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16.胸の中で


 目が覚めると、ヴィオラは自室の寝台に横たわっていた。まだ夜中らしく外は真っ暗だが、部屋の中はほのかな明かりに照らされている。


「ご気分はいかがですか?」


 声のした方に視線を向けると、オリヴァーが椅子に座っていた。彼は心配そうにこちらの顔を覗き込んでいる。

 そこでヴィオラは、そう言えば彼に大学から運び出してもらったんだと思い出す。少し眠ったおかげで多少は楽になったが、まだ頭痛が酷かった。熱も高いみたいだ。


「……すまない。迷惑をかけた」


 普通に声を出したつもりだったが、思った以上にか細い声になってしまった。彼はこちらの謝罪に眉根を寄せながら首を横に振る。


「迷惑なんてそんな。医者によれば過労だそうです。しっかり休むように、と」

「申し訳ない……」

「謝らないでください。こんな時くらい、僕を頼って」


 彼はそう言うと、冷えたタオルで額の汗を拭ってくれた。しかし自分の姿を確認して少し恥ずかしくなる。服はいつの間に着替えさせられたのか寝衣だし、髪は汗で顔に張り付いている。


「あまり見ないでくれ。こんなボロボロなところ」


 ヴィオラがオリヴァーから顔を背けると、彼は優しい声で言葉を返してくる。


「どんな姿でも美しいですよ」


 きっと、いつものようににこりと笑っているのだろう。そんな声だった。相変わらずの彼に、ヴィオラは苦笑を漏らす。


「……私はたまに、君の視力が心配になるよ」

「僕の視力はすこぶる良いですからご心配なく」


 そうやって軽口を叩いた後、彼は瑞々しいフルーツと薬が乗った盆を渡してくれた。起き上がって果物をパクリと頬張ると、熱を帯びた口の中が冷やされて気持ちがいい。食べられるだけ食べて、薬を飲み干す。


「もう寝てください。熱もまだ高そうです」


 体を休めなければならないとわかっているが、今はあまり眠りたい気分ではなかった。このまま眠ってしまえば、悪夢を見そうな気がして。


「……いや、もう少しだけ起きているよ。なんだか今は、眠りたくないんだ。君はもう寝なさい」


 ヴィオラがそう言うと、オリヴァーは穏やかに笑いかけてくる。 


「僕もまだ眠くないので、よければ話し相手に」


 日付はとっくに変わっている時間帯だ。眠くないのは嘘だろう。しかし、彼を説得して下がらせるほどの元気が今のヴィオラにはなかった。


「三週間、ずっと会えなくて寂しかったです。でも、昨日帰ってきてくれて、すごく嬉しかった」


 そう言ってにこりと笑う彼の笑顔が眩しい。こういう話題になるなら、やはり頑張って説得して下がらせればよかったと、ヴィオラは早々に後悔し始めていた。


「元気になったら、何か美味しい物でも食べにいきましょう。何が食べたいですか?」


 彼はどこまでも自分に尽くしてくれる。だがこちらからは何も返さない。それは、あまりにも不平等だ。


「オリヴァー」


 言っておかなければならない気がした。釘を刺しておく必要があると思った。


「私は君を愛さないよ」


 その言葉に、彼の瞳は大きく見開かれ、ビクリと肩を跳ねさせた。少し怯えの色が混じる瞳の彼に、ヴィオラは穏やかな眼差しを向ける。


「だから、こんなに尽くしてくれなくて良い」


 彼はしばらく沈黙していた。そして、少し悲しそうな笑顔を浮かべて尋ねてくる。


「……それは、相手が僕だからですか?」

「違うよ。誰であってもだ」


 彼の誤解を解くために、ヴィオラは優しい声でそう返した。誰であっても、自分が心を動かすことはない。


「……もう、裏切られるのはたくさんなんだ」


 そう言葉にしてからハッとして驚く。熱のせいか、いつもなら言わないようなことまで口に出してしまった。


 ヴィオラの独白を聞いたオリヴァーは、きつく眉根を寄せている。


「僕は、絶対にあなたを裏切ったりしない」

「口だけなら何とでも言える」


 ヴィオラは彼の言葉に被せるようにそう言った。

 前にも、彼のような言葉をかけてくれる人たちがいた。でも、その人たちはもう自分のそばにはいない。


「みんな、私から去っていく。だから、誰にも期待しない」


 ひとつ大きく息を吐く。こんな話をするのは、彼が初めてだ。

 ヴィオラはオリヴァーに向かって、寂しそうに笑った。


「誰かを信じることは、私にとってかなり心に負荷がかかることなんだ。だから……わかってくれ」


 また彼はしばらく沈黙した。ヴィオラの言葉を一つひとつ噛み締めるように、次第に顔を歪めていく。


「あなたを苦しめてきた奴ら全員、今すぐにでも殺してやりたい」


 ポツリとこぼした彼の物騒な言葉に、ヴィオラは少し驚かされた。目を見開いていると、オリヴァーが静かに問うてくる。


「ヴィオラ。妹君が、ご両親が、憎いですか?」


(憎い?)


 彼女たちに憎悪の念を抱いたことがあっただろうか。あるとしたら呆れと諦めくらいだろう。


「どうでもいい」


 ヴィオラは嘲るようにそう言った。血の繋がりはあると言っても、所詮は赤の他人だ。


「私にとっては、研究が全てだ。結果は嘘をつかない。今まで積み重ねてきたものは私から離れていかない。私だけは、私を裏切らない。ただそれだけで十分だ」


 その言葉を聞いたオリヴァーは、一層強く顔を歪めていた。そして、ふっと表情を和らげると、こんなことを言ってくる。


「ヴィオラ。学会が終わったら、わがままを何でもひとつだけ聞いてくれると約束してくれましたよね」

「? ああ」


 なぜ今そんな話を持ち出すんだと、ヴィオラは首を傾げた。しかし彼は、真剣な表情でこちらの瞳を見つめてくる。


「抱きしめてもいいですか?」


 今の一言で元々ズキズキと煩わしかった頭痛が悪化した気がする。ヴィオラは盛大な溜息をつき、冷ややかな視線を彼に向けた。


「よりにもよって、何で今なんだ」

「……だめですか?」


 オリヴァーの強い瞳は、譲る意思がないことを示している。対するヴィオラは熱で頭が回らず、いつものこうしたやりとりでさえ面倒で、考えるのも億劫になってくる。


「ああ、もう、好きにしろ」


 投げやりにそう言うと、彼は寝台の上にそっと上がってきた。こちらを怯えさせないように、ゆっくりと近づいてくる。そしてヴィオラは、彼の大きな胸の中にすっぽりと収まった。


 彼の胸は固く、思ったよりも鍛えられているのだとわかる。研究者なのに随分と筋肉質な体だと驚いた。発熱のせいで自分の方が絶対に熱いはずなのに、彼の温もりが妙に心地いい。


 そして、オリヴァーはヴィオラの耳元で囁いた。


「今は、愛してもらえなくても構いません。それであなたが罪悪感を抱く必要もありません。ただ……これだけは言わせて」


 あの無駄に良い低い声が耳元で響き、腹の底が疼いた。


「僕は絶対にあなたを裏切ったりしない。絶対にあなたから離れていったりなんかしない。今は言葉でしか伝えられなくとも、必ず、行動でも示してみせます」


 耳元がくすぐられ、ヴィオラは思わず身をよじる。


「わかった。わかったから。いい加減離れろ」

「嫌です」


 まるで(すが)るように抱きしめてくる彼は、何かに打ち震えているような気がした。それがどういう感情からくるものなのかは、彼の表情が見えないヴィオラには推し量ることが出来なかった。


「どうかあなたの心の傷が、癒える日がきますように」


(傷……? 私は傷ついてなどいない……。もし傷ついていたとしても、それはとうの昔に癒えている)


「あなたのことを、心から愛しています、ヴィオラ」


(愛など……私には不要だ……)


 熱に浮かされた頭で、ヴィオラはそんな事を考えていた。そして、彼の温もりに包まれながら、またいつの間にか眠っていた。



**


 

 二日後の夜、ヴィオラの熱はようやく下がり、体の調子も取り戻していた。


「迷惑をかけてすまなかった。自分の体調管理もできないとは、情けない」


 寝台の上で体を起こしたヴィオラは、夕飯と薬を持ってきてくれたオリヴァーに謝罪した。


「これくらい迷惑でもなんでもありません。元気になって良かったです」

 

 そう言って、彼はにこりと笑う。


 彼はヴィオラが寝込んでいる間、ずっと付きっきりで看病をしてくれた。侍女に任せて君は休みなさいと何度も言ったが、「自分がやりたいだけなので」と言って聞かなかったのだ。


 するとオリヴァーは、不意に表情を暗くする。


「ヴィオラが大学の倉庫に閉じ込められていた時、助けに行くのが遅くなってすみませんでした」

「君は何も悪くないだろう」


 思いも寄らない謝罪に、ヴィオラはきょとんとする。彼が謝罪する理由は何もないはずだ。そして自然とこんな疑問が湧いてくる。


「そう言えば、君はあの日、どうしてあの場にいたんだ?」

「……ハリーからあなたの姿が見えないと連絡を受けまして。大急ぎであなたを探しに行ったんです」


 オリヴァーの表情は依然として暗い。なぜかとても落ち込んでいる様子だった。そんな彼を励ますように、ヴィオラは優しく言葉をかける。


「それはすまないことをしたね。助けに来てくれてありがとう」


 しかし彼がその言葉に励まされることはなく、落ち込んだまま、遂には俯いてしまった。


「あなたを愛していると散々言っておきながら、あなたの体調不良にも気づけず、守れてもいない。本当に、すみません」


 低く絞り出したような声だった。彼がなぜそこまで自分を責めているのかわからなくて、ヴィオラは困ってしまった。そして、少し考えてから彼に声をかける。


「オリヴァー、顔を上げなさい」


 その声に導かれるように、オリヴァーは顔を上げこちらに視線を向けてくる。そしてヴィオラの顔を見た途端、彼は少し驚いたように目をまん丸にしていた。ヴィオラがこれまでにないほど穏やかな笑みを浮かべていたからだ。


「君が謝ることは何もない。私からの感謝の気持ちを、素直に受け取ってほしい」


 そう言って手を伸ばし、柔らかなアッシュグレーの髪を撫でてやる。すると彼は一層驚いたように目を見開いていた。


「……わかりました」


 いつも怜悧な彼が呆気に取られている姿がなんだか新鮮で、ヴィオラはフフッと笑いを漏らす。


「元気になったから、近いうちに美味しいものでも食べに行こう」

「……はい。喜んで、ヴィオラ……!」


 そう返事をした彼は、いつものようににこりと笑っていた。


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