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14.久しぶりの帰宅


 三週間後、学会前日。


 事務局や学生ボランティアの協力のおかげで、ヴィオラは既に学会を迎える準備を終えていた。前日までバタつくと思っていたが予想外に時間が出来たので、これから実験でもやろうかと思っているところだ。


 そんな折、事務局員のハリー・レッドメインが研究室を尋ねてきた。


「リーヴス先生。明日の準備でご不安なことはありませんか? 手が空いているので何かあれば手伝えますが」


 学会準備を押し付けられたヴィオラのことを不憫に思ってか、ハリーはこうしてちょくちょく様子を伺いに来てくれていた。有能な彼の手を借りられたのも、早くに準備を終えられた理由のひとつだ。


「いえ、問題ありません。既に完了しましたので」


 ヴィオラがそう言うと、彼は無表情の中にホッとしたような安堵の感情をのぞかせた。


「今回の件は本当にありがとうございました。先生は事務仕事にもそつがありませんね」

「グレイス夫人が優秀だからですよ。学生たちも頑張ってくれましたしね」


 実際、学生たちは本当によくやってくれた。結果的には三十名ほどの学生がボランティアとして集まり、明日の学会当日も彼らが運営に協力してくれる事になっている。


「特にレヴィンス研究室のリベラ君はよく働いてくれました。教授に伝えて、褒めておいてあげてください」

「……わかりました」


 そう返事をしたハリーがなぜか少し驚いているようにも見えたが、その理由はヴィオラにはわからなかった。


 そして、ハリーはそのまま研究室を後にしようとした。が、ふと何かを思い出したようでこちらを振り返る。


「リーヴス先生、たまにはオリヴァー殿下にも会ってあげてくださいね」


 彼は少し困ったように眉を下げてそう言った。ハリーからの思いがけない言葉に、ヴィオラは思わず目をまん丸にして固まる。仕事人間の彼が私的な話をしてくるのは滅多にないので、心底驚かされたのだ。


 すると、その言葉にグレイス夫人が反応した。彼女も彼女で目を大きく見開いている。


「え? お会いしていないんですか? 一緒に暮らしていらっしゃるのでしょう?」


 信じられないという表情の彼女に、ヴィオラは苦笑を返した。


「学会準備で忙しくて、ここ三週間くらい寮で寝泊まりしていたもので」

「なんと……まあ……!」


 グレイス夫人の顔からサアッと血の気が引いていく。やってしまったという表情だ。彼女は両手を口元に当てしばらく固まった後、とうとう狼狽し始めた。


「どうして気づかなかったのかしら! 先生、早く帰ってください! さあ、今すぐ!」


 急に慌てて帰らせようとする夫人に、ヴィオラはただただ困惑した。一体どうしたというのだろう。


「え、これから実験をしようかと……それにまだ夕方ですし……」

「いいから! 早く! 旦那様にはわたくしからご連絡しておきますので!!」

「えぇ……」


 グレイス夫人のすごい剣幕に気圧されたヴィオラは、こうして無理やり帰宅させられたのであった。



***



 ヴィオラが三週間ぶりに家に帰ると、程なくして息を切らしたオリヴァーも帰ってきた。余程急いで帰ってきたのか、額には汗が浮かんでいる。


「おかえり、オリヴァー。どうしたんだ、そんなに慌てて帰ってきて」


 怪訝そうな顔でそう尋ねると、彼は息を整えながら言葉を返した。


「ヴィオラが帰って来ると聞いたので……」

「仕事は?」

「もちろん、終わらせてきましたよ」


 彼はいつものようににこりと微笑んだ。会うのは確かに久しぶりだが、そんなに慌てて帰ってこなくても、と思う。どうせ明日の朝食は一緒に取るのだし、その時に十分喋れるだろう。


「会いたかったです、ヴィオラ」


 そう言ってオリヴァーは、この上なく優しく微笑みかけてくる。愛しくて仕方ないと言わんばかりに、その端正な顔立ち全てでこちらへの愛情を表現してくるのだ。しかし、彼は基本的に許可なくこちらに触れてくることはしない。とても誠実な人だと思う。


 彼のこういった言動には流石にもう慣れてきたが、久しぶりに彼のこの表情を見たので、少し心がざわついた。こちらからは一切何も返すつもりがないので、申し訳なく感じるのだ。


 自分に会うために急いで帰ってきた彼にせめてもと思い、ヴィオラは微笑みを返してこう言った。


「夕食でも一緒に取るか」


 その提案に、オリヴァーはくしゃりと嬉しそうに笑う。


「はい、ヴィオラ」


 そうして、二人は共に夕食をとり、しばしの歓談を楽しんだのだった。


 

 夕食後、ヴィオラは久しぶりにゆっくりと湯浴みをし、寝支度を整えた後、自室の文机で論文を読み漁っていた。


「少し小腹が空いたな……」


 時計を見ると、もうとっくに日付が変わっていた。ずっと集中していたので、時間が飛んだ感覚だ。


(もうこんな時間か。流石に明日に備えて寝ないとな)


 そう思ったのだが、論文を読んでいたせいで頭が冴えてしまっているのと、少しの空腹でしばらく眠れそうになかった。そこでヴィオラは、少々行儀が悪いとも思いつつ、夜中の厨房へ向かうことにした。


(ホットミルクでも作ろうか)


 屋敷はとっくに寝静まっていて、もちろん厨房にはヴィオラ一人だ。適当に鍋を拝借してミルクを温めていると、突然声をかけられた。


「こんな時間にどうしたんですか?」

「ひゃあッ!」


 こんな時間に誰かが起きているとは思わず、ヴィオラは盛大に驚いて悲鳴を上げてしまった。心臓がバクバクと音を立てる中、声のした方に目を向けると、寝衣姿のオリヴァーが佇んでいた。


「っくりしたあ……」

「すみません、驚かせるつもりでは」


 こちらの声に驚いたのか、彼も彼で目を丸くしている。


「いや、こちらこそ大声を出してすまない。論文を読んでいたら、少し遅くなってしまってね。寝付けないからホットミルクでも飲もうとしていたところだ」


 その言葉と甘い香りに釣られ、オリヴァーがこちらへ引き寄せられるように近づいてきた。そして鍋を覗き込み、優しく微笑む。


「いいですね。美味しそうだ」

「少し多めに作ったんだが、君も飲むか?」


 オリヴァーを見上げてそう提案すると、彼はにこりと嬉しそうに笑って「ありがとうございます」と礼を言った。


「そういう君は、どうしてこんな時間まで?」


 ミルクが温まるのを待ちながら素朴な疑問を投げかけると、オリヴァーの視線が少し泳いだ。


「ああ……僕もヴィオラと似たような理由です」

「今日早く帰る代わりに持ち帰ってきた仕事を片付けていた、とかか?」

 

 ニヤリと確信めいた笑みを浮かべてそう返すと、彼の視線がさらに忙しなく動いた。どうやら図星らしい。そして彼はとうとう誤魔化すのを諦めて苦笑を漏らした。


「ヴィオラには全てお見通しでしたか。でも、もう終わりました」

「そうか、お疲れ様。すまないね、私が急に帰ってきたばかりに」

「いえ、一日でも早く会いたかったので、嬉しかったです」


 屈託のない笑顔でそう言う彼を見ていると、罪悪感とでもいう感情が自分の中に蓄積されていく。応えるつもりがないのに無垢な好意を向けられると、流石に思うところがあるのだ。

 今はこれ以上彼の甘い言葉を聞きたくないと思ったところ、丁度ミルクが温まってくれたのでこの話題を切り上げた。


 そしてホットミルクを持って居間に行き、二人並んでソファに腰掛ける。カップから手のひらに伝わる温もりとミルクの甘い香りが、冴えた脳を落ち着けていく。


「学会準備は問題なく?」


 オリヴァーの低く穏やかな声が耳に響いてくる。落ち着いた彼の声はとても聞き心地が良い。寝る前に彼の声を聞くのは初めてだが、これは程よく眠気を運んでくれそうだ。


「ああ、つつがなく終わったよ。特に学生のボランティアの皆にはとても助けられた」


 何気なく返した言葉に、オリヴァーはなぜか少し表情を固くした。そしてムスッとした表情でこんなことを言ってくる。


「……ヴィオラに色目を使う輩がいないか心配です」


 彼の表情と発言の内容があまりにも可笑しくて、ヴィオラは思わず吹き出した。


「ハハッ! 私に限ってそれはないだろう! 私に言い寄ってくる男なんて物好きな君くらいだ。ああ、でも最近になって、一人よく質問に来てくれる子がいるな。昔の君みたいだ」


 時間が解決してくれたのか、オリヴァーが何かしたのかはわからないが、大学に流れていたヴィオラの悪い噂はとっくに消え去っていた。今となっては、学生たちとの間に感じていた壁はすっかりなくなっている。


「……名前は?」


 彼の声が少し冷たいものに聞こえ、思わずビクリと肩が跳ねた。何か気に障ることでも言ったかと思い彼の表情を見ると、やはりわずかに険しさを帯びている。学生に嫉妬でもしたのかと思ったが、仮にも婚姻関係を結んでいる身だ。それはないだろう。


「レヴィンス研究室のアルバート・リベラ君。学会準備にも協力してくれた、非常に優秀な生徒だよ」


 名前を口にした時、わずかに彼の表情が一層険しくなったような気がしたが、一瞬すぎてわからなかった。


「……僕より?」


 すぐにそう尋ねてきた彼からは、既に冷たさや険しさは消えていた。代わりに、少し拗ねたような表情をしている。


(自分より可愛がられている生徒がいると思って不満だったのか)


 そう思うとなんだか目の前の彼が途端に可愛らしく思えてきて、ヴィオラはフフッと微笑んだ。


「まさか。君みたいに飛び抜けて優秀な生徒がそんなにわんさかいたら、教職が不要になってしまうよ」


 その回答に満足したのか、オリヴァーはまたいつものようににこりと笑っていた。


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