5.契約をしましょう
オリヴァーの話を聞くため、二人は研究室に置かれたソファに向かい合って座った。
そして、彼は変わらず真剣な表情でヴィオラを捉えると、予想外の提案をしてきたのだ。
「僕と契約結婚しませんか、先生」
「……契約結婚?」
ヴィオラが目を眇めて聞き返すと、オリヴァーはひとつ頷いてから話を続ける。
「先生はご両親から結婚の催促を再三受けて、随分と困っていらっしゃいましたよね。実は、僕も似たような状況でして」
「なるほど。似た者同士、形だけ結婚すれば親の目を欺ける、と」
「はい」
「却下だ。帰れ」
ヴィオラが険しい声でピシャリと断った。しかし、彼は随分と落ち着き払った様子だ。まるで、こちらの反応を予想していたかのようにも見える。
そして、オリヴァーは少し表情を和らげると、こう尋ねてきた。
「理由を伺っても?」
「結婚に付随する諸々の手続きが面倒だ。縁談を断る方が早い」
「手続き関連は全て僕が行いますのでご安心を。なんなら結婚式も不要で構いません。先生は、ただ書面にサインしていただくだけで結構ですので」
その返答にヴィオラは眉を顰める。あまりにも都合の良すぎる話だ。こういう美味しい話には、大抵裏がある。
「もし仮に結婚したとしても、ランドル男爵家夫人としての役割を果たすつもりは一切ないぞ?」
「それで構いません。その辺りは全て僕がこなします」
それからいくつか質問を繰り返したが、本当にこちらの利になる話ばかりで、ヴィオラはますます訝しんだ。
「わからんな。どうしてそこまでする? それに、相手が私である必要性がない」
「契約結婚なんて突飛な話を受けてくれる人、他にいると思いますか?」
「…………それもそうだな」
彼の言葉に、妙に納得してしまった自分がいた。
契約結婚など、そこに愛が生まれる可能性はこれっぽっちもないし、さらにはいつ離縁という話になるのかもわからない。そんな不安定な状況、普通の令嬢ならお断りだろう。
その点、ヴィオラは手に職を持っているので離縁しても全く困らないし、こんな男勝りな女が愛を求めてくるなんて思わないだろう。オリヴァーにとって、実に都合の良い相手というわけだ。
しかしヴィオラは、彼の美しい顔を伺いながら、もったいないなと思ってしまう。
「君ほどの美丈夫なら、寄ってくる女性などいくらでもいるだろうに」
すると、オリヴァーはにこりと笑ってよくわからないことを言ってきた。
「あなたでないと、意味がないのですよ」
「?」
発言の意味が理解できず首を傾げていると、彼はまた真面目な表情に戻り話を続けた。
「契約期間は最低一年。それ以降は毎年延長するか二人で協議する、という形でいかがでしょう」
オリヴァーの提案は、ヴィオラにとっては美味しすぎる話だった。
(さて、どうするか……)
承諾した時と断った時のメリット、デメリットを脳内で天秤にかける。そうしてしばらく熟考した後、天秤が片方に傾いた。
「わかった。提案を飲もう」
地位としては格下の男爵家だが、この際両親は何も言ってくるまい。行き遅れ娘が結婚しただけで手放しに喜ぶだろう。
男爵家夫人としての役割を全く果たさず、既婚という名目だけ得られるのは、ヴィオラにとってこの上なく価値のあるものだった。うるさい両親と関わらなくて済むようになるのは何ともありがたい。
それからヴィオラは、結婚するに当たってどうしても譲れない条件を提示した。
「ただし、ひとつだけ約束してくれ。絶対に私の研究の邪魔はしない、と」
「もちろんです」
オリヴァーはその条件に笑顔で即答してくれた。そして、結婚の契約書やら婚姻に必要な書類やらをこちらに差し出してくる。随分と用意周到だ。ヴィオラがこの提案に乗ってくると最初から確信していたのだろう。
「では、こちらにサインをお願いします」
「ああ」
時計をチラリと見遣ると、約束の五分はとっくに過ぎていた。すると、ヴィオラの視線を汲み取ったオリヴァーが申し訳なさそうな顔になる。
「すみません。結局お時間をとらせてしまって」
「いや。話が話だから仕方ない。むしろ、良い契約を持ってきてくれて感謝している」
オリヴァーに気を遣わせないよう微笑を浮かべてそう言うと、彼も表情を和らげた。
「近日中に先生のご両親に挨拶に伺います。その後に婚姻の手続きを済ませて来ますので」
「わかった。両親には話を通しておく。君のご両親にも挨拶しないとな」
ヴィオラの発言に、オリヴァーは心底意外そうな表情を浮かべた。
「挨拶へは一人で行きますよ? 僕の両親への挨拶も、別になくて構いません。先生、お忙しいでしょう?」
彼の言葉を聞いたヴィオラは思わず眉根を寄せた。そんな礼儀のなっていない人間だと思われているのは心外だ。
「結婚するのに挨拶しないのは流石に失礼だろう。それくらいの時間は作れる」
すると、オリヴァーはくすりと笑みをこぼした。
「先生って、研究一辺倒に見えて、意外とちゃんとしてますよね」
「……失礼だぞ、君」
ヴィオラが少し睨みつけると、彼は「すみません」と言いつつしばらくの間笑顔を浮かべたままだった。
その後、二人は今後の予定を話し合い、まず論文執筆が落ち着いてからヴィオラの実家に行き、後日オリヴァーの実家へ挨拶に行くことになった。
「ひとつ、厄介な問題……というか、人間がいてな……」
ヴィオラが口ごもりながらそう言うと、オリヴァーは思い当たる人物がいたようで、すぐにこう返してきた。
「ああ、妹君ですか?」
「知ってるのか?」
意外に思い問い返すと、彼は苦笑して答えた。
「ええ。あの話は有名ですので」
あの話、というのは、妹のせいで学生たちがこぞって研究室を去っていったことだろうか。それとも、キャロルがばら撒いた悪口そのものを指しているのだろうか。どちらにせよ、妹のことを知っているということは、こちらに関する悪評は耳にしているのだろう。
その考えに思い至り、ヴィオラは少し自嘲気味に言った。
「君は私の良くない噂を聞いた上でこの契約結婚を持ちかけてきたのか。やはり相当な物好きだな」
「あんな噂、信じるに値しませんよ」
オリヴァーにそう一蹴され、ヴィオラは少し驚いてしまった。
キャロルは男に媚びるのが特段上手い。今まで周囲の男で彼女に騙されなかった奴はいなかったのだが、彼は人の嘘を見抜くのに相当長けているのかもしれない。
すると、オリヴァーは穏やかに微笑んでこんな言葉を言ってきた。
「妹君の件はご心配なく。彼女から何を言われても信じませんし、それに、僕のタイプではないので」
「そうか……」
ヴィオラは笑顔を返したつもりだったが、どうしても表情に陰りが出てしまった。元婚約者であるジョセフも、最初は似たようなことを言っていたからだ。
オリヴァーに今の顔を見られたくなくて俯いていると、彼がその低く美しい声で呼びかけてくる。
「先生」
その声があまりにも愛情に満ちたものに聞こえ、ヴィオラは驚いて顔を上げる。すると、彼の美しい金色の瞳と目が合った。
「妹君のせいであなたから離れていくような真似は絶対にしません。だから、安心してください」
まるで心の内を読まれたような言葉だった。オリヴァーは今までに見せたことがないほど優しくて慈しみに溢れた表情をしている。そんな彼に、ヴィオラは思わず見惚れてしまった。
「ああ……ありがとう……」
呆気に取られてしまったヴィオラは、なんとか一言だけ感謝の言葉を返したのだった。