幕間2ー1.オリヴァーの憂鬱
ここ最近、オリヴァーはすこぶる機嫌が悪かった。
何しろここ三週間ほど全くヴィオラに会えていない。学会準備が忙しく、彼女がずっと家に帰ってこないからだ。自分も仕事が繁忙期で、大学に顔を出すことすら出来ない。しかし、そろそろ限界だった。
王城にある自分の執務室で、オリヴァーは通信用の魔道具を取り出し、とある人物に連絡を取る。
「俺がなんで連絡したかわかってるよな、ハリー」
刺々しい声でそう言うと、魔道具越しから感情の乏しい声が聞こえてくる。
「お久しぶりです、殿下。すぐに抗議の連絡が来ると思っていましたが、意外でした」
「ヴィオラからやめろと止められていた」
「流石はリーヴス先生。賢明なご判断です」
相手は事務局員のハリー・レッドメインだ。オリヴァーとは旧知の仲で、お互いに気の知れた関係である。こうして軽口を言い合うこともしょっちゅうだ。
ハリーはひとつ溜息をつきながら言葉を続けた。
「学会準備の件は申し訳ないとは思っています。ですが、一介の事務局員が教授会の決定を覆せるとお思いで?」
「さっさと出世しろ」
「二十六歳であの大学の中枢にいる時点で、かなり出世は早い方なんですが……」
魔道具越しの彼は、やれやれと言わんばかりにまた溜息をついていた。そんな彼に、オリヴァーは構わず自分の苛立ちをぶつける。
「二度とヴィオラに仕事が押し付けられないよう、学会準備の担当は教授会に参加している者の中から選ぶという規則でも付け加えておけ」
「相変わらず人使いが荒いですね。奥方の噂を消すのにも一苦労したというのに、もう少し労いがあってもいいのでは?」
「その件は助かった。感謝する」
ヴィオラとの結婚が一段落した頃、オリヴァーは大学で広まっていた彼女の悪しき噂を消すようハリーに依頼していた。あの噂のおかげで変な輩が彼女に近づかなくて済んでいたとも言えるが、やはり彼女の本来の評価が損なわれているのは許せなかったのだ。
しかし噂が消えた今、オリヴァーには別の懸念が生まれていた。
「ハリー。アルバート・リベラという学生を知ってるか?」
「ええ、レヴィンス研究室の学生ですね? 彼がどうかしましたか?」
「もし何かおかしな動きがあったら教えろ」
こちらの要求に、ハリーは怪訝そうな声を上げる。
「彼は特に問題児というわけでもなく優等生だと思っていましたが……何かありましたか?」
「いや。今はまだ何も」
その答えに何かを察したらしく、ハリーは真剣な声で返してくる。
「わかりました。何かあればすぐにご連絡します」
結婚してからは仕事が忙しくなったのもあり、オリヴァーはここ最近大学に顔を出すことが出来ていない。しかし、一番最後にヴィオラの講義に出席した際、気になる学生を見かけたのだ。
その学生――アルバート・リベラは、ヴィオラを食い入るように見つめていた。
あれは、良くない目だ。ただ懸想をしているだけならまだいい。だがそれだけじゃない。背中を少し押してやれば、越えてはいけない境界線を簡単に越えて道を踏み外してしまいそうな、危険で虚ろな瞳だ。
オリヴァーは、自分の愛する人を恍惚とした表情で見つめるリベラの存在を見過ごすわけにはいかなかった。
「ご要件は以上ですか?」
ハリーにそう言われ、ふと我に返る。
これは、彼の「もう切ってもいいか」という合図である。彼も彼で忙しいのだろうが、相変わらず仕事人間で人付き合いが悪い。
もう少し話に付き合わせようと、オリヴァーは不貞腐れたように友人に愚痴をぶつける。
「ヴィオラともう三週間も会っていない」
その事実を聞いたハリーは、珍しく少し驚いたような声を上げた。
「一度も家に戻られていないのですか?」
「……ああ」
前にヴィオラに会ったのは、彼女の妹が家に来た時だ。それ以来、彼女に一度も会えていない。
オリヴァーの力ない返事に、ハリーは労るような声で言葉をかけてくる。
「わかりました、奥方にはそれとなく伝えておきます。明日で学会も終わるので、もう少しだけ辛抱なさってください」
「……明日で終わるのか?」
「それも聞かされていなかったんですね……」
学会の日付を調べるという考えにすらたどり着かないほど、ここ最近のオリヴァーは多忙を極めすぎていた。しかし、明日で彼女も家に帰って来るのだと思うと、途端に機嫌が良くなっていくのが自分でもわかった。
その後ハリーとの通信を切ると、側近のエドワードがからかうようにこう言ってくる。
「ヴィオラ様の前とは面白いほどに態度が違いますね、殿下」
「生徒として接していた頃の話し方が抜けなくてな」
「いつか本性バレますよ」
その指摘に嫌な記憶が蘇る。ヴィオラの妹であるキャロルが尋ねてきた時のことだ。あの時は、あまりにもキャロルの言葉が不快すぎて、思わず怒りを露わにしてしまった。ヴィオラは気にしていない様子だったが、自分の性根の悪さがいつ彼女にバレるかとヒヤヒヤしている。
「……嫌われるだろうか」
「あの方がそんな些細なことを気にされるとは思いませんが」
「……それはそれで少し寂しいな」
人の裏面を知っても気にしないのは、相手に興味がないか、知ってもなお許せるくらい心を開いている場合である。現時点での彼女の場合、絶対に前者になるだろう。彼女に振り向いてもらうには、まだまだ道半ばである。
その日の夕方、グレイス夫人から連絡をもらった。なんとヴィオラが今から家に帰って来るというのだ。
オリヴァーは全ての仕事を投げ出して嬉々として帰宅した。後日、ハリーに労いの言葉がかけられたのは言うまでもない。