29.あなたの腕の中で
「でも、僕を好いてくれたというのなら、どうか僕に罪悪感なんて抱かないで。どうか自分の気持ちをかき消さないで」
それは、心からの嘆願だった。
もっと単純に考えてもよかったんだろうか。お互い好き合っているならそれでいいじゃないかと、そう考えて良かったんだろうか。彼の願いを、このまま素直に受け入れていいんだろうか。
しかし、やはりまだ不安になる。
「……今まであんなに突っぱねておいて、今さら態度を変えた私に呆れないのか?」
「呆れるわけがない。あなたが僕のことを好きだと言ってくれたそれだけで、僕は……僕は今、天にも昇るほど幸せな気分なんです。あなたに振り向いてもらえたことが、嬉しくてたまらない」
彼は変わらず泣きそうな笑顔でそう言うと、そっとヴィオラの体に腕を回し、優しく抱きしめた。そして、ヴィオラの耳元で少し声を震わせながらささやく。
「ヴィオラ。あなたは幸せになっていいんです。幸せになるべき人です。僕に、あなたを幸せにする権利をください」
彼の言葉に、複雑に絡み合った感情がほどけていく。彼の体温に、頑なな心が溶かされていく。
今やるべきは、彼を拒絶することではない。もう二度と、彼の気持ちを無下にしないことだ。
彼の想いを、今度こそ素直に受け取ろうと決めた。
ヴィオラも彼の体に腕を回し、抱きしめ返す。
「私はもう、君から十分に幸せをもらっているよ。今までたくさん尽くしてもらって、たくさん救ってもらった。だから今度は、私が君に返したい」
溜まりに溜まった負債を、何とかして彼に返そう。今まで愛してもらった分、たくさん彼を愛そう。
心の中でそう決意していると、オリヴァーの小さな笑い声が聞こえてくる。
「フフッ。ヴィオラは本当に律儀ですね。僕が好きでやっていただけだから、気にしなくていいのに」
耳元で低く響く声は、どこか嬉しそうだった。ヴィオラは、そんな彼の名を呼ぶ。
「オリヴァー」
そして彼から身を離し、じっと瞳を見つめた。
「私は、君との契約について、無期限の延長を希望するよ」
これは自分からきちんと言っておく必要があった。自分の中のある種のけじめだ。
「君なら、信じてみてもいいと思った。たとえ裏切られたとしても後悔しないくらい、信じてみたいと思ったんだ」
自分の気持ちを口にして、やはり随分と身勝手なことを言っているなと決まりが悪くなる。
「ああ……と言っても、もし君がまだ私と共にいたいと思ってくれているならの話だが……」
ヴィオラは何かを誤魔化すように早口でそう言って、彼から視線を逸らした。何とも格好がつかなくて、勝手に気まずい気分になってくる。
「ここで断る馬鹿がいると思いますか? ずっと一緒にいたいと思ってるに決まってます」
彼の答えに心底ホッとした。これからも彼の隣にいていいのだと思うと、嬉しくて仕方がない。
ヴィオラが自然と視線を戻すと、彼はその金色に輝く瞳でこちらを見つめていた。
視線が絡み合った後、オリヴァーは再びヴィオラを抱きしめた。首筋に顔を埋めて、思いっきりヴィオラの匂いを吸い込んでから、まるで幸せを噛み締めるみたいにゆっくりと息を吐き出している。
「愛しています、ヴィオラ。絶対に離れませんから。絶対にあなたを裏切ることなんてしませんから」
「ありがとう、オリヴァー」
ヴィオラも幸せを噛み締めた。愛する人と心を通わせるというのは、なんという多幸感をもたらすのだろう。彼の温もりが、ただただ心地いい。
すると、オリヴァーが抱きしめる力を強めて声を漏らした。
「やばい。嬉しすぎて、理性が飛びそうだ」
「頼むから保ってくれ」
「少しだけ許して」
オリヴァーはねだるようにそう言うと、ヴィオラをそのまま寝台へと押し倒した。両手は寝台に縫い付けられて、身動きは取れそうにない。覆いかぶさられる形になったヴィオラは、視界の全てを彼に奪われた。
見上げると彼と視線がぶつかった。嬉しそうに微笑んでいる彼の瞳は熱を帯びている。
「んっ」
オリヴァーは今までにないほど激しく求めるようなキスをしてきた。相変わらず呼吸が上手くできないヴィオラは、彼の唇が離れた一瞬の隙に熱い吐息を漏らす。
彼との触れ合いは、どうしてこうも頭の奥が痺れるんだろう。
いつもは誰よりも冴えているヴィオラの頭脳も、この時だけは思考がとろけて仕方がなかった。
手首を押さえていた彼の手はいつの間にかヴィオラの手を握っていて、ヴィオラもそれに答えるようにぎゅっと握り返す。
「はっ。オリ、ヴァー」
キスの合間に懸命に空気を吸い込んで、懸命に言葉を音にする。
「あいし、てるよ」
温かくて、心地よくて、苦しくて、幸せで。落ちるのが怖いと思えるほどの高みに上っていった。
その後、じっくりと時間をかけて愛する人の至る所を味わったオリヴァーは、満足した様子でヴィオラを自らの腕の中に包み込んでいた。対するヴィオラは、オリヴァーの温もりですっかり安心しきって、心地良い眠気に誘われるがまま微睡んでいる。
「今日はこのまま、ヴィオラを抱きしめて眠りたい。駄目ですか?」
「いいよ。どうやら私は、君の腕の中が一番安心するらしい」
耳元でおねだりしてくる彼に、ヴィオラはぼんやりとした頭で返事をした。自分としても、このまま彼の温もりに包まれて眠りたい。こんなに幸せな気持ちを抱いて眠るのはいつぶりだろうか。いや、多分初めてだ。
「それは身に余る光栄ですね。ヴィオラさえ良ければ、僕は毎夜あなたをこの腕に抱いて眠りたい」
「……それも、いいかもしれないな……」
とうとう瞼が開けられなくなってきて、ヴィオラは半分寝ぼけながら答えていた。彼の大きな手で頭を撫でられて、それがまた何とも心地よくて、どんどん意識が遠のいていく。
「フフッ。おやすみなさい、ヴィオラ。初夜は後日、ゆっくりと」
「…………ああ」
彼が何と言ったのか、自分が何と返事をしたのかよくわからないまま、ヴィオラは深い深い眠りについたのだった。




