20.負債
その後、すぐにハリーがヴィオラの研究室へとやってきた。監視役としてだ。彼は実験室の隅にある椅子に座り、自分の書類仕事を進めている。
「私もこんな事したくないんですがね……」
疲れた表情の彼は、溜息混じりにそう言った。
今は実験に集中したいので話しかけないで欲しい気持ちもあったが、流石に無視するわけにもいかず、実験の手を休めることなく言葉を返す。
「私の無実を信じてくださっているんですね」
「当たり前でしょう。合理主義の権化みたいなあなたが、データ捏造なんてそんな無駄なことするわけがないですから」
「……それはどうも」
褒められているのか貶されているのかよくわからなかったが、味方が一人でもいるのはありがたかった。
その後は二人とも話すことなく、お互い黙々と自分の作業に没頭していた。そして、日も暮れて随分と経った頃、ハリーは「連絡が入ったので少し席を外します」と言って実験室を出ていった。
(もうこんな時間か……日付を超えるまでは実験する気満々だったんだが、彼を付き合わせるわけにもいかないし……どうしたものか)
ヴィオラは休憩がてらコーヒーを入れ、これからどうしようか悩んでいた。
こちらの実験をずっと監視していてはハリーが倒れてしまう。かといって、多少無理をしなければ到底二週間で資料を完成させることはできない。
(彼には先に帰ってもらえないか相談しよう)
そう結論づけたヴィオラが実験に戻ると、しばらくしてハリーが戻ってきた。
ヴィオラが彼の方を振り向くと、なぜか少しバツが悪そうな表情をしている。
「どうされました?」
訝しげにそう尋ねると、ハリーは口ごもりながらこう言った。
「ああ、ええと……マクガヴァン教授からのご伝言です。徹夜はせず、必ず家に帰ってしっかり休むこと。あなたがわざとこのようなことをしたとは思ってないので、二週間と言わずゆっくり待ちます、とのことです」
(こんな時間にわざわざ?)
もう夜も随分といい時間だ。こんな時間に連絡が来るなんて少し変だと思ったが、踏み込んでも仕方がない内容だった。しかし、とは言えこのまま帰るわけにもいかない。
「それだと一向に私が次の研究に進めないでしょう。さっさと終わらせてしまいたいんですが」
「事務局も資料の行方を追っていますし、すぐに見つかるかもしれません。今日はもう遅いので、ひとまずお帰りを」
「…………」
ヴィオラは仏頂面で沈黙を貫いたが、対する彼も意見を譲ろうとはしなかった。しばらくして、ハリーが根負けしたように眉を下げる。
「お願いします。私も夜通しあなたを監視することはできないので」
ハリーの言い分はもっともだった。やはり彼だけ先に帰ってもらうのは難しいらしい。
ヴィオラは諦めたようにひとつ溜息を吐き、彼からの提案を承諾した。
「わかりました」
そうしてヴィオラは、渋々一時帰宅するのだった。この日は珍しくオリヴァーの出迎えがなかったのだが、仕事に追われているとのことだった。
***
翌日もハリーが朝から監視役として研究室に訪れていた。大量の書類の束を抱えてやって来た彼は、昨日より一層疲れているようにも見える。事務局員もなかなかに大変らしい。
そして朝から晩までハリーに見守られながら実験を進め、家に帰り、また朝から実験をする。そんな日々が三日ほど続いたある日の夜、実験の休憩中にハリーが珍しく話しかけてきた。
「結婚してから、殿下とはなにか進展がありましたか?」
思わぬ問いに、ヴィオラは飲んでいたコーヒーを危うく吹きこぼしそうになった。彼が私的な話を振ってくることなどほとんど無いので、つい驚いてしまう。
「何もないですよ……進展させる気もありませんし」
苦々しい表情でそう答えると、ハリーはまたもや珍しくクスリと笑った。
「そうですか。殿下も珍しく苦戦していらっしゃる」
(この仕事人間でもこういう話をするときがあるんだな)
そう思いながらハリーを物珍しそうに見ていると、彼は穏やかな表情で続ける。
「意外と良い人ですよ? 怒ったらすごく怖いですけど」
オリヴァーとハリーの仲の良さがよくわかる発言だ。二人が軽口を言い合っている姿を想像するとなんだか微笑ましくなり、思わず笑みがこぼれる。
「フフッ。それは知ってます。でも急にどうしたんですか? こんな話、珍しいですね」
「いえ、ふと気になっただけで」
ハリーは微笑を返すと、広げていた書類を片付けて立ち上がった。
「そろそろお迎えが来そうなので、邪魔者は退散しますね」
「お迎え?」
ヴィオラは発言の意味がわからず首を傾げたが、彼はそれには答えずさっさと去ってしまった。
(もう少し実験しようと思っていたのに監視員に帰られては困るのだが……)
そう思っていたところ、ハリーと入れ違うようにしてとある人物が研究室を尋ねてきた。
「先生、お疲れ様です」
扉からひょっこりと顔をのぞかせたのはオリヴァーだ。彼が夜遅くに大学に現れるのは珍しいので、ヴィオラは驚いて目を見開いた。
「君……どうしてここに」
「落とし物を届けに」
彼はそう言って部屋に入ると、分厚い紙束を渡してきた。それはまさしく、ヴィオラが提出したはずの実験データの資料だった。
「これ……! どこにあったんだ?!」
安堵と驚愕が入り混じりながら尋ねると、オリヴァーはにこりと笑って平気で嘘をついてきた。
「廊下に落ちてました」
流石にそれはない。本当に廊下に落ちていたなら清掃員が気づくはずだ。嘘をつくならもう少しわかりにくい嘘をつけばいいものをと思いつつ、眉根を寄せながら彼をじっと見つめる。
「君……また何かしたな?」
「何のことですか?」
笑顔の彼は、全く口を割る様子がなかった。しかし、今回ばかりはちゃんと真相を聞かないと釈然としない。自分の研究者としての評判と信頼が貶められたのだ。せめて犯人の正体を聞かないと腹の虫がおさまらない。
「……相手が誰だったかくらいは教えてくれないか」
「取るに足らない相手です。先生が二度と会うこともない」
彼はなんてことないようにそう言うと、優しく微笑みかけてくる。
「安心してください。あの趣味の悪いデマも、明日には綺麗さっぱり消え去りますから」
事が起きてからまだ三日ほどしか経っていないが、彼が裏で色々と動いてくれたんだろう。ここ数日家に帰っても全く彼と会うことがなかったのは、自分のために休まず手を尽くしてくれていたからかもしれない。そう思うと無理に聞き出す気にもなれなくて、ヴィオラはただ感謝の気持ちを伝えた。
「わかった。ありがとう、オリヴァー」
「今回はエドワードがよく働いてくれました。労いの言葉なら彼に」
「そうだったのか。帰ったら必ず礼を伝えるよ」
オリヴァーはその返事にひとつ頷くと、手をこちらに差し伸べてきた。
「それよりも、今日はもう遅い。一緒に帰りましょう」
そうして、二人は馬車に乗って家路についたのだった。
道すがら、ヴィオラは街灯の明かりを眺めながらポツリと言葉をこぼす。
「私は、君に救ってもらってばかりだな」
「何のことですか」
彼はこれを貸しにはしない。キャロルの一件だってそうだ。どれだけ相手のために尽くしても、彼は見返りを求めようとはしない。
以前彼は「そんなことであなたの気を引きたいとは思わない」と言っていたが、やはり一方的に尽くされるこの状況はあまりにも不公平だ。知らぬ間に何度も彼に救われて、どんどん負債が溜まっていっている気分だった。
自分は彼に何も返さない。返せるものがない。返していい立場でもない。
「そんなに尽くしてくれなくていい」
「やはり気が引けますか?」
オリヴァーはこちらの発言の裏を正確に読み取ったらしく、穏やかな声で気を遣わせないような言葉をかけてくる。
「僕はヴィオラから十分な見返りをいただいてますよ。契約結婚だとか、屋敷に住むこととか、僕の無茶な要求をたくさん飲んでくれてる。だから、そんなこと言わないで。愛する人のために、何かせずにはいられないんです」
ヴィオラは窓の外に顔を向けていたが、彼から真っ直ぐに見つめられているのが視界の端でわかった。視線が痛くなってきてオリヴァーの方に向き直ると、彼は目が合った途端嬉しそうに笑っていた。
これは何を言ってもダメだと思って、ヴィオラは最低限伝えておきたいことを口にする。
「君の言い分はわかったが、あまり無茶はしないでくれ。心配だから」
「…………」
予想外に彼からの反応はなく、随分とキョトンとした顔をしていた。
「なんだ」
ヴィオラが尋ねると、オリヴァーはくしゃりと顔をほころばせた。この男は本当によく表情が動く。
「心配してくれるのが、嬉しくて」
「私のせいで君になにかあったら、寝覚めが悪いだろう」
「素直じゃないですね、ヴィオラ」
「調子に乗るな」
そう言いつつ、ヴィオラは笑みを溢していた。彼とのこうした軽口の応酬も、実は結構楽しかったりする。
そして今は、研究者の矜持と信用を守ってくれた彼に、心から感謝すべきだろう。負債の返済方法は、後日じっくり考えればいい。
「助けてくれてありがとう、オリヴァー。今度また、何か君のわがままをひとつ聞こう」




