26.世界一安心できる場所
そこは無人の部屋だった。破れたカーテンの隙間から、月明かりが部屋の中を照らしている。
後ろから何者かに口を塞がれ抱きつかれたままのヴィオラは、身を捩って抵抗した。すると、拍子抜けするくらいあっさりと解放される。
「ヴィオラ、僕です。オリヴァーです。遅くなってすみません」
後ろから聞こえた声に、ヴィオラは驚いて振り返る。
「オリヴァー?! どうしてここに!?」
「しっ」
オリヴァーが険しい顔で人差し指を口元に立てたのを見て、ヴィオラは慌てて自分の口を手で塞いだ。驚いて声を上げてしまったことにヒヤリとしたが、どうやら見張りには気づかれていないようだ。
「頬が少し赤くなってる。誰かに叩かれたんですか? 痛くはありませんか?」
オリヴァーが眉根を寄せ、心底心配そうな表情を浮かべながら小声でそう聞いてきた。どうやってこの場所がわかったのかは謎だが、どうやら助けに来てくれたようだ。
彼が来てくれたことで、今まで気を張っていた分の緊張が全てほぐれていく。ヴィオラは安堵の溜息をつきながら礼を言った。
「ああ、大丈夫だ。痛みはないよ。来てくれてありがとう」
キャロルが非力なのもあって、すでに頬の痛みは引いていた。腫れてもいないので一安心だ。
オリヴァーはヴィオラの言葉にホッとした様子を見せたが、すぐに顔を青くした。彼の袖にヴィオラの血がついてしまっていたからだ。
「どこかお怪我を?!」
「いや、これは自分でやったんだ。目眩しの陣を描くために、自分の血くらいしか使えるものがなくてね。もう出血はほとんど止まっているから心配ない」
そう言って苦笑しながら指先を見せると、彼は驚いたように目を見開いていた。
「全くあなたという人は……」
彼はしばらく言葉を失った後、困ったように眉を下げて笑った。
「どこまでかっこいいんですか」
そう言ってオリヴァーはヴィオラをぎゅっと抱き寄せた。
彼の温かさと匂いに包まれて、心の底から安堵する。ここは世界一安心する場所だと、素直にそう思った。
少し心に余裕が出てきたヴィオラは、おどけた調子で冗談を言う。
「なんだ、惚れ直したのか?」
「ええ、もう二度と離れられないほどに」
ヴィオラの耳元でささやきながら、オリヴァーは抱きしめる力を強めた。
「フフッ、それは困る。抱き合ったままではここから逃げられない」
苦笑しながらそう言うと、彼は身を離し、穏やかな瞳で見つめてきた。
「では、帰ったらたくさん抱きしめさせてください」
「無事帰れたらな」
「それはご心配なく」
彼は得意げにそう言いながら、腰に下げている剣をトントンと叩いた。
どうやら強行突破するつもりらしい。あれだけ見張りがいる中で、本当に大丈夫なんだろうかと少し心配になる。それとも彼だけではなく増援がいるのか。
(普通に考えたらそうか。公爵閣下がこんなところに一人で乗り込んで来るはずないもんな)
ヴィオラは一人で納得して、彼に脱出を任せることにした。
すると、オリヴァーはこちらの右手を握り、ひとつ尋ねてくる。
「ヴィオラ、血は苦手ですか?」
「? 可もなく不可もなくだ」
「では、下を向いていてください」
言われた通り下を向くと、彼はヴィオラの手を引きながら扉の方に向かっていく。そして扉の前で振り返り、耳元で低くささやいてきた。
「絶対に手を離さないで」
いつもと変わらない優しい声にハッとして顔を上げた時、彼が勢いよく扉を開けた。その音に気づいた見張りたちが、一斉に駆けつけてくる。
「いたぞ!」
「こっちだ!」
「男がいる!」
廊下の奥に剣を持ったゴロツキたちが見え、ヴィオラは怖くなりまた下を向いた。こちらの不安が見透かされたのか、思わず震えそうになる手をオリヴァーがぎゅっと握ってくれる。
「大丈夫。絶対守るから」
彼はそう言って剣を抜いた。
その力強い声に、ヴィオラは閉じたくなる目を開けて彼の足元を見続けた。彼の歩みに合わせて、ヴィオラも前に進む。すると、段々と男たちの荒っぽい叫び声が近づいてくる。そして、それがとうとう目の前まで来た時、彼が歩みを緩めて止まった。
一瞬だった。
下を向いていたので何が起きたのかはわからない。でも気づいたときには、ゴロツキたちが全員廊下に転がっていた。
血を流し、うめき声を上げる彼らを置いて、オリヴァーがまた歩き始める。それに合わせて、ヴィオラも下を向いたまま歩を進めた。下を向いていたので転がっているゴロツキたちが目の端によく映ったが、皆恨めしそうにこちらを見ながら腕や足を抑えていた。
その後もオリヴァーは、近づいてくるゴロツキたちをばっさばっさと斬り倒していく。しかも与えるのは致命傷ではなく、戦闘不能になるくらいのいい塩梅の傷だけだ。どうやら殺すつもりはないらしい。
そうしているうちに、とうとう襲いかかってくるゴロツキがいなくなった。そう思ってすぐに、オリヴァーから声がかかる。
「もう大丈夫です」
そう言われ顔を上げると、彼は返り血ひとつ浴びず、綺麗な顔でにこりと笑っていた。ヴィオラは先ほどまでの光景が未だに信じられなくて、呆気にとられた様子で口を開く。
「……剣術や武術に心得があるとは聞いていたが……君、相当強くないか?!」
「まあ、程々には。でもエドワードのほうが強いですよ。あいつもここに来ていて、今は雑魚の掃除をしてくれています」
彼はなんてことないように、特に強さを自慢するでもなくそう言った。彼が自分の能力をひけらかすタイプではないことはよく知っていたが、先ほどの立ち回りを見る限り、並の騎士より余程強いのではないだろうか。剣よりもペンを握る人だと思っていただけに、ヴィオラは驚きを隠せなかった。
「他は? 護衛の騎士たちも連れてきているんだろう?」
「僕とエドワードの二人だけです」
「は? どうして!? 危ないだろう!」
ヴィオラが責めると、オリヴァーは肩をすくめてあっけらかんと微笑んでみせた。
「急いでいたもので。そのうち増援も来ますからご安心を」
そう言って彼は再びこちらの手を引いて歩き出した。迷いなく進む足取りは軽いが、なぜか出口から遠ざかっている。
「どこに向かってるんだ?」
「少し用がありまして」
そう言って彼はもうしばらく進み、ひとつの扉の前で立ち止まった。そしてこちらに振り向き、苦笑しながら小声で耳打ちしてくる。
「あまり冷静でいられないかもしれません。もしお見苦しかったら、目と耳を塞いでおいてください」
「?」
言葉の意味が理解できずヴィオラが首を傾げたとき、彼の顔からスッと笑みが消え、途端に無表情になる。しかし、感情の読みづらい無表情の中に、激しい怒りのようなものが宿っているように見えた。触れればたちまち切れてしまいそうなナイフのような鋭さに、ヴィオラは思わず息を呑む。
そして彼は扉を開け、中に入った。




