしたい。
「我ながら、ほんとにめんどくさい」
じゃあ、何があれば行けるんだ。
そう考えた瞬間、その答え自体が怖くなる。
「何もなくても詰み。今すぐ行けって言われても詰みだ」
結局、今の俺にできることは一つ。
選択肢を増やすことだ。
「逃げ道じゃない。生き残るための方法だ」
確率を、ほんの少し上げる。
地味で、面倒なやり方。
目を閉じる。
息を吸って、ゆっくり吐く。
「……落ち着け」
それだけで、体のざわつきが少し下がる。
まだだ。
今じゃない。
「今じゃない、は逃げじゃない」
……そう信じたいだけかもしれない。
でも、いつだと聞かれたら答えられない。
「それが一番、情けない」
それでも、俺は止まれない。
足りない。
今のままじゃ、まだ、足りない。
「分かってる。だから、考えるしかない」
それだけが、はっきりと残っていた。
足りないと分かったからといって、考えるのをすぐにやめられるわけじゃなかった。
むしろ足りないと自覚した分だけ、考えることの数が増えていく気がしている。
行かない、という選択肢が頭に浮かぶ。
今じゃない、という判断も同時に浮かぶ。
それで終わりにできたなら、たぶん、もっと楽で簡単だったと思う。
「……性に合わないな、ほんとに」
口に出してみて、自分でも妙に納得してしまった。
俺は、行かない理由を積み上げるより先に、行ける条件を探してしまっている。
それが癖なのか、ただの逃げなのかは、正直分からない。
でも考えずに放っておくほうが、どうしても落ち着かず、気持ちが悪い。
危険度が低い時間帯はいつか。
人が少ない曜日はどこか。
地図の更新頻度や、安全エリアの位置関係。
思いつくままに並べて、頭の中だけで整理してみる。
「全部、机上の空論なんだけどな」
そう思いながらも、何もしないよりはマシだと感じていた。
考えることで、今すぐ決めなくていい距離が、ほんの少しだけ取れる気がする。
ダンジョンそのものじゃなく、そこに至るまでの間との距離だ。
一歩手前で止まれる場所を、無意識に探している感覚があった。
俺はスマホを置いて、天井をじっと見上げたまま動かない。
白くて、ところどころ汚れが残っている。
「……何も変わんねえな」
部屋も、たぶん、自分自身も。
それでも、頭の中だけは止まらずに動き続ける。
行くか、行かないか。
今か、もう少しあとか。
答えは出ない。
出る気配も、今のところはない。
でも考えているあいだだけは、完全に止まらずにいられる気がする。
何もしない、という選択だけは、選ばずに済んでいる。
「……それで、本当にいいのか?」
問いかけてみても、返事が返ってくるはずもない。
それでも、考えるのをやめようとは思わなかった。
俺は、すぐに答えを出したいわけじゃない。
納得できる形を、時間をかけて探しているだけだ。
今じゃない。
それだけは、まだ手放せずにいる。
だから今日も、答えの出ないまま考え続ける。
それしか、今の俺にはできないまま。
考え続けているうちに、いつの間にか夜が深くなっていた。
時計を見る。
思っていたより、時間が経っている。
「……こんなもんか」
何かを決めた感覚はない。
でも、何も考えていなかったわけでもない。
ただ、頭の中にいくつかの線が引かれただけだ。
ここから先は危ない。
ここまでは戻れる。
そんな曖昧な境目を、ぼんやりと意識している。
俺はスマホを手に取り、もう一度だけ画面を見る。
ダンジョンの文字が、特別なものじゃなく、生活の一部みたいに並んでいる。
「……まだだ」
小さく言って、それ以上は何も足さなかった。
布団に横になる。
天井が、さっきと同じ位置にある。
変わったことは、たぶん、何もない。
それでも、目を閉じたあとも、考えるのはやめられなかった。
行くか、行かないか。
今か、もう少し先か。
答えは出ない。
でも、出さないままではいられない気もしている。
考え続けているうちに、問いの形だけが、少しずつ変わっていた。
――
そして数日後、
俺はまたあの場所で、息を殺して立ち止まっている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
続きを少しずつ投稿していく予定です。




