25.厄災
その日はいつもと変わらない、なんの変哲もない日常のはずだった。
「それでは先生、お先に失礼いたしますね」
「はい、お疲れ様でした」
いつも通り、秘書のグレイス夫人が定時で帰っていく。彼女の背を見送って小一時間ほど作業をした後、ヴィオラは自分のデスクで休憩をとっていた。
(明日はオリヴァーと食事の予定だし、私も早く帰るかな)
誕生日の埋め合わせと仕事の慰労会をかねて、明日はオリヴァーと街へ出かける予定だ。彼と結婚するまでは休日も全て研究に注ぎ込んでいたものだったが、自分も随分変わってしまったなと思う。もちろん悪い意味ではなく、良い意味でだ。
初めてデートをした日以来、休みが合う日は彼と街に出かけることが多くなった。外に出るたびに彼が面白い場所に連れて行ってくれるので、自分の見聞がどんどん広がりとても楽しいのだ。研究室に引きこもっていた独身時代には、まさか外の世界がこんなに楽しいとは考えてもみなかった。
明日を楽しみに思いながら、ヴィオラはデスクに散らばった書類を片付け始めた。しかしちょうどその時、扉がカタリと音を立てたような気がした。
「グレイス夫人? 忘れ物ですか?」
振り返っても誰もいない。気のせいかと思い再び帰り支度を進めていると、突然何者かに後ろから抱きつかれた。
「ちょっ……」
思わず声を上げようとしたときには口を布で塞がれていた。息を吸った途端に強烈な薬品の匂いがして、一気に意識が遠のいていく。焦って呼吸をするんじゃなかったと内心舌打ちをしながら、ヴィオラは深い眠りに落ちていった。
***
次に目が覚めた時、ヴィオラは椅子に座らされ、後ろ手に縛られていた。薬品を嗅いだせいか、鈍い頭痛がする。部屋の中を見回すとここは寂れた洋館のようだったが、それを認識したと同時に、目の前の人物に意識を取られた。
「お久しぶりね、お姉様」
「キャロル……」
そこにはニッコリと微笑む妹がいた。ピンクブロンドの髪をゆるく巻き、可愛らしいピンクのドレスで着飾っている。不気味なこの洋館にはあまりにも不釣り合いな格好だ。
そして、周囲には体格の良い男が数人。ガラの悪そうな見た目からして、キャロルが雇ったゴロツキだろう。彼らも彼らでニヤニヤとした嫌な笑みを浮かべている。
自分の状況を把握したヴィオラは、心の奥底にどす黒い感情がボコボコと湧き出してくるのを感じていた。一気に白けた気分になり、冷めた表情を浮かべる。
以前オリヴァーがキャロルをこっ酷く脅したこともあり、妹からの嫌がらせはもうないだろうと思い込んでいた。しかし、それは甘かった。この女はそんなことでめげるような奴ではなかった。
「随分と大胆な真似をしたな、キャロル」
鋭く睨みつけるも、彼女は意に介さない様子でフッと笑った。
「お姉様が悪いんですのよ? わたくしより幸せになるだなんて、許せないわ」
「ハッ。そんな理由か。くだらない」
ヴィオラは鼻で笑った。自分の方が優位に立たないと気がすまない性格は健在らしい。すると、キャロルは苦々しげにこちらを睨みつけながら、これまでの不満をつらつらと並べ始めた。
「お姉様のせいで散々な目にあったわ。何と言ってオリヴァー様を操ったのか知らないけど、あの方が流した噂のせいで、社交場に行っても皆から白い目で見られるんだもの。オードニー伯爵家の名前も地に落ちたようなものだし、最悪だわ」
「自業自得だろう」
短くそう返した途端、キャロルにパシンと頬をぶたれた。ヴィオラはヒリヒリとした頬に不快感を覚えながら、ゆっくりと頭を持ち上げてキャロルを見上げる。
「黙って? ああ、本当に嫌いだわ、お姉様」
彼女の額には青筋が浮き出ており、わなわなと怒りに震えている。相当癪に障ったのだろう。
「お姉様みたいな粗雑な人が、容姿端麗で才気あふれるオリヴァー様と結婚できるなんてあり得ないのよ。何したの? 人に言えないような弱みでも握ってるの?」
「それは私が知りたい」
「は?」
キャロルは眉を顰めながら何を言っているんだと首を傾げていた。
彼のような人間が自分に惚れたなど、未だに嘘ではないかと思う時がある。彼ならばどんな令嬢の心も射止められただろう。正直、物好きという理由以外には考えられない。
彼に心から愛されて、なんて贅沢な女なんだろう。しかし自分は、彼の好意を無下にし、彼に気がないふりをして、あまつさえ離婚しようとしている。
こちらが黙っていると、キャロルはひとつ溜息をついてから言った。
「まあいいわ。安心して、お姉様。彼はわたくしがもらうから。わたくしが彼と幸せになるの」
「ジョセフ様はもういいのか?」
「あんな甲斐性なし、知らないわよ」
キャロルは心底嫌そうにそう言うと、フンと鼻を鳴らしていた。
彼女はどうやらジョセフと離婚してオリヴァーに乗り換えるつもりらしい。人のものを取るのが本当に好きな女だ。呆れると同時に、オリヴァーにあれだけ冷たくあしらわれていながらまだ諦めていない彼女の打たれ強さには感心さえ覚えた。
そしてヴィオラは、ほんの少しだけ元婚約者に同情した。女を見る目がないといえばそれまでだが、ジョセフはキャロルと結婚してから散々辛酸を舐めさせられたことだろう。彼女のせいでオードニー伯爵家も随分と落ちぶれてしまった。
ヴィオラが冷ややかな視線をキャロルに向けていると、彼女はニヤリとほくそ笑んで周囲の男たちに指示を出した。
「さあ、あなたたち。好きにしていいわよ。惨めに犯し尽くして、二度と旦那様に顔向けできないようにして差し上げて?」
そしてキャロルは「終わったら呼んでね」と言い残して部屋から出ていった。
残されたのは、数人のゴロツキと椅子に縛られた自分。
「全く……愚かしい」
ヴィオラは妹の愚行に呆れ返っていた。始めは姉への小さな嫉妬心だけだったはずなのに、どうしてここまで歪んでしまったのか。今となってはもうわからない。
ヴィオラが盛大に溜息をついていると、男たちがワラワラとこちらに近づいてくる。男たちの目はギラギラと不気味に光っていて、腹に抱えている欲を隠す様子もない。
「私に触れる前にひとつ忠告をしておく」
ヴィオラは男たちが手を伸ばしてくる前に睨みを効かせてそう言った。彼らはその場でピタリと止まり、驚いたような視線をこちらに向けてくる。
「私を犯そうが殺そうが好きにしろ。だがな、あの女はお前らのことをこれっぽっちも守ってくれないことだけは忘れるな。あと、私の夫は執念深い。どこまで逃げようが、必ずお前らの首を食いちぎりに来るから覚悟しておけよ」
そう言い切ると、男たちは呆気にとられたように口をぽかんと開けていた。そしてすぐに、ゲラゲラと下品に笑い始める。
「なんだ? 脅してるつもりか?」
「威勢のいい女も悪くない」
「というか何で白衣なんか着てるんだ。どうせならもっと色っぽい格好が良かったぜ」
うるさくわめき出した彼らを耳障りに思いながら、ヴィオラはなおも言葉を続ける。
「それはそうと君たち、私が誰か知ってるのか?」
そう問うと、男たちは顔を見合わせて馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「さあ?」
「興味ないな」
「別にヤれりゃ誰だって良い」
やはり彼らは誰を攫ってきたのか理解していないようだ。相手が公爵家夫人だと知っていれば、報復を恐れてキャロルに協力する者などいないだろう。狡猾な彼女は、その辺りを上手く隠してゴロツキを雇ったに違いない。
ヴィオラは哀れな彼らに乾いた笑みを向けた。
「そうか、では教えてやろう。私はヴィオラ・ルークラフト。魔術研究の最前線を走る研究者だ。覚えておけ、この愚か者ども!!」
そう言い終わるや否や、激しい光が部屋中を照らした。それはヴィオラが発動させた魔術のせいだった。ヴィオラはキャロルと話している間、ずっと椅子の裏に自らの血で陣を描いていたのだ。
「うわっ!」
「クソっ! 目が見えねえ!!」
「逃げたぞ! 追え!!」
座っていた椅子が古くて、ところどころささくれ立っていたのが幸いだった。ヴィオラは指先をわざと傷つけ血を流し、後ろ手で器用に陣を描くと、タイミングを見計らって目眩しの術を発動させた。同時に縄抜けの術も発動させ、手首を縛っていた縄を解き、まんまと部屋から脱出してみせたのだ。
そして今、ヴィオラは階段の裏に身を潜め、息を殺していた。部屋の外にも思ったより多くの見張りがいて、逃げ切ることができずにいるのだ。
(こんなところで研究が役立つとは……魔力消費量を抑える術式を開発しておいてよかった……)
ヴィオラは現実逃避にそんな事を思う。
とはいえ、魔力量がさほど多くないヴィオラが使える魔術は限られている。部屋から抜け出したは良いものの、ここから逃げ切るほどの実力は持ち合わせていなかった。
現実逃避から思考を戻しこれからどうしたものかと頭を悩ませていると、見張りのゴロツキたちが怒りに任せて叫びながら目の前までやって来た。階段で死角になっているので向こうからは見えてはいないだろうが、内心バレないかヒヤヒヤだ。彼らの手にキラリと光る剣が握られているのが見えて、ヴィオラはさらに肝を冷やした。
しばらくしてゴロツキたちが去っていくと、不意に静寂が訪れた。どうやら周りに見張りはいないようだ。
(今がチャンスか……?)
しかし、思い切って階段の裏から廊下に出た途端、ヴィオラは大きな手で口を覆われそのまま手近な部屋に連れ込まれてしまった。




