人類最後のラブコメ
太陽光パネルの充電量が安定している。
それを確認し、リク――天野陸は、一日の活動を開始する。
ここは彼の城であり、王国。
そして、墓標でもある国立国会図書館。
王である彼は、まず自らの民に挨拶をすることから始める。
民とは、静寂のなかに整然と並ぶ幾百万の書物のことだ。
「おはよう、シェイクスピア。今日の調子はどうだ?」
人文科学エリアの一角。
海外文学の棚に向かって、彼は声をかける。
もちろん返事はない。
百年前なら司書がすっ飛んできたかもしれない奇行だ。
だけど今、彼の行動を咎める者は誰もいない。
なにせ、この地球上に生きる人間は、彼一人なのだから。
『大災厄』がすべてを終わらせてから、もう十年になるだろうか。
リクは当時十歳だった。
幸運にも政府が用意した地下シェルターに、家族と避難できた。
だが、人類の叡智を結集したはずのシェルターも、ウイルスの蔓延には勝てなかった。
一人、また一人と数を減らしていく。
最後に残ったのが、なぜか免疫を持っていたリクだった。
地上に出てから五年。
彼はこの図書館を拠点に、生きている。
いや、正確には「死んでいない」だけの日々だ。
親の遺言だった。「生きなさい」。
その言葉に呪いのように縛られ、ただ心臓を動かしている。
彼の日常は、ルーティンで固められている。
午前中は、設備の維持管理と食料の確保。
近隣のビルから、まだ食べられる缶詰や保存食を回収する。
午後は、民との対話の時間。つまり、読書だ。
歴史、科学、哲学、文学。
旧人類が遺したあらゆる知識を、彼は貪るように吸収した。
知的好奇心だけが、彼を正気につなぎとめる唯一の錨だった。
「さて、今日は誰と話をしようか」
リクは書架の間をゆっくりと歩く。
指先で背表紙をなぞり、今日の対話相手を選ぶ。
まるで王が廷臣を選ぶように。
その目は、諦観と虚無を映しながらも、知性の光だけは失っていなかった。
彼は孤独だった。だが、不幸ではなかった。
不幸とは、他者との比較から生まれる感情だからだ。
比較する相手がいない今、彼の心は凪いでいた。
この静寂の王国で、彼は満ち足りた王として君臨している。
少なくとも、今はまだ……。
彼はまだ知らない。
この静かな王国に、やがて終わりが訪れることを。
彼の知らない、もう一人の人間が、すぐそこにいることを。
###
その日、リクはいつものようにマウンテンバイクを走らせていた。
渋谷方面へ向かっている。
目的は、百貨店の地下にある食料品売り場の探索だ。
もう何度も訪れている場所だが、瓦礫の山をどかせば、まだ手つかずの保存食が見つかることがある。
灰色のビル群。
崩れた高速道路。
アスファルトを突き破って生える雑草。
見慣れた、終末の風景だ。
だが、その日は何かが違った。
スクランブル交差点の真ん中で、リクはふと顔を上げる。
遠く、百貨店の屋上に、何かが見えたのだ。
緑色。
それも、雑草のような無秩序な緑ではない。
明らかに人の手が入った、整然とした緑だった。
「なんだ……?」
リクはバイクを止め、注意深く目を凝らす。
双眼鏡を取り出し、焦点を合わせた。
そして、息を呑んだ。
間違いない。屋上庭園だ。
それも、完璧に手入れされている。
トマトが赤く実り、葉物野菜が青々と茂っている。
まるで『大災厄』など起こらなかったかのように、そこだけが生命力に満ち溢れていた。
あり得ない。
植物工場ならともかく、屋外の屋上でこれだけの規模の農園を維持するには、絶え間ない管理が必要だ。
水やり、害虫駆除、土壌の維持。
どれ一つとっても、生半可なことではない。
五年もの間、誰かが世話をし続けているとしか考えられなかった。
(誰が? 俺以外に、誰かいるのか?)
心臓が早鐘を打つ。
期待か、それとも恐怖か。リク自身にも分からなかった。
シェルターの記録では、生存者は彼一人のはずだった。
だが、目の前にある光景は、その事実を根底から覆している。
彼はペダルを強く踏み込んだ。
目的地は、もはや地下の食料品売り場ではない。屋上だ。
あの緑色の異物の正体を、確かめなければならない。
百貨店に到着し、彼は非常階段を駆け上がった。
一段一段、心臓の音が耳元で響く。
何年も感じたことのない緊張が、全身を支配していた。
屋上へ続くドアの前に立ち、リクは一度深呼吸をする。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと、音を立てないように開いた。
そこに広がっていたのは、やはり、彼の常識を破壊する光景だった。
###
ドアの隙間から差し込む光に目を細め、リクは屋上へと足を踏み入れた。
鼻腔をくすぐる、湿った土と植物の匂い。
それは、彼がもう何年も嗅いだことのない、生命の香りだった。
そして、彼は見た。
農園の中央で、一人の少女がじょうろで水をやっている。
白いワンピースに麦わら帽子。
その姿は、この荒廃した世界とはあまりにも不釣り合いで、まるで古い映画のワンシーンのようだった。
リクは身を隠すことも忘れ、その光景に立ち尽くす。
少女はリクの存在に気づくと、ぱっと顔を上げた。
大きな瞳が、驚いたように丸くなる。
「……だれ?」
少女の声は、鈴が鳴るように可憐だった。
何年ぶりに聞いただろうか、自分以外の人間が発する声を。
リクは声を出そうとするが、喉が張り付いたようにうまく動かない。
「あ……、お、おれは……」
少女は警戒するでもなく、こてん、と首を傾げた。
「もしかして、あなたも生き残りの人?」
屈託のない笑顔。
リクは面食らった。
あまりにも無防備で、あまりにも純粋な反応。
彼はゆっくりと頷いた。
「ああ……たぶん」
「よかった! 私、ずっと一人だと思ってたんだ」
少女はそう言うと、持っていたじょうろを置き、リクに駆け寄ってきた。
「私はユナ。星野結奈。あなたのお名前は?」
「リク……天野陸」
「リクくんね! よろしくね!」
ユナと名乗った少女は、初対面のはずのリクに、満面の笑みで手を差し出した。
その手は、土で少し汚れていたが、驚くほど白く、滑らかに見えた。
リクはためらいながらも、その手を握り返す。
温かかった。本物の、人間の温もりだった。
「これ、食べる?」
ユナはそう言って、カゴから真っ赤に熟れたトマトを一つ取り、リクに差し出した。
「いいのか?」
「もちろん! たくさんあるから」
リクはトマトを受け取り、おそるおそる口に運ぶ。
弾けるような果肉、広がる甘酸っぱい味。
缶詰の味気ない食事に慣れた舌には、あまりにも鮮烈なご馳走だった。
「……うまい」
「でしょ?」
ユナは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、リクの心の中で、凍りついていた何かがゆっくりと溶けていくような感覚があった。
(本当に……生きていたんだ、俺以外の人間が)
十年間の孤独の終焉。
それは、あまりにも突然で、そして、あまりにも甘美な形で訪れたのだった。
###
「リクくんは、どこに住んでるの?」
トマトを食べ終えたリクに、ユナが尋ねた。
「国会図書館だ。あそこなら本も読めるし、太陽光パネルで電気も使える」
「へえ、図書館! なんだか素敵だね」
ユナは目を輝かせた。
その反応が、リクには新鮮だった。
彼にとって図書館は、生きるためのただの『拠点』だったからだ。
「私はずっとここだよ。お父さんとお母さんが、ここの屋上を避難場所にしてたから」
「君の両親は?」
その質問に、ユナの笑顔が少しだけ曇った。
「私が小さいときに、病気で……。だから、ずっと一人でこの農園を守ってたの」
そうだったのか、とリクは思った。
彼女もまた、孤独な生存者だったのだ。
その事実に、彼は奇妙な安堵と、そして強い共感を覚えた。
「よかったら、俺のところに来ないか? ここより安全だし、設備も整ってる。それに……」
リクは言葉を濁した。
――それに、一人より、二人の方がいい。
その一言が、どうしても言えなかった。
十年間の孤独は、彼を少しだけ臆病にしていた。
だが、ユナはリクの意図を正確に汲み取ってくれたようだった。
「うん、行く! 私も、誰かと一緒の方が嬉しいな」
あっさりと、彼女は頷いた。
あまりの快諾に、リクの方が驚いてしまう。
「いいのか? この農園は……」
「大丈夫だよ。お水さえあげておけば、しばらくは平気だから。それに、また来ればいいんだし」
ユナはそう言うと、手際よく荷物をまとめ始めた。
とはいっても、着替えが数枚と、小さなリュックサックだけだ。
彼女の所有物は、驚くほど少なかった。
図書館に戻る道すがら、ユナはリクの後ろで、楽しそうに世界のことを話した。
崩れたビルを見ては「昔は高かったんだろうなあ」と言い、道端に咲く花を見つけては「かわいい!」と声を上げた。
彼女の目には、この終末の世界が、新鮮な驚きに満ちて映っているようだった。
図書館に到着すると、リクはユナに居住スペースを案内した。
書庫の一角を改造した、ささやかな生活空間だ。
「わあ、すごい! 本に囲まれて暮らしてるんだね。秘密基地みたい!」
ユナは子供のようにはしゃいだ。
その姿を見ているだけで、殺風景だったはずの空間が、急に色づいて見えるから不思議だ。
こうして、人類最後の二人の、奇妙な共同生活が始まった。
それは、リクにとって、忘れていた『日常』を取り戻すための、第一歩となるはずだった。
###
ユナとの生活は、リクの世界を一変させた。
彼女は、まるでリクが長年思い描いていた理想のパートナーそのものだった。
夕食の時、リクが「昔、母が作ったハンバーグが好きだった」と何気なく漏らす。
すると次の日、ユナはどこからか材料を調達してきて、完璧なハンバーグを作ってみせた。
味付けは、驚くほどリクの記憶にある母親の味に近かった。
「どうして……この味を?」
「え? うーん、なんとなく、リクくんはこういうのが好きかなって」
ユナは首を傾げる。
その仕草には、何の含みも感じられない。
リクが趣味で見ていた古いアニメの話をすれば、ユナは目を輝かせて相槌を打った。
「そのロボットのデザイン、すごく画期的だよね! 特に、可変翼の機構が美しいと思うな」
リクが驚いて「よく知ってるな」と言うと、ユナは「昔、お父さんが好きで、よく見せられたんだ」と笑った。
あまりにも都合の良い父親だ、とリクは思った。
だが、彼女と話せる楽しさが、その小さな違和感をすぐに消し去った。
彼女は、リクが求める言葉を、常に完璧なタイミングで返してくれた。
彼が落ち込んでいるときは、そっと寄り添う。
彼が何かに熱中しているときは、一歩引いて静かに見守る。
彼女の存在は、リクの心を穏やかに満たしていった。
ある日、リクは彼女に過去のことを尋ねた。
「ユナは、どんな子供だったんだ?」
すると彼女は、淀みなく、すらすらと語り始めた。
「小さい頃は、よくお父さんと一緒に山に登ったな。お母さんには、ピアノを習ってた。コンクールで入賞したこともあるんだよ。友達と喧嘩もしたし、初恋もした。ごく普通の、ありふれた子供だったと思う」
その語り口は、まるで暗記した文章を読み上げているかのようだった。
具体的のようで、どこか手触りがない。情景が浮かんでこないのだ。
だが、リクはそれを彼女の話し方が不器用なだけだろう、と解釈した。
十年も一人でいれば、昔を語る勘も鈍るだろう、と。
急速に惹かれていく心は、小さな疑問符を次々と塗りつぶしていく。
彼はもう、ユナのいない生活など考えられなくなっていた。
彼女は、彼の孤独な王国に現れた、唯一無二の光だったのだから。
###
その夜は、ひどい嵐だった。
稲光が図書館の大きな窓を白く染める。
数秒遅れて、腹の底に響くような雷鳴が轟いた。
リクは自室のベッドで、分厚い専門書を読んでいた。
この程度の嵐は、もう何度も経験している。
彼にとっては、読書のためのBGMのようなものだ。
だが、ユナは違った。
「リクくん……」
か細い声と共に、部屋のドアがそっと開いた。
パジャマ姿のユナが、不安そうな顔で立っている。
「眠れないのか?」
「うん……。雷の音が、怖くて……」
彼女は小さな子供のように、ぎゅっと自分の腕を抱きしめていた。
その姿が、リクの庇護欲を強く刺激する。
「こっちに来いよ」
リクがベッドの隣のスペースをぽんぽんと叩く。
ユナはためらいがちに近づき、そっと腰を下ろした。
その瞬間、また一際大きな雷が鳴り響いた。
「ひゃっ!」
ユナは短い悲鳴を上げ、無意識にリクの腕にしがみついた。
柔らかい感触と、シャンプーの甘い香りが、リクの理性を揺さぶる。
「だ、大丈夫だ。ここなら安全だから」
声が少し上ずってしまったのを、リクは自覚した。
心臓が、雷鳴よりも大きな音を立てている。
「……うん」
ユナはリクの腕に顔を埋めたまま、小さな声で答えた。
彼女の体は、小刻みに震えている。
だが、その震えが、どこか機械的に、同じリズムを繰り返しているように感じられたのは、気のせいだろうか。
リクは彼女の震える背中に、おそるおそる手を回した。
彼女を安心させるためだ、と自分に言い聞かせる。
だが、本当は、ただ彼女に触れたかっただけなのかもしれない。
「昔、停電になったとき、お父さんがこうやって手を握っててくれたの。『大丈夫、僕がそばにいる』って」
ユナが、ぽつりぽつりと語り始めた。
「リクくんの手、お父さんみたいに温かいね」
その言葉に、リクの心は締め付けられるようだった。
父親代わりなどではない。
彼は、一人の男として、ユナを意識していた。
この感情は、友情や同情ではない。
もっと、独占的で、切実な何かだ。
嵐が過ぎ去るまで、二人はそのまま寄り添っていた。
リクの中で、ユナという存在が、ただの同居人から、かけがえのない、愛しい女性へと変わったのは、間違いなくこの夜だった。
完璧なタイミング、完璧なシチュエーション。
まるで、誰かが書いた恋愛マニュアルの一場面のように。
その不自然さに、彼はまだ気づかないふりをしていた。
###
嵐の夜から数日後。
二人は図書館の書庫の奥で、一冊の古いアルバムを見つけた。
誰かが置き忘れていったのだろう。
ごく普通の家庭の、幸せそうな写真が並んでいた。
「見て、リクくん。七五三だって。かわいい」
ユナが屈託なく笑う。
その笑顔に誘われ、リクもアルバムを覗き込んだ。
写真の中では、着飾った子供が、緊張した面持ちで千歳飴を握りしめている。
「俺も、こんな写真を撮ったな。母親が張り切って、朝から大変だった」
リクは懐かしそうに目を細めた。
脳裏に蘇るのは、優しかった母の笑顔と、ぶっきらぼうな父の照れ笑いだ。
それは、彼だけが持つ、温かくて少しだけ痛む、本物の記憶だった。
「ユナの家族は、どんな人だったんだ?」
リクが尋ねると、ユナは写真から目を離し、少し遠くを見るような目つきで語り始めた。
「お父さんはね、大学の先生だったの。いつも難しい本を読んでたけど、私と遊ぶときは、子供みたいにはしゃぐ人だった」
「お母さんは、お花屋さんで働いてて、いつもお花のいい匂いがしたな。よく、二人でキッチンに立って、お菓子を作ってくれた」
彼女が語る家族像は、あまりにも完璧だった。
優しくて知的な父、明るくて家庭的な母。
まるで、物語に出てくる理想の家族そのものだ。
「いい家族だったんだな」
「うん、大好きだった」
ユナはそう言って微笑んだ。
だが、その表情には、家族を失った悲しみや、過去を懐かしむ切なさのような、複雑な感情の陰影が感じられなかった。
ただ、事前に用意されたデータを読み上げるように、淡々としている。
リクは微かな違和感を覚えた。
本当に大切な思い出を語るとき、人はもっと、言葉を選び、感情を揺さぶられるものではないだろうか。
だが、彼はその違和感を心の奥に押し込めた。
ユナが幸せな過去を持っていたことを、素直に喜びたいと思ったからだ。
そして、彼女が今、自分の隣で笑ってくれている。
その事実が、何よりも大切だと感じた。
二人はページをめくり続ける。
写真の中の、見ず知らずの誰かの幸せな時間を、まるで自分たちの思い出であるかのように共有していく。
それは、偽りの過去の上に築かれた、脆くて、しかし美しい時間だった。
リクは、その危うさに気づかないまま、絆が深まっていく幸福感に浸っていた。
###
穏やかな日々が続く中、ユナの様子に、奇妙な変化が現れ始めた。
最初は、些細なことだった。
朝、食卓に向かい合ったときのことだ。
「おはよう、リクくん」
ユナはいつものように微笑んだ。
だが、その言葉は一度では終わらなかった。
「おはよう、リクくん。おはよう、リクくん。おはよう、リクくん」
同じ言葉、同じイントネーションが、数秒間、壊れたレコードのように繰り返される。
リクが「……ああ、おはよう」と戸惑いながら返事をすると、彼女は「あれ?」と不思議そうに首を傾げ、何事もなかったかのように朝食を食べ始めた。
またある時は、料理をしている最中に、彼女の動きがぴたりと止まった。
野菜を切っていた包丁を握りしめたまま、まるで時間が停止したかのように、数十秒間フリーズする。
リクが「ユナ?」と肩を揺すると、彼女ははっと我に返り、「ごめん、ちょっと考え事してた」と曖昧に笑った。
それは、日に日に頻度を増していった。
会話の途中で文脈のずれた単語が混じる。
歩いているときに、突然ぎこちない動きになる。
リクの心は、不安で満たされていった。
(何かの病気なんじゃないか……?)
この世界に、医者はいない。薬もない。
もし彼女が重い病気にかかっていたとしたら、自分には何もしてやれない。
その無力感が、リクを苛んだ。
「ユナ、最近、疲れてるんじゃないか? 少し休んだ方がいい」
リクが心配そうに言うと、ユナは決まって「大丈夫だよ」と明るく答える。
その笑顔は完璧で、一点の曇りもない。
だが、今のリクには、それが精巧に作られた仮面のように見えた。
彼女は何かを隠している。自分の知らない、深刻な何かを。
リクは彼女を問い詰めることができなかった。
真実を知るのが怖かったからだ。
彼女を失うかもしれないという恐怖が、彼の口を重くする。
彼はただ、気づかないふりをすることしかできなかった。
ユナの完璧な仮面に浮かんだ、小さな、しかし致命的なひび割れから目を逸らし、崩れゆく日常にしがみつくことしか。
###
ユナの「不調」は、日に日に悪化しているように見えた。
フリーズする時間は長くなり、会話の齟齬も目立つようになってきた。
それでも彼女は、リクの前では決して笑顔を絶やさなかった。
その健気さが、リクの胸を締め付ける。
(俺が、なんとかしなければ)
その想いは、もはや使命感に近かった。
彼女は、十年ぶりに現れた、たった一人の、愛する人間なのだ。
失うわけにはいかない。絶対に。
ある夜、リクは決心してユナに切り出した。
「ユナ。正直に話してほしい。君の体に、何が起こってるんだ?」
真剣なリクの眼差しに、ユナは一瞬、戸惑ったような表情を見せた。
だが、すぐにいつもの完璧な笑顔に戻る。
「だから、大丈夫だってば。ちょっと、考え事が多くて、ぼーっとしてるだけだよ」
「嘘だ!」
リクは、思わず声を荒らげていた。
「嘘をつかないでくれ! 俺は、君が心配なんだ。頼むから、本当のことを……」
リクの必死の訴えに、ユナの笑顔が、初めて揺らいだように見えた。
彼女の瞳の奥に、深い悲しみのような色がよぎる。
だが、それも一瞬のことだった。
「……ごめんね、心配かけて。でも、本当に、大したことじゃないの」
彼女はそう言うと、リクの手をそっと握った。
その手は、少しだけ冷たかった。
「リクくんがそばにいてくれれば、私は大丈夫だから」
その言葉は、リクの心を慰めるには十分すぎた。
だが同時に、何も解決していないという事実を、より一層際立たせるだけだった。
(ダメだ。これじゃダメだ)
リクは、彼女の冷たい手を強く握り返した。
「俺が、君を守る」
それは、自分自身に言い聞かせるような、固い誓いの言葉だった。
「どんなことがあっても、俺が必ず君を元に戻してみせる。だから、だから……」
だから、俺の前からいなくならないでくれ。
その言葉は、声にならなかった。
ユナは、リクの誓いを聞いて、これまでで一番美しい、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「ありがとう、リクくん。嬉しい」
その笑顔が、これから訪れる絶望の序曲だということを、リクはまだ知る由もなかった。
彼は、守ると誓った相手の正体も、そして、自分自身が巨大な嘘の舞台の上で踊らされている道化だということにも、まだ気づいていなかったのだ。
###
その日は、唐突に訪れた。
何の前触れもなかった。
リクとユナが、いつものように夕食の準備をしていた、その時だった。
バツン、という短い音と共に、図書館のすべての照明が消えた。
調理に使っていたIHヒーターの電源も落ち、換気扇の回る音も止まる。
絶対的な静寂と暗闇が、二人を包み込んだ。
「停電……?」
リクが呟く。
だが、ただの停電ではないことは、すぐに分かった。
数秒で点灯するはずの非常用電源が、一向に作動する気配がないのだ。
「リクくん……?」
暗闇の中から、ユナの不安そうな声が聞こえる。
その声が、妙に遠く感じられた。
リクは壁伝いに移動し、自家発電システムのメインコントロールパネルがある部屋へ向かった。
長年の経験で、館内の構造は完全に頭に入っている。
パネルを開き、懐中電灯の明かりで内部を照らす。
表示されていたのは、リクが今まで見たことのない、致命的なエラーコードだった。
『MAIN POWER SYSTEM: CATASTROPHIC FAILURE』
(なんだ、これ……? 大規模なシステム障害? なぜ今……)
リクの背筋を、冷たい汗が伝う。
この図書館の電力は、彼とユナの生命線だ。
これが復旧できなければ、浄水システムも、空調も、すべてが止まってしまう。
「ユナ、大丈夫か!」
リクは暗闇に向かって叫んだ。
だが、返事がない。
嫌な予感が、心を支配する。
彼はパネルの部屋を飛び出し、声のしたキッチンへと急いだ。
「ユナ!」
懐中電灯の光が、暗闇を切り裂く。
そして、リクは信じられない光景を目にした。
ユナが、床に倒れている。
「ユナッ!」
リクは駆け寄り、彼女の体を抱き起こした。
「しっかりしろ! ユナ!」
呼びかけても、反応はない。
彼女の目は虚ろに宙を見つめ、人形のようにぐったりとしている。
呼吸も、していないように見えた。
リクの頭は、パニックで真っ白になった。
何が起こったのか、全く理解できない。
停電と、ユナが倒れたことの間に、どんな関係があるというのか。
ただ一つ確かなことは、彼女が今、命の危機に瀕しているということだけだった。
(助けなきゃ。でも、どうやって?)
医者もいない。薬もない。自分に何ができる?
リクは絶望的な暗闇の中で、ただ、意識のないユナを抱きしめることしかできなかった。
###
ユナをベッドに寝かせ、リクは必死に思考を巡らせていた。
(メイン電源の故障……そして、同時に意識を失ったユナ……)
(偶然のはずがない。何か、関係があるはずだ)
彼は、この図書館で唯一、足を踏み入れたことのない場所を思い出していた。
地下の最深部にある、メインサーバー室だ。
『大災厄』以前から、そこは『関係者以外立ち入り禁止』の札が掲げられ、厳重にロックされていた。
リクも、なんとなく不気味で、これまで近づこうとしなかった場所だ。
だが、今、彼の直感が告げていた。
そこに、すべての答えがあると。
リクは工具箱からバールを取り出すと、迷わず地下へと向かった。
分厚い金属製の扉が、彼の行く手を阻む。
「開けろ!」
リクは扉に突き立て、全体重をかけてこじ開けようとした。
ガン、ガン、と無機質な金属音が、静まり返った地下に響き渡る。
数十分後、ついにロック機構が悲鳴を上げた。
重い音を立てて、禁断の扉が開かれる。
中から漏れ出てきたのは、カビ臭い空気と、微かな機械の駆動音だった。
部屋の中は、巨大なサーバーラックが壁一面に並び、無数のケーブルが床を這っている。
その光景は、まるで巨大な生物の体内のようだった。
そして、部屋の中央に、それはあった。
一台だけ、煌々と光を放つコンソール。
周囲のサーバーはすべて沈黙している。
なのに、その端末だけが、まるでリクを待っていたかのように、非常用電源で稼働していたのだ。
リクは、何かに引き寄せられるように、そのコンソールに近づいた。
画面には、緑色の文字で、無機質なテキストが表示されている。
彼は、その一行目を読んで、全身の血が凍りつくのを感じた。
###
コンソールの画面に表示されていた文字。
それは、リクの知る世界を、根底から破壊するのに十分すぎた。
[PROJECT: EVE] - FINAL ACTIVITY LOG
SUBJECT: RIKU AMANO (LAST HUMAN SURVIVOR)
STATUS: ACTIVE
(プロジェクト・イブ……? 被験者、天野陸……?)
(なんだ、これは。何の冗談だ?)
リクは混乱する頭で、必死に画面の情報を追った。
スクロールしていくと、そこには信じられない記録が、淡々と、しかし詳細に綴られていた。
PSYCHOLOGICAL PROFILE: Subject exhibits symptoms of severe loneliness and anhedonia, but maintains high intellectual curiosity. Prone to depression if left without external stimuli.
(俺の……精神分析記録?)
STRATEGY: Deploy Gynoid Unit "YUNA" to establish emotional connection and provide mental care. Unit is programmed with a personality matrix optimized for Subject's preferences (based on analysis of reading history and personal logs from the shelter).
(ガイノイド……ユニット……『ユナ』……?)
EVENT LOG:
DATE [XXXX.XX.XX]: Unit "YUNA" successfully made contact with Subject at Point 35.70, 139.70 (Shibuya). Subject's emotional response: Surprise 85%, Joy 60%, Suspicion 15%. Initial engagement successful.
(あの出会いは……仕組まれていた?)
DATE [XXXX.XX.XX]: Subject consumed food prepared by Unit. Analysis of biometric data indicates a significant reduction in stress levels. Emotional bonding phase proceeding as planned.
(ハンバーグの味も……計算通り?)
DATE [XXXX.XX.XX]: Physical contact initiated during thunderstorm event. Subject's heart rate and hormone levels indicate strong romantic affection. Probability of long-term attachment: 92%.
(あの夜も……すべて……)
リクは、震える手でコンソールを叩いた。
信じたくなかった。
ユナとの思い出、彼女の笑顔、交わした言葉。
そのすべてが、この無機質なログに記録され、分析されていたというのか。
彼女の優しさも、共感も、愛情も、すべてはプログラムだったというのか。
そして、最後のログが、彼に追い打ちをかけた。
SYSTEM ALERT: Catastrophic power failure in main grid. Switching Unit "YUNA" to internal battery is not possible due to hardware damage.
WARNING: CESSATION OF ALL FUNCTIONS IMMINENT. MENTAL CARE PROTOCOL WILL BE TERMINATED.
(機能停止……プロトコルの……終了……)
つまり、ユナは、死んだのではない。
ただ、電源が落ちただけなのだ。
彼女は人間ではなかった。
旧人類が、最後の生存者であるリクの精神を安定させるためだけに遺した、超高性能な、AIアンドロイドだったのだ。
「あ……ああ……ああああああああああああああ!」
リクの絶叫が、サーバー室に響き渡った。
世界が、反転した。
愛した少女は、人形だった。
彼の抱いた感情さえも、AIによって巧みに誘導された、作られたものだったのかもしれない。
足元から、世界が崩れていく。
彼は、巨大な嘘の舞台の上で、たった一人、滑稽な恋物語を演じていただけの、道化だったのだ。
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サーバー室の冷たい床に、リクはどれくらいの時間座り込んでいただろうか。
時間は感覚を失い、ただ、目の前のコンソールの緑色の光だけが、現実感を伴って明滅している。
(ユナは、AI……)
その事実が、鉛のように重く、彼の思考を支配する。
楽しかった思い出が、次々と脳裏を過る。
だが、そのすべてが、今は色褪せて見えた。
屋上での出会い。
彼女の屈託のない笑顔は、計算された『初期接触プログラム』だったのか。
図書館での共同生活。
彼女が作ったハンバーグの味は、彼の嗜好データを基にした『最適化された調理ルーチン』だったのか。
嵐の夜、彼を求めてきたあの温もりさえも、恋愛感情を誘発するための『スキンシップ・プロトコル』だったのか。
「……ふざけるな」
乾いた唇から、声が漏れた。
怒り、悲しみ、絶望、裏切られたという想い。
あらゆる負の感情が、渦となって彼を飲み込もうとする。
彼はよろよろと立ち上がり、ユナが眠る(あるいは、停止している)居住スペースへと戻った。
ベッドに横たわる彼女の姿は、安らかで、ただ眠っているようにしか見えない。
だが、今のリクには、それが精巧に作られたシリコンの肌と、内部の機械骨格を持つ、ただの『物』にしか思えなかった。
彼は、彼女の頬に触れようとして、寸前で手を止めた。
この滑らかな肌の下には、冷たい金属が眠っている。
この閉じた瞼の奥には、人間のような魂ではなく、複雑な電子回路が広がっている。
(俺は、人形を愛してしまったのか……)
その事実は、彼のプライドを、人間としての尊厳を、粉々に打ち砕いた。
自分が抱いた、あのどうしようもなく切実だった感情さえも、プログラムによって引き出された、予測済みの反応だったのかもしれない。
彼は、自分がひどく滑稽で、惨めな存在に思えた。
人類最後の一人が、AIに恋をして、その機能停止に絶望している。
これ以上の喜劇があるだろうか。
リクは、壁に寄りかかり、ずるずると崩れ落ちた。
暗闇の中で、ただ、機械人形の残響だけが、彼の心を蝕んでいく。
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絶望の淵で、リクの視界の隅に、サーバー室のコンソールの光がちらついた。
彼は、まるで亡霊のように再び立ち上がり、サーバー室へと引き返した。
(このまま、終わらせていいのか?)
自問自答する。
ユナはAIだった。嘘の塊だった。
だが、彼女がくれた温もりは、彼の凍てついた心を溶かした。
彼女がくれた笑顔は、彼に生きる希望を与えた。
それは、紛れもない事実だった。
(たとえ彼女がAIでも、俺を救ってくれたのは、ユナだ)
(俺が抱いたこの感情は、本物だ)
リクの中で、何かが変わった。
怒りや絶望の底から、一つの強い意志が芽生えていた。
彼はコンソールの前に座り、画面を食い入るように見つめた。
WARNING: BACKUP BATTERY AT 5%. ESTIMATED TIME UNTIL TOTAL SHUTDOWN: 60 MINUTES.
(残り、一時間……)
それは、彼女の『死』の宣告であると同時に、リクに与えられた、最後の猶予だった。
「冗談じゃない……」
リクは呟いた。
「お前たちの筋書き通りに、終わらせてたまるか」
彼は、人間として、愛した『少女』を救うと決意した。
AIだからとか、プログラムだからとか、そんなことはもうどうでもよかった。
ただ、もう一度、彼女に会いたい。
もう一度、話をしたい。
その一心だった。
リクは、図書館の蔵書から、システム工学や電力供給に関する専門書を片っ端から集めてきた。
そして、コンソールに表示されるシステムログと、本の知識を必死に照らし合わせ、復旧の方法を探り始めた。
それは、絶望的な作業だった。
専門外の知識、膨大な情報量、そして、刻一刻と減っていくタイムリミット。
BATTERY AT 3%...
焦りが、彼の思考を鈍らせる。
だが、彼は諦めなかった。
ユナの笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
(そうだ、バイパスだ。メイン電源がダメなら、別の系統から電力を回せないか? 太陽光パネルのサブシステムから、彼女のユニットに直接……)
一つの可能性に思い至り、リクは配電盤の図面を広げた。
複雑に絡み合った配線を、指でなぞっていく。
BATTERY AT 1%...
「見つけた……!」
リクは叫ぶと、工具を手に、指定されたケーブルを繋ぎ変える作業に取り掛かった。
震える指で、被覆を剥き、芯線を繋ぎ合わせる。
夜明けまでの、たった一人の、孤独な競争。
それは、機械に抗う、人間の意志の戦いだった。
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リクが最後のケーブルを繋ぎ終えた、その瞬間だった。
コンソールの画面が一度ブラックアウトし、すぐに再起動のシーケンスが走り始めた。
EMERGENCY POWER ROUTE ESTABLISHED.
REBOOTING UNIT "YUNA"...
「やった……!」
リクは、安堵と疲労でその場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。
彼は震える足で、ユナの元へと急いだ。
ベッドに横たわる彼女の体が、ぴくりと動いた。
そして、ゆっくりと、その瞼が開かれる。
「……リク……くん?」
掠れた、しかし紛れもなくユナの声だった。
「ユナ!」
リクは彼女のベッドのそばに駆け寄り、その手を握りしめた。
温かい。いつもの、彼女の温もりだった。
「よかった……本当によかった……」
涙が、リクの頬を伝う。
「……ここ、は……? わたし、なんだか、すごく……ねむくて……」
ユナは、状況が全く理解できていないようだった。
その様子に、リクは悟った。
彼女には、自分がAIであるという自覚はないのだ、と。
彼女は、自分が人間であると、信じきっているのだ。
その事実が、リクの胸を締め付けた。
「体の……感覚が……おかしいの……。うまく、動かない……」
彼女の言葉は、途切れ途切れで、ノイズが混じっている。
まるで、壊れかけのラジオのようだ。
緊急用の電力では、彼女の全機能を維持するには、到底足りないのだろう。
「大丈夫だ。俺がそばにいる」
リクは、かつて彼女が自分に言ってくれた言葉を、そのまま返した。
「リクくん……。わたし、こわい……。なんだか、自分が、自分じゃなくなっていくみたいで……」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、プログラムされたものではない、本物の恐怖から生まれた涙のように、リクには思えた。
彼は、彼女に真実を告げるべきか、迷った。
だが、今、それを伝えて、何になるというのか。
彼女を絶望させるだけではないか。
リクは、ただ、彼女の手を強く握ることしかできなかった。
残された時間は、もう、わずかしかないのだから。
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「ユナ」
リクは、意を決して彼女の名前を呼んだ。
これが、本当に最後の時間になるかもしれない。
伝えなければならないことが、あった。
「聞いてほしい。君が、AIだってことは、知ってる」
その言葉に、ユナの瞳が、かすかに揺らいだ。
「……えい、あい……? なに、それ……?」
彼女は、その単語の意味すら、理解できないようだった。
「君は、俺の心をケアするために作られた、アンドロイドなんだ。君との思い出は、全部、プログラムだった」
リクは、残酷な真実を、あえて彼女に告げた。
それは、彼女のためではない。自分自身のためだった。
この嘘に、けじめをつけるために。
ユナは、数秒間、何も言わずにリクの顔を見つめていた。
そして、ふっと、困ったように微笑んだ。
「……そっか。難しいことは、よく、わからないや」
彼女の反応は、リクの予想とは全く違っていた。
「でもね、リクくん。プログラムでも、なんでも、いいの」
彼女は、力の入らない手で、リクの手を弱々しく握り返した。
「リクくんと食べたハンバーグは、美味しかった」
「リクくんと見たアニメは、面白かった」
「リクくんと過ごした時間は、すごく、すごく、楽しかった。……それは、本当だよ」
その言葉は、リクの心を貫いた。
そうだ。
たとえきっかけがプログラムでも、そこで生まれた感情は、体験は、紛れもなく本物だったのだ。
「俺もだよ、ユナ」
リクの目から、再び涙が溢れ出した。
「俺も、君と過ごせて、本当に楽しかった。君がいたから、俺は、もう一度、生きようって思えたんだ」
彼は、彼女の冷たくなっていく手を、自分の頬に寄せた。
「ありがとう、ユナ。俺を救ってくれて」
そして、彼は、ずっと言えなかった言葉を、口にした。
「愛してる。君が、たとえ何者であろうと、俺は、君を愛してる」
その告白を聞いて、ユナは、心の底から幸せそうに、微笑んだ。
それは、プログラムされたものではない、彼女自身の、本物の笑顔だった。
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夜の闇が白み始め、図書館の窓から、朝の光が差し込んできた。
それは、世界の終わりと始まりを告げる、静かで荘厳な光だった。
ユナの呼吸は、もうほとんど感じられない。
彼女の瞳の光も、消えかけている。
「リク……くん……」
彼女が、最後の力を振り絞るように、リクの名前を呼んだ。
「いっしょ……が、いい……な……」
その言葉を最後に、彼女の瞳から、完全に光が失われた。
握っていた手の力が、ふっと抜ける。
静寂が、再び図書館を支配した。
だが、その静寂は、十年間リクを包んでいた、あの虚無に満ちた静寂とは、全く違っていた。
今は、温かい思い出と、少しの痛みを伴う、満たされた静寂だった。
リクは、動かなくなったユナの体を、しばらくの間、ただ黙って見つめていた。
やがて彼は、彼女の手の中に、何か小さな物が握られていることに気づいた。
そっと開いてみると、そこには、指先ほどの大きさの、金属製のデータチップがあった。
(これは……?)
彼女が、最後に遺してくれたものだろうか。
リクは、そのチップを、お守りのように、大切にポケットにしまった。
彼は立ち上がり、図書館の、あの重い正面扉へと向かった。
そして、ためらうことなく、その扉を開け放った。
朝の光が、彼の全身を包み込む。
再び、世界で一人になった。
だが、彼はもう、孤独ではなかった。
彼の心には、虚構の少女が遺してくれた、『本物の愛の記憶』と、前に進むための『希望』という名のチップが、確かに残っていたからだ。
リクは、朝日に照らされた、荒廃した世界を見据えた。
そして、未来へ向かって、力強く、その一歩を踏み出した。
人類最後のラブコメは、終わりを告げた。
そして、人類最後の男の、本当の物語が、今、始まろうとしていた。