13.悪魔の来訪
学会の準備に追われてしばらく大学寮で寝泊まりしていたヴィオラは、この日久しぶりに屋敷へと戻ってきていた。今日、妹のキャロルが家にやって来るのだ。
屋敷に戻った途端、ヴィオラは何事かと驚いた。家中の使用人たちが随分とピリついていたからだ。まるでこれから戦争でも始まるのかと思うくらい、皆が気合を入れて険しい顔をしていた。
「ヴィオラ!」
帰宅を知ったオリヴァーが玄関まで走ってくる。ヴィオラはここ数日大学にこもりきりだったので、彼と会うのは約一週間ぶりだ。喜びに満ちた顔の彼が腕を広げて駆け寄って来る。そして、ヴィオラの目の前ではたと気づいたようにピタリと止まった。
「……再会の抱擁をしても?」
勢いに任せて抱きついてこなかったことは褒めよう。だが実際にするかどうかは別の話だ。
「たかが一週間で何を言ってるんだ」
呆れたようにそう返すと、オリヴァーはあからさまに寂しそうな表情になった。それが少し可哀想に思えてきて、やれやれというように苦笑する。
「ただいま、オリヴァー」
「はい、おかえりなさい、ヴィオラ」
久しぶりに名前を呼ばれたのが余程嬉しかったのか、オリヴァーはすぐに機嫌を取り戻していた。すると、彼の後ろからまた誰かが駆け寄ってくる。
「ヴィオラ様! お支度をしましょう!」
「お時間がございません! ささ、お部屋へ参りましょう!」
鼻息を荒くして声をかけてきたのは、侍女のララとリリだ。彼女たちも他の使用人と同様、非常に気合の入った面持ちをしている。二人のあまりの勢いに、ヴィオラは少々気圧された。
「そ、そんなに気合を入れなくても……」
「何を仰いますか、ヴィオラ様!」
「これは女の戦いです! ヴィオラ様の方が何倍も格上だということを見せつけてやらねば!」
その後、二人の勢いを止めることは出来ず、ヴィオラはそのままあれよあれよと身支度を整えられていった。
そして、程なくしてキャロルが尋ねてきた。
彼女の来訪がわかった途端、家中の者が「敵が来たぞ!!」と言わんばかりに、顔の険しさを強めていた。ヴィオラはそれがなんだか妙に可笑しくて、でも心強くて仕方がなかった。これほどまでに味方がいる環境は、ヴィオラにとっては珍しい。
キャロルが待つ応接室へオリヴァーと共に向かうと、彼は部屋に入る前に突然立ち止まった。そして、徐ろにヴィオラの耳元に口を寄せ、小さな声で低く囁いてくる。
「安心してください、ヴィオラ。僕の心は、あなただけのものだ」
「…………」
(こんな時にそんな甘ったるいことを言うな馬鹿者……!)
彼の無駄に良い声は心臓に悪い。それが囁き声だとなおさらだ。ヴィオラは妙な感情が湧き上がってくるのをグッと堪え、「行こう」と言って扉を開けた。
「お久しぶりですわね、お姉様!」
二人が部屋に入ると、キャロルはその可愛らしい顔をパッと明るくした。相変わらず身なりは完璧で、ピンクブロンドの髪を緩やかに巻き、淡い黄色のドレスを着こなしている。そしてオリヴァーを見た途端、彼女は案の定その頬を薄紅色に染め、まるで恋する乙女のように大きな瞳をキラキラと輝かせていた。
「はじめまして、ルークラフト公爵閣下。わたくしはオードニー伯爵家夫人のキャロルと申します。お会いできて光栄ですわ」
彼女は丁寧な所作で挨拶をすると、オリヴァーに向かってにこりと甘く微笑みかける。大抵の男ならこれで鼻の下を大きく伸ばすところだが、彼はどうだろうか。
気になってふと隣の彼を見上げると、予想外な反応をしていて驚いた。彼のその顔には何の感情も浮かんでおらず、全くの無表情だったのだ。目の前の相手にまるで興味がない様子だ。
その後、三人がソファに腰掛けると、向かいのキャロルがむぅと不満げに唇を尖らせて言った。
「結婚のことを教えてくれないなんて、水臭いじゃありませんか、お姉様」
「すまなかったな。いろいろとバタついていて」
ヴィオラの返答に、キャロルは心底驚いたようにその大きな瞳をさらに大きく見開く。
「まあ、お姉様ったら、まだそんな口調ですの? 流石に公爵家の夫人として、それはどうかと思いますわ」
(もっともな指摘をどうもありがとう……)
これはヴィオラ自身も思っていることだ。百人いたら百人が同じ指摘をしてくるだろう。今のキャロルの発言は嫌がらせの言葉ではなく、ただ単に心の底から出た言葉だ。
ふと隣を見ると、オリヴァーが優しい表情でこちらを見つめていた。
「僕がありのままでとお願いしているんです。ヴィオラの言葉遣いが、とても好きなもので」
「…………」
(こんな言葉遣いを好む男なんて君くらいだろうよ……)
呆れたような顔を返すと、オリヴァーはクスクスと笑っていた。そして、彼はキャロルに向かって真剣な表情を向ける。
「それと、僕達の結婚のことは秘密にしておいてください。彼女の意向もあって、あまり表立って公言していないもので。知る人も随分と限られているんですよ」
それは言外に「もし広まっていたらお前のせいだと一発でわかるからな」と釘を刺しているようにも聞こえた。彼の牽制に少し驚く。
「わかりましたわ」
キャロルはにこりと笑っていた。狡猾な彼女のことだ。誰かに秘密を漏らすにしても、こちらにバレるような真似はしないだろう。
その後三人は、しばらく世間話を交わしていた。向かいのキャロルは品よく笑いながら、オリヴァーと楽しそうに会話を弾ませている。
彼女は場を盛り上げることに長けている。提供する話題、返事の間、笑顔を見せるタイミング。その全てが計算し尽くされているのだ。
「お姉様は、研究の方は順調ですの?」
「ああ、まあ、程々にな」
話題が自分の方に移ってきた。今までの経験からすると、ここからキャロルの攻撃が始まる。そして彼女は、姉の負の感情を引き出そうと虎視眈々とその機会を狙っているのだ。そんなキャロルにこちらの反応を見せるのも癪なので、心を無にしようとひとつ息を吐く。
「ヴィオラはとても優秀な研究者ですよ。この国の宝と言っていいほどです」
突然のオリヴァーからの最大級の褒め言葉に、無にしていた感情がピクリと動く。国の宝だなんて何とも大袈裟な表現だが、優秀な彼から褒められて悪い気はしない。
ヴィオラがかすかな喜びを感じていると、向かいのキャロルがあのねっとりした声を上げたので、その感情もすぐに消えてしまった。代わりに残ったのは、寒々とした白けた感情だけだ。
「お姉様は昔から秀才でしたものね。貴族学校では万年一位だったから、いろんな噂が耐えなかったんですのよ?」
来るな、と思った。キャロル劇場が今まさに始まろうとしている。ヴィオラは目を伏せ、また心を無にする。
「へえ、どんな噂です?」
そう尋ねたのはオリヴァーだ。その声は、どこか挑戦的なようにも聞こえた。
「毎回一位を死守するために、人の答案用紙を覗き見してた、とか」
(カンニングしてたのはお前の方だろう)
あろうことか自分のことを棚に上げて根も葉もない噂を立てる妹に、怒りよりも呆れが勝る。言葉を返すのが面倒で黙っていると、オリヴァーが嘲笑を浮かべながらこう言った。
「それはおかしいですね。それで一位になったなら、少なくとももう一人、同率一位の人間が存在することになります」
「あら、それもそうですわね。まあ、あくまで噂ですので」
オリヴァーの指摘をキャロルは意にも介さず、にこりと笑って躱してみせた。そして、今度はキャロルの方がわずかながらの嘲笑を浮かべる。
「ああ、そういえば、男性教師に色目を使って事前に解答を教えてもらっていた、なんて噂も――」
カチャン、という音が部屋に響いた。それは、オリヴァーが手に持っていたカップとソーサーを乱雑に置いた音で、わざと立てられたのは他の二人の目にも明らかだった。ヴィオラが驚いてオリヴァーを見上げると、彼は無表情の中に冷ややかさが混じったような顔をしていた。そして、その綺麗な形の唇が開かれる。
「不愉快です」
低く鋭い声で発せられた一言に、キャロルは何が起きたのか理解できない様子で固まっていた。
「……え?」
「妻の悪い噂ばかり言うあなたが、非常に不愉快です。お引き取りを」
オリヴァーに淡々とそう言われ、ようやく状況を理解したキャロルは焦りだした。
「え、あの、そういうつもりじゃ」
キャロルは慌てて弁明しようとする。しかし、オリヴァーはその様子に苛立ちを見せ、とうとう彼女を鋭く睨みつけた。
「聞こえなかったのか? 帰れ、と言ったんだ」
低くドスの効いた声に、キャロルの肩がビクリと跳ねる。彼の初めて見る一面に、ヴィオラも驚きを隠せなかった。
(もしかして、私の前では猫を被っているのか……?)
そう思えるほどに、彼の態度は威圧的だった。いつもは基本にこやかに笑っていて、比較的穏やかな人物だと思っていたが、今はまるで別人に見える。
「……は、はい」
消え入るような声で返事をしたキャロルは、顔を青くしながらそそくさと帰っていった。そして、応接室にはヴィオラとオリヴァーだけが残される。隣の彼は、なぜか少し気まずそうに沈黙していた。
「君はああいう一面もあるんだな。少し意外だった」
ヴィオラが沈黙を破ると、オリヴァーの顔がさらに陰る。
「……幻滅しましたか?」
どうやら気まずそうにしていたのは、さっきの態度を気にしてのことだったらしい。どちらが彼の素なのかはわからないが、ヴィオラにとっては瑣末事だった。どちらも彼であることに変わりはないし、誰だって裏表くらいあるだろう。
「いや、スッキリした。ありがとう」
キャロルがここまで完膚なきまでに叩きのめされるところを見るのは初めてだった。それに少しの爽快感を覚えるのと同時に、妹に全くなびかなかったオリヴァーを見て、少しホッとしている自分がいる。
ヴィオラの言葉を聞いたオリヴァーは、一瞬驚いたように目を見開いた後、すぐにいつものように微笑んでいた。そして何を思ったのか、横たわってこちらの膝の上にゴロンと頭を乗せてくる。
上を向いた彼と、自然と目が合う。いたずらっ子のように笑う彼に、ヴィオラは冷ややかな視線を向けた。
「……おい」
「妹君の声で耳が汚れました。ヴィオラの声を聞かせてください」
思っても見ないことを言われ、ヴィオラは目を丸くする。「耳が汚れた」なんて随分な言われようで内心笑ってしまった。そして、ふと思い直す。彼は妹を追い返してくれた功労者と言えるだろう。少しくらいご褒美をあげないといけない気がしてくる。
「妹の来訪に付き合わせてすまなかった。お詫びに、学会が終わったら君のわがままを一つ聞こう」
その言葉を聞いた途端、彼の瞳がパッと見開かれ輝いた。そしてまたいつものようににこりと笑い、無駄に良い低い声で返事をしてくる。
「約束ですよ?」
「ああ。約束だ」
こうして、嵐のような妹の来訪は、彼のおかげで心穏やかに終えることが出来たのだった。