22.誕生日の贈り物(2)
「絶景ですね。やはりあなたは美しい」
頬から耳へ、耳から首元へ。彼の手がスルリと撫でていく。ゾクリとした感覚がヴィオラの中に湧き上がり、思わず体を固くした。いつもはこんなに触れてくることはないのに、今日は本当に色々と珍しい。
ヴィオラが身を縮こまらせていると、オリヴァーが驚いた様子で尋ねてきた。
「……ヴィオラ、もしかして緊張してますか?」
彼に好きにさせていた左手で、いつの間にか脈を測られていたらしい。その事に気づいたヴィオラは、途端に不機嫌顔になる。
「……別に」
「フフッ……ハハッ」
急に小さく笑い出した彼に、ヴィオラはますます眉根を寄せた。
「なに笑ってる」
「男として見てもらえてるんだと思うと、嬉しくて」
その言葉にドキリとした。死角から刺された気分だ。完全に無自覚だった部分を指摘されて、ヴィオラは何かを誤魔化すように慌てて口を開く。
「日付が変わったぞ。どきなさい」
彼が大人しく指示に従い起き上がったので、ヴィオラは早々に部屋を立ち去ろうとする。
「もう戻るよ」
そう言ってヴィオラがソファから立ち上がろうとしたとき、オリヴァーに再び手首を掴まれた。今度は立つことすら許されず、じっと瞳の奥を見つめられる。美しくて力強い金色の瞳が、こちらの心を覗いている。
「もう少し話してたい」
「私はもう話すことはない」
「じゃあ、あなたに触れていたい」
彼はそう言うと、掴んでいたヴィオラの手を優しく自分の口元まで持ち上げる。そして、そのままヴィオラの細い指先に口付けを落とした。
「……許してない!」
突然のことに驚き、思わず声を上げた。心臓がさらに脈を打ち、ドクドクとうるさく鳴り響いている。ヴィオラが慌てて手を引こうとした時、オリヴァーがこちらを覗き込んできて、またあの瞳で射抜いてくる。
「嫌だったら突き放して」
彼の低く優しい声が、胸の奥に響いた。
言われた通り突き放せばいいのに、ヴィオラにはなぜかそれができず、ただただ彼がキスを落としていく様を眺めていた。
オリヴァーは指先から手の甲へ、ゆっくりと楽しむように口付けをしていく。対するヴィオラは、石のように固まってしまい身動きひとつ取れなかった。
すると手への口付けに満足したのか、彼は視線を上げるとヴィオラの頬に手を添えてくる。そして、そのまま親指で唇をふにふにと押された。彼は穏やかに微笑んでいる。
「キスしていいですか?」
口に、というのは言わずもがな理解できた。ヴィオラは顔を顰めて要求を突き返す。
「する理由がない」
「それならあります。だって僕たち、夫婦だから。したって誰も咎めない」
そう言うオリヴァーは随分と楽しそうだ。彼の屁理屈に、ヴィオラは思わず溜息をついた。
「理由になってない」
「では、僕のわがままということで。先日、何でもひとつ聞いてくれると約束したでしょう?」
論文騒動の件の礼として、わがままをひとつ聞くと言ったのはヴィオラだった。自分の軽はずみな言動に激しく後悔したが、一度した約束を取り下げるのは少し違う気がする。
とは言え、彼の要求を跳ね返すことはできたはずだった。だが、なぜかそうしなかった。
「……勝手にしろッ」
ヴィオラが苦々しく吐き捨てると、オリヴァーは嬉しそうに目を細めた。
そして彼は、ヴィオラの腰に腕を回し、その身を自分の元へと引き寄せた。彼の体温を間近に感じ、思わず息を呑む。
彼の左手が優しく頬を包んだかと思うと、精巧な作りの整った顔が眼前に迫り、ヴィオラは目を閉じてギュッと身を縮めた。そのまま、唇に柔らかな感触が広がる。
息をするのも忘れ、ヴィオラはただただ彼が離れていくのを待った。まるで永遠にも思えたが、恐らく一瞬の出来事だった。
オリヴァーは唇を離すと、意外そうな表情を浮かべて言った。
「もしかして初めてですか?」
あまりにもぎこちなく固まっていたからだろう。その言葉にヴィオラはしかめっ面になる。元婚約者とはそういった触れ合いは一度もなかった。手を繋いだことすらない。そんなことになる前に、相手の心がさっさと離れていったからだ。
余裕そうな彼に、なんだか腹が立ってくる。
「当たり前だろう」
不機嫌を全面に出してそう返すと、オリヴァーはにこにこと笑顔になった。そんな彼に、ヴィオラはますます不機嫌顔になる。
「なに笑ってる」
「愛する人の初めてをもらって、嬉しくないことがありますか?」
彼はそう言いながら、ヴィオラの頬を愛おしそうに撫でた。彼の言葉に、その表情に、ヴィオラの心がうるさく騒ぎ立てる。
「力を抜いて。何も考えず、僕に身を委ねて」
ヴィオラは言われた通りひとつ息を吐いて力を抜き、どうにでもなれと半ばヤケクソになりながら、彼の好きにさせることにした。彼の胸の中は温かくて心地良く、ヴィオラの苛立ちも溶けていった。
オリヴァーは何度もキスをしてきた。触れるだけだったり、啄んでみたり、時には激しく貪られたり。角度を変えて、何度も、何度も。
(喰われてるみたいだ……)
呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、うまく息ができない。身を捩って逃げようと試みるも、腰に回された腕によって体は動かせないし、頭の後ろを支える大きな手によって顔を背けることもできない。
頭の奥が痺れて仕方がなかった。
しばらくして、彼がキスの嵐をやめてくれた。ヴィオラはこの隙に、荒くなった呼吸を整える。
「どうでしたか? ファーストキスは」
「酸欠になるわ……馬鹿者……!」
上目遣いで睨みつけると、彼は嬉しそうに笑っていた。そしてまた、キスの雨が降り注ぐ。唇はもちろん、額や頬、首筋にまで。キスをする毎に、オリヴァーは愛の言葉を囁いてくる。
「愛してます、ヴィオラ」
「知ってる」
「僕はあなたを絶対に裏切らない」
「もう聞いた」
まるで洗脳だ。
ヴィオラは依然として上手く息をすることができず、頭がぼやぼやとし始めていた。そんなぼんやりとした頭の奥底で、こんな事を考える。
触れることを許すべきではなかった。一度許せば、付け入られるに決まっていた。
でも、彼に触れられるのが心地いいと思っている自分がいる。触れられたいと思っている自分がいる。
彼と離婚するつもりなのに、それはあまりにも矛盾しすぎている。
毒が、全身を回り始めている。




