幕間2ー2.オリヴァーの後悔
翌日、学会当日の夕方頃。
オリヴァーはハリーからの連絡で凍りついた。
「殿下。申し訳ありません。奥方の姿が見つけられず、アルバート・リベラの姿もありません」
「……わかった。すぐに向かう」
この時、オリヴァーは激しく後悔した。何か事が起こる前に対処すべきだったと。彼女が嬉しそうに学生たちの話をするので見守りたいという気持ちが勝り、判断を見誤った。
大学に到着した後、ヴィオラの居場所はすぐに見つかった。
以前、誕生日の贈り物として彼女に渡した耳飾りには、空色の魔石がはめ込まれている。そしてオリヴァーは、それと対になる魔石を手元に持っていた。この魔石に魔力を注ぎ込むと、共鳴して相手の居場所がわかるようになっている。
そこは、大学校舎裏の倉庫だった。周囲に人気はなく、中からは明かりが漏れている。
オリヴァーは扉に突っ張っていた棒をどけ、そのまま荒っぽく開けた。
「ヴィオラ!!」
中に入って飛び込んできたのは、思っても見ない光景だった。
仁王立ちで佇むヴィオラと、その前にちょこんと座るリベラ。どういう状況か尋ねると、どうやら彼女は彼にきつく説教をし、人生相談に乗ってやっていたそうだ。彼女の衣服に乱れもなく怪我も見当たらないので、ホッと安堵の息を吐く。
そして、彼女の目の前にいる男をきつく睨みつける。この場で殺してやりたいほどの怒りが、オリヴァーを支配していた。
しかし、彼女はリベラを逃がした。
「貴様ッ」
「オリヴァー!!」
慌てて追いかけようとしたところ、彼女に険しい声で止められてしまった。愛する人に乱暴しようとした奴を逃がせというのか。激しい怒りの矛先を見失い、思わず不満顔で彼女に振り向く。
「見逃してやれ。彼は悪くない」
そう言った彼女の表情で、オリヴァーは全てを察した。その時の彼女の表情には見覚えがあった。妹のキャロルと対峙したときだ。リベラという学生は、あの女の差し金だったのだ。その事実に、怒りに加えて憎悪の感情までもが湧き上がってくる。
「少し家庭環境が複雑らしい。今回は大目に見てやってくれ、な?」
彼女の聞き心地の良い声に、徐々に冷静になっていく。ヴィオラには物わかりの良い返事をしたが、内心は違った。
(……ただで済むと思うな)
静かな怒りと憎悪がオリヴァーの心に渦巻いていた。
しかし、その場でそれ以上の思考をすることはできなくなった。彼女が熱を出して倒れたからだ。
すぐさま屋敷に運び込み医者に診せたところ、過労と言われた。そこでまたオリヴァーは激しく後悔した。昨日会っておきながら、なぜ彼女の体調が悪いことに気づけなかったのか。情けなくて仕方がない。
その後、すぐにハリーから連絡があった。彼の声は重々しく、険しさが滲んでいた。
「奥方の件は本当に申し訳ありませんでした。事前に忠告をいただいていたにも関わらず……。彼の処分は如何様にでも」
「奴はお前が面倒を見ろ。家庭事情が複雑らしい」
ぶっきらぼうにそう答えると、ハリーは驚いたように息を呑んでいた。
「処分はよろしいのですか……?」
「彼女の意向だ。……だが、二度と奴を彼女に近づけるな」
オリヴァーは唸るようにそう言った。
自分とて奴が彼女と同じ場所に居座り続けるのは断じて許容できない。だが、彼女の意思を踏みにじるわけにもいかない。これが精一杯の抵抗だった。
「御意」
ハリーが短く返事をしたところで、通信は終わった。
その後、しばらく眠っていたヴィオラが目を覚ました。少し起きていると言うので彼女と話していると、唐突にこう言われた。
「オリヴァー。私は君を愛さないよ」
心臓が止まるかと思った。しかし、その後に続く彼女の独白に、オリヴァーは身を引き裂かれるような思いに苛まれることになる。
「……もう、裏切られるのはたくさんなんだ」
彼女はどれほど人から裏切られ傷ついてきたのだろう。
「みんな、私から去っていく。だから、誰にも期待しない」
誰にも期待しないというのは、何と寂しく悲しいことなんだろう。
「私にとっては、研究が全てだ。結果は嘘をつかない。今まで積み重ねてきたものは私から離れていかない。私だけは、私を裏切らない。ただそれだけで十分だ」
彼女はもう、自分自身のことしか信じられないほどに、心を閉ざしてしまっている。
彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。あなたから離れていかない存在があるのだと知って欲しかった。
しかしオリヴァーはこの衝動を一度ぐっと堪えて、彼女に抱きしめる許可を先にもらった。そうして寝台にそっと上がり、彼女を優しく包み込む。
自分の胸の中にすっぽりと収まった彼女は、いつもよりも小さく感じられた。強く、気高く、美しいこの女性は、この小さな体で懸命に自分の心を守っている。そんな彼女の心を守りたいと、そう強く思った。
そして、彼女の耳元で自らの想いを伝える。
「今は、愛してもらえなくても構いません。それであなたが罪悪感を抱く必要もありません。ただ……これだけは言わせて」
言葉でしか伝えられないことがもどかしい。でも、伝えずにはいられない。
「僕は絶対にあなたを裏切ったりしない。絶対にあなたから離れていったりなんかしない。今は言葉でしか伝えられなくとも、必ず、行動でも示してみせます」
離れようと身を捩る彼女を、強く抱きしめ直す。ヴィオラへの愛しさと憐憫、醜悪な妹への怒りと憎悪、そして不甲斐ない自分への苛立ち。それが胸の中で混ざり合い、オリヴァーは何とも言えない苦しさを抱えていた。
そして、オリヴァーが耳元で囁くたび、熱に浮かされた彼女はか細い声で返事をした。
「どうかあなたの心の傷が、癒える日がきますように」
「傷……? 私は傷ついてなどいない……。もし傷ついていたとしても、それはとうの昔に癒えている」
「あなたのことを、心から愛しています、ヴィオラ」
「愛など……私には不要だ……」
彼女の言葉を聞くたびに、心がズタズタにされる気分だった。愛する人に何も出来ていない自分に無性に腹が立って仕方がなかった。
胸の中でヴィオラが眠った後、オリヴァーは彼女をそっと寝台に横たえ、部屋を後にした。
そして、側近のエドワードを呼びつけ、短く命ずる。
「明日、あの女を呼びつけろ。裏付けも忘れるな」
「仰せのままに、殿下」




