30.夫婦の証
翌朝目を覚ました時、ヴィオラは思わず息を呑んだ。目の前にとんでもなく顔立ちの整った男の顔があったからだ。オリヴァーは静かな寝息を立てながら、緩やかにヴィオラのことを抱きしめている。
(これは心臓に悪い……)
そう思って彼の腕の中からソロリと抜け出そうとしたが、今起きたのか狸寝入りをしていたのか、オリヴァーによって引き戻されてしまった。後ろから抱きつかれる形になり、彼は案の定ヴィオラの髪に顔を埋めて深呼吸をしている。
「おはようございます、ヴィオラ」
「おはよう、オリヴァー。離してもらうことはできないか?」
「まだ起きる時間まで少しあります。もうちょっとこのままうとうとしていましょう?」
オリヴァーの甘えるような声でそう言われ、ヴィオラは渋々「いいよ」と承諾した。
今までこの手のお願いを断れたことがあっただろうか。ヴィオラは自分が彼のおねだりにめっぽう弱いことを自覚した。
そうしてまた二人で抱き合って、しばしの微睡みを享受する。
今日はお互い休みなので、日が高くなるまで一緒に眠って、それからゆるゆると起き、二人で街に出かけた。名目上は彼の誕生日の埋め合わせと仕事の慰労会だ。
二人で食事を取った後、オリヴァーは行きたいところがあると言ってヴィオラをとある店へと連れて行った。そこは意外にも王都にある老舗の宝飾店だった。
「宝飾店? なにか欲しい物が?」
彼は普段あまり装飾品を身に着けないので、珍しいなと思いながら尋ねた。
「ええ」
笑顔で返事をした彼は、余程楽しみなのかワクワクした様子を見せていた。
店に入ると、中には客が一人もいなかった。この店はいつも客足が絶えないと聞くので、恐らくオリヴァーが貸し切ったのだろう。
すると、店の奥から年嵩の女性が姿を現した。彼女は人好きのする笑顔を浮かべて挨拶をしてくる。
「お久しゅうございます、オリヴァー殿下。お待ちしておりました」
「久しいな。店主も息災で何よりだ。今日はよろしく頼む」
どうやら二人は顔なじみらしい。そして店主はオリヴァーの隣にいるヴィオラに視線を移すと、驚いたように口元に手を当てた。
「こちらの麗しきお方が殿下の奥方様でございますか? あらあら、まあまあ……なんと素敵な方ですこと……!」
そう言って店主は感嘆の溜息を漏らしていた。その反応に思わず苦笑してしまう。
ヴィオラは今日、いつもよりも随分と着飾っていた。想いが通じ合い、ヴィオラが契約結婚の継続を希望したと聞きつけたララとリリが、それはもう気合を入れまくったのだ。他の使用人たちも大いに喜び、家中お祭り騒ぎで皆を落ち着かせるのに随分と苦労した。
「ああ。自慢の妻だ」
オリヴァーがにこりと笑ってそう言うので、ヴィオラはむずむずと落ち着かなくなってしまった。
早く話題を変えようと思いヴィオラが慌てて店主に挨拶を済ませると、二人は店にあるソファへと案内された。そして店主はお茶を出した後、ソファの前のローテーブルに様々な種類の指輪を置いていく。
リングスタンドには、サイズ違いで同じ意匠の指輪が二つずつ並べられていた。大きさからして男物と女物が対になっているようだ。どうやら結婚指輪らしい。
「どうぞ、お好きなものをお試しください」
店主はにこやかに微笑むと、一旦店の奥へと下がっていった。
ヴィオラとオリヴァーは、結婚するにあたって指輪を作っていなかった。ヴィオラは大学で結婚のことを隠したかったし、そもそも離婚する前提だったからだ。結婚したら指輪をつけるのが義務というわけでもないので、特段不都合もなかった。
ヴィオラは突然のことで驚き、オリヴァーの表情を伺うようにじっと見つめた。すると、彼は少し照れながら口を開く。
「今さらですが、結婚指輪が欲しくなりまして」
「いいと思うが、どうしてまた急に?」
ヴィオラは純粋な気持ちでそう尋ねていた。
結婚してから随分と経つので、彼がなぜこのタイミングで提案してきたのかが不思議だった。想いが通じ合ったから、というのならわからなくもないが、しかし昨日の今日で店を貸し切るとも思えない。
彼の気持ちはもちろん嬉しいし断るつもりも全くないのだが、いつから計画していたのか単純に気になったのだ。
すると、彼は言いにくそうに視線を逸らした。そして、眉を下げて苦笑する。
「僕がいない時にヴィオラに近寄る男がいるかと思うと心配で……その……あなたは僕のものだという印が欲しかったんです。嫉妬深くて呆れるでしょう?」
その回答で、ヴィオラは「ああ、なるほど」と理解する。
彼は学会の懇親会でヴィオラが男性研究員と話していたのを見て、随分と嫉妬していた。実際あの時は変な男に絡まれて大変だったのだ。オリヴァーはこれ以上自分の妻に変な輩が寄ってこないように、既婚者だという目印をつけておきたかったのだろう。
可愛らしい嫉妬心だなと思うと同時に、愛されていることを実感して思わず顔がほころんでしまう。
「いや、ありがとう。嬉しいよ」
ヴィオラの返答でホッとした様子のオリヴァーだったが、すぐに不安げな表情になりこちらの反応を伺うように恐る恐る言葉を口にしてくる。
「あの、嫌なら大学では外していただいても。結婚のこと隠してますし」
「ああ、そのことなんだが。結婚のことを隠すの、もうやめようと思うんだ」
ヴィオラがサラリとそう言うと、彼は大層驚いた様子で尋ねてくる。
「どうしてですか?」
「君に対してあまりにも不誠実だからだよ」
最初は王族の妻になったと知られたくなかったのと、そもそも離婚する前提だったので結婚のことをひた隠しにしていたが、今は状況が変わった。一生を添い遂げる夫をさもいないように振る舞うというのは、彼に対してあまりにも失礼だろう。それはヴィオラとしてもやりたくないことだった。
しかしオリヴァーはその返答では納得できなかったのか、不安げな表情で再び尋ねてくる。
「別にそんなことないのに……それに、王族と結婚していると色眼鏡で見られるのが嫌だって仰ってたでしょう?」
「確かにそう思っていたんだが、贔屓だ何だと文句をつけられたら、実力でねじ伏せればいいということに、最近気づいた」
ヴィオラがまたサラリとそう返すと、オリヴァーはしばらく言葉を失っていた。そして顔を両手で覆い、溜息を漏らす。
「はあ……かっこよすぎませんか……僕の奥さん……」
「フッ。褒めても何も出ないぞ」
冗談めかしてそう返した後、ヴィオラは指輪選びに専念した。目の前には何種類もの指輪がずらりと並べられている。シンプルなものから宝石がはめ込まれたものまで、多種多様だ。
「いっぱいあって迷ってしまうな……」
「時間はたくさんあるので、ゆっくり選びましょう」
「君の好みは?」
そう言って隣を見遣ると、彼も真剣な表情で指輪の数々を眺めている。
「んー、お互い実験をする身ですし、宝石が無い方が取り回しがいいでしょうか。でも、ヴィオラの意向を最優先したいです」
「確かにずっと身につけるなら宝石は無い方が楽だな」
そんな会話をしつつ、ヴィオラは一組の指輪に目が留まった。
「これなんかどうだろうか」
手に取ったそれは、輪の一部分がくるりとねじれた意匠の物だ。いわゆるメビウスの輪の形である。シンプルだが、曲線が美しい逸品だった。
「この図形、数学的に見ても面白いから好きなんだ。それに、メビウスの輪は永遠という意味合いもある。夫婦が身につけるなら最適だと思わないか?」
我ながら良いチョイスだと思いながらそう尋ねると、彼はとても嬉しそうににこりと笑っていた。
「どうした?」
「ヴィオラならそれを選ぶだろうなと思ってました」
そう言われて、手に取った指輪が他のものより一段と飾り気がないことに気づく。シンプルで毎日つけていても邪魔にならないという、実に合理的な選択。そして、この図形が面白いから、なんていう令嬢らしからぬ理由。
ヴィオラはなんともバツが悪くなり、少し不貞腐れた顔で言葉を返した。
「……悪かったな。もう少し可愛らしいチョイスをしたほうが良かったか?」
「いいえ。僕もそれがいい。それに、そういうあなただから惚れたんですよ」
曇りのない笑顔でそう言われ、ヴィオラは照れてしまい思わず視線を逸らした。
「……君も気に入ったなら何よりだ」
その後、指輪のサイズを合わせてもらってから、二人は店を出て帰路についた。
そして馬車に揺られながら、オリヴァーがふと思い出したように言葉を口にする。
「そう言えば、勝負は僕の勝ちでしたね」
「勝負?」
何か競っていたかと思い首を傾げながら尋ねると、彼は得意げに口角を上げた。
「一年以内にあなたの心を射止められたら僕の勝ち」
「ああ、それか。そう言えばそうだった」
今は想いが通じ合ったこともあって、彼に言われるまで完全に忘れていた。当初は次の契約更新までに自分がオリヴァーに振り向かなければ彼が離婚を受け入れる、という話になっていたなと思い出す。
「勝ったので、ご褒美をもらえませんか?」
そう言う彼は、いたずらっぽい笑みを浮かべている。こういう時の彼は、どんな突拍子もないことをねだってくるかわからない。
「……内容による」
警戒心を強めてそう言うと、オリヴァーはニコッと笑っておねだりしてきた。
「今日からは、夫婦の寝室で一緒に寝ませんか?」
(そう来たか……)
なんだか昨夜も似たようなことを言われた気がするが、いざ真剣に考えてみるとやはり気恥ずかしさがすごい。しかし、彼の提案を断る理由も見当たらなかった。
昨夜は彼の温もりで安心しきったのか、攫われて危険な目に遭ったというのに驚くほどぐっすり眠れたのだ。やはり彼の腕の中は、何よりも安心する場所らしい。
「ああ、いいよ」
そう返事をすると、オリヴァーはとても嬉しそうに目を細めていた。




