24.甘えたがりの彼
帰宅後、ヴィオラは湯浴みを済ませて寝支度を整えた後、約束通りオリヴァーの自室へと向かった。
扉を軽く叩くと、すぐに中から彼が出て来る。そして彼はヴィオラの手を引き部屋に招き入れると、そのまま優しく抱き寄せた。
「ずっとこうしたかった……」
彼はぎゅうっと抱きしめると、ヴィオラの髪に顔を埋めて思いっきり鼻で息を吸っていた。どうやら匂いを嗅いでいるらしい。
「おい……! 離せ……!」
「もう少しだけ……」
必死の抵抗も虚しく、しばらくオリヴァーに髪の匂いを嗅がれてしまった。そして抱きしめられたままズルズルと引きずられたかと思うと、彼だけ寝台の上にぽすんと座った。ヴィオラは彼の前に立っている状態だ。
こちらを見上げてくる彼の表情はどこかぼんやりとして眠たげだった。やはり疲れているのだろう。今日はすぐに戻ろうと思いヴィオラが口を開こうとしたとき、彼がこちらの手を取りながらポツリと言葉をこぼした。
「ヴィオラがいろんな男に話しかけられていて、嫉妬で気が狂いそうになりました」
「仕方ないだろう。学会なんてほぼ男しかいないんだから」
呆れたようにそう返した後、ヴィオラは少々嫌味を言った。
「君だって、女性研究員から随分と騒がれていたじゃないか」
学者というのはやはり男性がほとんどで、女性は圧倒的に数が少ない。しかし全国から集めるとそれなりの数になるもので、懇親会中、オリヴァーは常に女性たちに囲まれていた。
「僕のこと、見ていてくれたんですか?」
彼が目を輝かせながら的はずれな返答をするものだから、ヴィオラはまた呆れ顔で嫌味を返す。
「ただでさえ女性が少ないあの場で、あれだけ黄色い歓声が湧いていたら嫌でも見るだろう」
しかし、そう言われても彼はめげない。にこりと笑いながら、こんな事を聞いてくる。
「嫉妬しました?」
「してない」
ヴィオラが即答すると、オリヴァーは少しシュンと悲しそうな顔になる。
「そうですか……」
落ち込んでしまった彼を面倒に思いつつ、ヴィオラは励ましがてら素直な気持ちを口にした。
「ただ……少しだけ鬱陶しくは思った。上辺だけしか見ていない女が君に群がるのは」
彼女たちはまさしくオリヴァーの見た目だけに惹かれて騒いでいただけだった。彼の内面を知らない人間がキャーキャーと騒ぎ立てる声はとても耳障りで、聞いていてあまりいい気がするものではなかった。
ヴィオラの言葉が予想外だったのか、オリヴァーはしばらく目を丸くして驚いていた。そして、嬉しそうに目を細めたと思ったら、彼に手を引かれくるりと体を回転させられる。
「うわっ」
気づけばヴィオラはオリヴァーの膝の上に座らされていた。その上、彼に後ろから思いっきり抱きつかれている。そして彼はまた飽きもせず、ヴィオラの髪に顔を埋めてその匂いを嗅いでいるのだ。
「離せ。吸うな、馬鹿者」
「もう少しだけ」
身を捩ったり空いた手で彼の腕を引っ張ったりして抜け出そうと試みるが、体を鍛えている彼の力は強く、非力なヴィオラではびくともしなかった。しばらく頑張ってみたが無駄な抵抗だと悟り、ヴィオラは諦めて彼の好きにさせながら溜息をつく。
「前から気になっていたんだが、君は女性の扱いに随分と慣れていないか?」
「なぜだか気になります?」
オリヴァーが髪に顔を埋めたまま、からかうようにそう言ってきた。彼の挑発的な発言に苛立ちを覚え、ヴィオラは冷ややかな声で言葉を返す。
「たった今、答えを聞く気が失せた」
「ハハッ、すみません」
彼はそう言って笑うと、ようやくヴィオラの髪から頭を離した。しかし今度は、こちらの肩に顎を乗せてくる。
「ヴィオラに振り向いて欲しくて、懸命に背伸びしているだけですよ」
いつもの低い声が思ったより間近に聞こえ、ヴィオラは思わず身を縮めた。彼の無駄に良い声が耳元で響くと、何とも言えない感覚に襲われるのだ。
ヴィオラが何も言えずに固まっていると、彼がまた耳元で囁いてくる。
「次のお休みの日、僕にください」
これはヴィオラがオリヴァーと約束したことだった。彼の誕生日に夕食を一緒に取るつもりだったが、その日は仕事で帰れずすっぽかしてしまったのだ。それで学会が終わって落ち着いたら、共に食事をしに街へ行こうと約束していた。
「ああ。美味しいものでも食べに行こう」
ヴィオラの返事に満足したのか、オリヴァーはフフッと笑ってまた髪に顔を埋めた。しかし今度は匂いを嗅ぐのではなく、髪に口付けをし始める。そして、ちゅっ、ちゅっと何度か音がした後、不意に首筋にキスされた。
突然の感覚に驚き、ヴィオラは彼の膝の上で暴れた。
「おい、やめろ……! もう戻る……!」
「もう少しだけ」
オリヴァーはこちらの言う事を聞くどころか、抱きしめる力を強める始末だ。その間にも何度もキスをされ、ヴィオラは内から湧き上がる疼くような感覚を抑えるのに必死だった。
始めは唇が触れるだけだったのが、次第にはむはむと食べられているような感触に変わり、終いには首筋に舌を這わせてきた。これにはヴィオラも我慢できなくなり、たまらず抗議の声を上げる。
「んんっ……おい……!」
「もうちょっと」
彼はキスの合間にそう答え、また忙しそうにヴィオラの首筋を味わっている。
もう限界だ。頭を思いっきり後ろに逸らして頭突きでもしてやろうと思ったその時、キスの雨が突然ぱったりと止んだ。そのことに心底ホッとする。あのままずっと続けられていたら、頭がおかしくなるところだった。
安堵と疲労の溜息と共に、ヴィオラは言葉を吐き出す。
「オリヴァー、いい加減離してくれ」
しかし、なぜか彼からの反応がない。彼はただヴィオラを抱きしめるだけで、それ以外は動かず、言葉も発しない。一体どうしたんだと不思議に思い、ヴィオラは顔だけで振り返る。
「オリヴァー?」
彼の姿を見て唖然とした。あろうことか、彼はすうすうと寝息を立てて寝ていたのだ。
「嘘だろ……」
疲労が限界だったのか、オリヴァーはヴィオラを膝の上に乗せたまま、しかも抱きしめたまま眠ってしまったようだった。
ついさっきまで散々キスをしてこちらを振り回しておきながら、今は天使のような寝顔で気持ちよさそうに眠っている。それが何とも腹立たしく、ヴィオラは心の中で舌打ちをした。
しかし、疲れ切ったオリヴァーを起こすのも忍びなく、ヴィオラは盛大な溜息をつきながら彼の腕から抜け出そうとした。
腰に回った腕をどけようとそっと引っ張る。動かない。
もう少し強く引っ張る。動かない。
全力で引っ張る。動かない。全く動かない。
「なんで寝てるのに体が弛緩しないんだこの男は!」
ヴィオラは焦ったように声を上げた。
まずい。これはまずい。このままでは、自分は夜通し彼の抱き枕として隣にいなければならなくなる。
「おい、オリヴァー、起きろ!」
ヴィオラは方針を変え、潔く彼を起こすことにした。疲れている彼を起こすのは忍びないが仕方がない。
しかし、肩を叩いても全く起きる気配がない。肩を揺すってもびくともしない。しかも運の悪いことに、揺すった反動でオリヴァーはそのままごろんと寝転がってしまい、二人して寝台に横たわる形になった。
「最悪だ……」
ヴィオラは思わず頭を抱えた。
その後も何とか身を捩って脱出を試みるも、彼の腕は逃がしてはくれなかった。逃げようとする度、彼に引き戻されて抱きしめられる。完全に抱き枕だ。
「馬鹿らしくなってきた。寝よう」
しばらくの格闘の末、疲れ切ったヴィオラは、何もかもを諦めて自分も寝ることにした。唯一自由な両腕で上掛けを何とか引っ張って被り、目を瞑る。
このまま気持ちの良い眠気が来てくれればよかったのだが、そう上手くはいかなかった。彼の寝息が首筋にかかり、気が気ではなかったからだ。後ろから抱きつかれた状態で眠れるなどと、浅はかな考えを抱いた自分が馬鹿だった。
その後ヴィオラは、うとうとした眠りと覚醒を繰り返し、満足のいく睡眠を全く取れずにいた。
「ん……」
彼が目覚めたのは、日が昇るか昇らないかくらいの時間帯だった。
「あれ、ヴィオラ……? なんでここに……?」
後ろから寝ぼけた声が聞こえてくる。起きたばかりでまだ状況が把握できていないようだ。ヴィオラは寝不足でイライラしていたこともあり、不機嫌を全く隠さない声で唸った。
「起きたならさっさと離せ、馬鹿者」
その声にオリヴァーは飛び起き、慌ててヴィオラを離した。寝台の上に身を起こした彼は、信じられないというように目を見張っている。
数時間ぶりに開放された体はバキバキだ。ヴィオラは気だるげにオリヴァーの方へごろんと寝返りをうつと、彼を見上げながら思いっきり睨みつける。
「昨夜のことを思い出したか?」
そう問われたオリヴァーは、焦ったように片手で口元を抑えている。
「……もしかして、あのまま寝てしまったんですか、僕」
「ああ。しかも私を抱きしめたままな。おかげでこっちは寝不足だ」
「すみません、こんなつもりじゃ」
彼が顔を青くして謝ってくるので、ヴィオラも少し怒りを収めた。これは疲労が極限だった彼を起こしきれなかった自分の甘さのせいでもある。
「いいよ。疲れてたんだろう? 仕方ない」
「すみません……」
「起きる時間までまだもう少しある。それまで大人しく寝ていろ」
「わかりました……」
しおしおと項垂れるオリヴァーを横目に、ヴィオラはまたごろんと寝返りをうち彼に背を向けた。そのまま目を閉じ、眠ろうとする。
「……戻らないんですか?」
後ろから遠慮がちに話しかけられたので、ヴィオラは不機嫌を声いっぱいに詰め込んで言葉を返す。
「戻るのが面倒だ。このままここで寝る」
体はだるく、頭は重い。今は一刻も早く深い眠りにつきたかった。でないと今日の研究に差し障る。
しかし、彼はまたしてもこちらの眠りを邪魔してきた。懲りずにまた後ろからぎゅっと抱きしめてきたのだ。それも、嬉しそうにフフッと笑みを漏らして。
「抱きつくな! 寝られんだろうが! 首に息がかかってくすぐったくて仕方ないんだ!」
ヴィオラが吠えてオリヴァーの方に視線を向けると、彼は何とも機嫌が良さそうに微笑んでいる。そして調子に乗ったのか、にこりと笑ってこんな事を言ってきた。
「じゃあ、正面向いて抱きしめるのは」
「もっとダメだ!」
「じゃあ、手を繋ぐのは」
「わかった、それくらいならいいから、もうさっさと寝ろ! 私は眠いんだ!」
彼は全然反省してないようだ。しかし今は叱るのも面倒で、ヴィオラはさっさと片手を差し出して目を瞑って眠りに落ちた。
一方のオリヴァーは言われた通り眠ることもせず、ヴィオラの寝顔をずっと幸せそうに眺めていたのだが、もちろんヴィオラ本人は知る由もなかった。
その日、寝不足のヴィオラが寝坊したのは言うまでもない。そして日が昇りきってから二人揃って起きてきたことに、家中の者は皆温かい視線を向けてきた。それが何とも居心地が悪く、ヴィオラは自分の失態に溜息を漏らすのだった。




