水道 その一
「俺にとってマンションは集合住宅じゃない。ダンジョンだ」
葉月総は初めて正社員として就職した会社の先輩に、そう言われたことをはっきりと覚えている。皮肉めいた、それでもなかなか面白いダジャレだと思ったこともあるが、それ以上に先輩の目が真剣だったからだ。
大学を中退し、フリーターを経て初めて就職した会社。そこは、マンションの管理会社だった。
最初は、なんだか難しそうな会社だなと考えていた。メンテナンス? しかもビル? おいおい、建物メンテナンスなんてどうやんだよ。どっかの姉さんの歯に任せときゃいいんじゃねーのか? などと考えていた。
先輩はこうも続けた。
「この仕事をやってれば、必ず人生に有益だ。不動産、住宅、対人などの知識が身につけられるし、なによりも図太くなれる」
フリーターを三年やり、そのうち一年くらいはほぼニートだった総に、これ以上太い神経などつけたらメタボになってしまう。
そういうと、先輩はようやく笑った。
「なぁに。一年くらいやれば、嫌でも身につくさ」
疲れた声でそう言って、先輩は仕事を教えてくれた。
二ヶ月ほど同行し、三ヶ月目で一部エリアの担当を任されるようになった頃、その先輩は辞めてしまった。
総は思う。
やっぱ俺も辞めときゃよかったかも、と。
――――――――――◇――――――――――
音を立てる暖房。湯気を立てるマグカップ。無機質なデスクに、山のような書類とファイル。顔をしかめたままデスクに向かう作業服の男たち。
よくよくある、普通のオフィス。
ここは、株式会社田上ビルメンテナンス。通称TBM(社章にはそうある)。マンション管理の会社だ。
このTBMには、二年目となる社員、葉月が居た。
歳は二十四。前述の通り、フリーターを経てこの会社に就職した、幸運な男だ。よく仕事の愚痴を言うが、この不景気に就職出来ただけありがたいと思えという話である。
「うるせぇなぁ。仕事に集中させろよ」
事務員さんが入れてくれたコーヒーをすすりながら、葉月。
いい加減空気に向かって喋るのをやめたらどうだ?
「おめぇがうるさいんだろ。この後時間指定でオーナーさん家行かなきゃなんないんだ。それまでに事務終わらせたいんだよ。頼むから静かにしてくれ」
空気に黙れとは、よく言う。
彼は「うっせ」とだけつぶやくと、再びボールペンを握った。なにやら見積書を作っているようだ。
ふと時計を見る。
九時半を回ったのを確認すると、葉月はため息をついた。
そろそろ電話が本格化し始めるころだからだ。仕事の内容上、どうしても電話は入居者からのクレームが多い。それをどうこう言うつもりは無いが、出来れば無いほうがいい。クレームなんて言う方も言われる方も気分のいいものではないのだから。お金がかかることもあるし。
空気に対して「全くだよ」とつぶやき、葉月は電卓を打ち始めた。
その時である。
プルルルルルル……。
他の誰もは電話をとらない。タバコ中、電話中、離れているなど、電話が取れるのは葉月だけだった。
ふぅ。
がちゃっ。
「あり――」
「おまどうなっとぉだ!」
キーン。
ペンギン村でよく聞かれる効果音が、葉月の耳を貫いた。
冗談でも比喩でもなく、耳から受話器を離して、麻痺が収まるのを少し待つ。
大げさに思えるかも知れないが、一度試して欲しい。本当に痛いから。
そして頭を貫いた言葉。
おそらく「おま」というのは、勢いあまって「お前」が変化したものだろう。「どぅ」はそのまま「どう」だろうし、「なっとぉ」は「納豆」……もとい、「なっとる」だろう。全て合わせて整理すると、「お前、どうなっているんだ」となる。
言葉の意味はもとい。問題は言い方である。ここまで勢いで喋るということは、それだけ相手は急いているということだ。それはつまり、(少なくとも相手にとっては)重大な要件で、有りたいていに言えば、クレームである。
しかも場合によってはトラブルへも発展するクレーム。
こういった電話は、しょっちゅうではないが、ある事はある。緊張しながら、対応を続けた。
「え、あ、……はい、どちらさまですか?」
「どちらさまじゃねぇわ! 水が出んやろうが!」
「え、いつごろからですか?」
「いいから早く来い! 今すぐ!」
がちゃん!
再び電話の向こうから葉月の耳は攻撃された。つんざく、とはこのことである。
耳を抑えながら、素早くメモをとる。これから相手先へ行かなくてはならないからだ。
だがどうやって?
相手は名前も電話番号も言わなかった。せめて名前とマンションの名前だけでも教えてもらわねばならない。
が、何も言わずに、要件だけで切られてしまった。
どうすんの?
「そういう時にはこれだ」
と、指差すは電話機のモニター。
なるほど。ナンバー・ディスプレイ。
「そ、ゆ、こと~」
と歌いながらメモを取り、すかさず電話をかけ直す。
が。
「お客様の都合により、お電話をおつなぎすることが出来ません」
……どうやらアドレスに入っている番号以外は着信拒否にしているようだ。
「やれやれ……」
葉月は重い腰を上げた。時間的に見て、事務仕事は残業になるようだ。定時に帰れるなど思ってもいないが。
電話番号を書いたメモを片手に、入居者の契約書ファイルへ向かう。
まずはマンションと人間の判断から始めなくてはならない。
――――――――――◇――――――――――
葉月は様々な道具が搭載されたワゴン車に乗り込み、エンジンをかけた。
あれから三十分。色々な推理と、残された電話番号だけを頼りに、保管してある契約書をあさりにあさり、そしてついに入居者の特定に至った。しかもその間、幸運にも相手から電話は無い状態である。通常ならば、五分後くらいにはかかってくるものだが。
「つーか水が出ないってどうなんだ? 俺、入居前にチェックしたけど、電気もガスも水も全部大丈夫だったぞ」
ホントに全部みたのかよ。
「見たっつの。何度も見たし、チェックリストでもサイン入ってたっつの」
ぶつくさと口を尖らせながら、葉月は車を進ませた。
水が出ない、という状況はいくつかあるが、よく考えられるのが、止水栓へのイタズラによる閉鎖。もしくは、マンションにある給水ポンプの故障か、貯水槽の故障である。どちらにしても、ライフラインに関わる事態だ。早急に手を打たねばならない。
「特に水関係はさ。トラブルになり易いから。普段からメンテしてんだけどねー」
メンテって?
「定期点検だよ。マンションに住んでると、ニ、三年に一回くらい断水のお知らせ来ない? それ、たぶんポンプか受水槽のメンテナンスだよ」
マンションの給水方法というのは色々なタイプがあるのだが、今最も一般的な方法は
直接水圧式
ポンプ式
高架水槽式
のいずれかである。
貯水槽がどこにあるかでも少し条件が代わってくるのだが、二階までの建築物(低層物件と呼ばれる)であれば、直接水圧式で給水している可能性が高い。ようは、水道局が送っている水圧で、そのまま最上階まで登るような状態だということだ。何も触っておらず、水の道だけ作っているのだ。
次にポンプ式。今回の物件はこの方法であることが、すでにわかっている。これは、三階以上ある物件に多く、そういった物件は水道局からの水圧だけでは最上階まで届かないことが多い。そのため、入居者の誰かが水を使用した瞬間に作動し、水圧を追加するポンプをマンションのどこかに設置していることがある。マンションのどこかに受水槽が設置してあれば、まずこの方法だ。
次に高架水槽式。これは、マンションの屋上に貯水槽を設置し、水道局からの水圧で上で貯水する。そして、そのまま重力で水を配水する形になる。今ではとある事情であまり見られない方法だ。
水は、最も重要なライフラインだ。災害があれば、いの一番に復旧を急ぐものだ。
それ故に連絡が多い案件でもある。
「受水槽とかポンプに限らす、蛇口からぽたぽた水漏れとか、トイレの水が流れっぱだとか。大小様々なんだよね」
そういう時はどうするものなの?
「基本、俺たちが見に行く。そんで、直せたら直す」
直せる……ものなんだ?
「パッキンの交換くらいなら工具があれば誰でも出来るよ。あとはやっぱ、階下漏水とかになると、業者さん呼ぶしかないね」
難しいねぇ……。
「んなことないよ。やろうとすればお前にだって出来るって」
でも、ドライバーすら持てないよ?
「……空気にゃ重すぎたか」
上手いこと言ったつもりか?
葉月は頭をガリガリと掻き、アクセルを踏む足を強めた。
――――――――――◇――――――――――
とあるマンションの二階。一番階段よりの部屋。
現地に着き、吐く息を白めながら、チャイムを押す。
ドタドタという音が中から響き、勢い良く扉が開かれると、そこには真っ赤な顔をした入居者たちがいた。日曜日のためか、家族四人がそろっており、全員が全員。葉月をにらむ形に。
「おまたせいた――」
葉月が口を開いた瞬間。
「お前らどういう管理をしとんのじゃ? あぁ?」
怒号。
顔を真赤にした一家の代表が叫ぶ。まるっきりケンカ腰だ。恐れをなした葉月は逃げ出した……い所をこらえる。がんばれ。
「大変申し訳ありません。今すぐ原因を調査致します」
「当たり前じゃぼけが。はよせんか。ほれ」
五十を過ぎたくらいの男は、足をパタパタとしながらタバコに火を付けた。苛立ちをかくさない態度。無論、中に通してくれるつもりはないらしい。
葉月はタバコの煙に負けず、男に話しかける。
「すみません。お部屋にお邪魔してもよろしいですか?」
まずは、現状のチェック。アクシデントの基本だ。
しかし理解は難しかった。
「ああ? なんでじゃ?」
「一度、今の状態を見ておかないと判断が難しいことがありますので……」
「おま俺が嘘こいとる言いよんかっ!」
がつん!
近くにあった玄関ドアが蹴られる。鉄で出来た扉はしっかりと靴跡が残り、上部に着いたドアクローザーはぎし、と音をたてた。
おお、怖い。
「た、大変失礼致しました……。では、現状で拝見させて頂きます」
正確には、「どういった状態なのか分からないという自分の」現状で、だけどね。
「ちっと黙ってなって。遊んでる場合じゃねえの、分かるだろ?」
葉月は階段を降りながら宙を睨む。おお、怖い。
クレームで大切なのは、一刻も早い復旧と、アフターケアだ。
迷惑がかかった。それが例え、自然現象だったとしても、怒りや負担の矛先をどこかに向けねばならない。
よく見てみれば、このマンションを管理しているという「よく分からない」会社がある。
格好の餌食ってヤツだね。
「ま、そういう仕事だしね」
葉月はチェックすべき場所まで駆け足した。
まずは給水ポンプとタンク。近くの部屋を訪ね、水の調子を伺う。まったく問題ない。
次に部屋の前まで戻り、止水栓をチェック。全開の状態だ。問題ない。
そこでタバコを廊下に捨てた男が声をかけた。ポイ捨て禁止!
「お前らの管理が悪いから水が出んのとちゃうんか?」
管理が悪いと水が出ない。
果たして、どういう意味なのだろうか?
疑問は顔に出さず、葉月は言い訳する。
「そういうことではないと思うんですが……」
「じゃあどういうことじゃ! 説明せんかい!」
まずい。原因不明だ。意味がまったく分からない。この間入居前チェックをした時はちゃんと水が出たのに……。
ん?
「お客様……」
「あぁ?」
「本日ご入居かと記憶しておりますが……そうでよろしかったですか?」
「おま――!」
ぎり、という歯ぎしりの音がこちらまで聞こえてきた。
「だから怒っとんだろうが! 入居初日からお前らの怠慢で不備があんのやぞ!? 分かっとんのか!?」
今にも手を出してきそうだった。
他の家族もまた、こちらへ怒りの目を向けている。
はぁ。なるほどなぁ。こいつはなかなか、お前も大変だよ。
ホント。最初に聞くべきだった。と後悔しながら、葉月は切り出した。
「すいません。水道局への開栓手続きは取られましたか?」
――――――――――◇――――――――――
その後、旦那さんは無言で奥に引っ込んでいき、奥さんはひたすら謝まってきた。そしてなにやらお菓子の詰め合わせを押し付けられ、どうにか退散する頃には、着いた頃からすでに三十分が経っていた。
そのお菓子、絶対引っ越し挨拶ギフトだよね。
「うん。袋に高島屋って書いてある」
わーお。中身は?
「んー……。水ようかんセット……? こんな冬にか」
なかなかセンスの光る連中だねぇ。
「営業所のみんなで食べるさ」
助手席に紙袋を放り、エンジンをかける。バックミラーで髪型を直し、ギアを入れた。
どうやって報告すんの?
「報告は、ありのまま。だよ」
こんなくだらない内容なのに?
「生活の中の間違いなんて、大概こんなもんだろ」
そうかもね。
「んじゃあー、帰るか。帰ったらちょっと書類仕事して、大家さん家行かなきゃだし」
お疲れ様。
そう伝えると、葉月は少し笑った。
本日も平和である。