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12.大忙しの予感


 それは、オリヴァーと結婚して二ヶ月ほど経った頃のことだった。


「学会準備の担当?」


 ヴィオラは眉根を寄せて思わず声を上げていた。


 ここはヴィオラの研究室。部屋にはグレイス夫人ともう一人、事務局員のハリー・レッドメインがいた。

 

 かっちりとした装いに黒縁メガネをかけた彼は、大学の管理や運営を行っており、ヴィオラも何度かお世話になったことのある人物だ。ヴィオラと四つほどしか歳が離れていないにも関わらず、彼は事務局の中でも中枢に近い立場にいる、言わばエリートである。


 そして、ヴィオラを除くこの場の二人は、どちらもオリヴァーとは旧知の関係だ。それ故、ヴィオラの結婚を知る数少ない大学関係者でもある。諸々の手続きの都合上、この二人には結婚のことを知らせざるを得なかったというのもあるが。


 すると、ハリーが眼鏡の位置を直しながら涼しげな顔で話し出す。


「はい。先ほど教授会で決まりまして。いい経験になるだろうから、だそうです」

「…………」


 こういう時の「いい経験になるだろうから」というのは、面倒事を押し付けるのに何と便利な言葉なんだろう。


 年に一度開催される魔術学会は、各大学が持ち回りで主催をすることになっている。今年はここグリッジ大学が会場となるのだ。

 それなりに規模の大きい学会で、準備はかなり大変になるのだが、どうやらヴィオラがその担当になることが教授会で決まってしまったらしい。教授会とはその名の通り、この大学の教授たちの会合のことだ。

 ヴィオラは准教授という立場なので、もちろん教授会には参加していない。要は、本人のいない場で面倒事を押し付けられたというわけだ。


「まあっ! 勝手だこと! 先生がいらっしゃらない場でそんなことを決めてしまうなんて!」


 憤りを隠すこと無くグレイス夫人が声を上げた。彼女は良くも悪くも誰に対しても臆さない性格なので、こういった場でもきっちりと自分の意見を言うことが多い。かくいうヴィオラもそういうタチであるので、彼女の発言に続けて抗議の意を唱えた。


「うちの研究室はこの通り学生が一人もいないのですが、まさか私とグレイス夫人だけで準備をしろと?」


 それははっきり言って無理だ。基調講演に呼ぶ教授の選定と打診、学会プログラムの作成、会場の設営、懇親会の準備、当日の運営……やるべきことを挙げればきりがない。


 ヴィオラが眉根を寄せながら抗議するも、ハリーは表情を一つも変えず淡々と言葉を返してくる。


「そこはもちろんご安心を。各研究室からボランティアの学生を募りますので」


 彼は一言で言えば仕事人間だ。いつも静かに涼しげな顔で淡々と仕事をこなす。そこには一切の情というものが存在しない。周囲からは冷たいと評されることもあるが、有能で無駄のない彼の仕事ぶりは、ヴィオラにとっては好ましいものだった。ただ、今この時においてはその有能ぶりが少々憎い。


(これは逃げられないな……)


 そう思い、ヴィオラは溜息をつく。


 まあ、教授陣が言うように「いい経験」になるかもしれない。他大学の教授たちと交流を図る良い機会だ。

 いつもなら自分の研究を優先して何としてでも断ろうとしたところだが、そんなことを思うのは、オリヴァーとのデートで外の世界に出るのもたまには悪くないと感じさせられたからだろうか。


「わかりました、引き受けましょう。学会の日程はいつですか?」


 何気なく聞いた問いの答えに、ヴィオラはこの役目を安易に引き受けたことを後悔することになる。


「一ヶ月後です」

「いっ……」


 思わず言葉を失った。学会準備とは、遅くとも半年前からするものである。講演に呼ぶ先生のスケジュール調整などをしなければならないからだ。


 ヴィオラは鈍い頭痛を覚えながら、眉を顰めて尋ねた。


「……なぜそんなことに?」

「最近になって事務局側が教授陣に今年は誰が準備をされているのか確認したところ……その……」


 いつも表情を崩さないハリーが、今回ばかりは非常に申し訳無さそうに口ごもる。大体の状況を理解したヴィオラが、彼の言葉を引き継いだ。


「つまり、教授陣が皆忘れていたと……」


 研究者というのは困った生き物で、一度研究にのめり込むと周囲が見えなくなる。研究第一で、事務仕事は二の次だ。ヴィオラもたまにそういう時があるので、教授たちを責める気にもなれなかった。


「はい……こちらとしても、もう少し早く確認すべきでした。申し訳ありません」


 そう言って、ハリーは律儀に頭を下げてくる。彼もただ教授会の決定事項の伝達を頼まれただけだろう。彼に文句を言うのはお門違いだ。ヴィオラは諦めの深い溜息をついた。


「基調講演はうちの大学の教授陣にお願いすることにします」

「それが賢明かと。我々事務局も全力で協力しますので、何かあれば遠慮せず仰ってください」


 今回は事務局側も相当責任を感じているらしく、色々と助力をしてもらえそうだ。学生のボランティアと合わせて、これなら何とかなりそうな気がしてきた。


「ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ引き受けてくださってありがとうございます。後ほど学会準備の詳しい説明に伺いますので。それでは」


 そう言って、ハリーは研究室を去っていった。彼の背中を見送った後、グレイス夫人が怒った口調で声をかけてくる。


「先生! よろしいのですか?!」


 ヴィオラは苦笑を浮かべると、彼女をなだめるように言葉を返す。


「教授会で決まったことなので、仕方ありません。負担をおかけして申し訳ありませんが、ご協力よろしくお願いします」

「それは全く構わないのですが……あまり無理してはいけませんよ、先生?」


 ヴィオラの言葉に、グレイス夫人は一旦は溜飲を下げてくれたようだった。あのままだと教授会に怒鳴り込みに行きそうな勢いだったので、内心少しホッとする。


(しばらくは家に帰らず寮生活かな……)


 やるべきことを頭の中に列挙して、ヴィオラは冷静にそう判断した。



***



 翌朝、ヴィオラは朝食を取りがてら、学会準備の担当になってしまったことをオリヴァーに話した。


「すみません。僕も手伝えればよかったのですが、あいにく今仕事が立て込んでいて……」


 オリヴァーは悔しそうにそう言ってくれた。もし仮に彼の手が空いていたとしても、わざわざ殿下のお手を拝借するのは気が引けるので断っていただろう。


「気にしないでくれ。ボランティアの学生を広く集めてくれるらしいから」


 ヴィオラがそう言っても、オリヴァーは大層不満顔だ。眉根を寄せ、形の良い唇を尖らせている。


「でも、わざわざ人数の少ないヴィオラの研究室に頼まなくても……大学側には抗議を入れておきます」

「やめろよ? 絶対にやめろよ?」


 ヴィオラは全力で止めた。この男なら本当にやりかねない。オリヴァーは教育機関を管理する立場にあるので、彼から苦情が入ろうものなら、それはもうとんでもないことになるのは目に見えている。波風は立てないに越したことはない。


 ヴィオラが厳しく止めたので、オリヴァーは渋々「わかりました」と言っていた。本当にわかっているのか不安になるが、彼がこちらの機嫌を損ねるような真似はしないだろう。


 そしてヴィオラは、もうひとつ言っておくべきことを彼に伝える。


「ああ、それと。しばらく学会準備で忙しくなりそうだから、学会が終わるまでは寮で寝泊まりするよ」

「えっ……」


 オリヴァーは驚きの声を上げた後、ピクリとも動かなくなってしまった。まるで彼の周りだけ時間が止まっているようだ。

 そんなに驚くことでもないだろうと思ったが、一応どうしたんだと尋ねようと口を開いた時、食堂に慌てた様子のララとリリが入ってきた。


「失礼いたします!」

「ヴィオラ様……お手紙が……!」


 突然の喧騒にオリヴァーはハッと我に返ったらしい。食事の邪魔をされたのが腹立たしかったのか、彼は眉間に皺を寄せながら二人を窘める。


「食事中だぞ」

「申し訳ありません。でも……」 


 ララとリリの顔は少し青白くなっている。そして、ララの手には可愛らしい便箋が握られていた。普段なら主人の食事の邪魔をするなど絶対にしない二人だ。彼女たちの様子がおかしい原因は、恐らくその便箋だろう。


「構わないよ。見せて」


 二人を落ち着かせるように穏やかな口調でそう言うと、ヴィオラはララから便箋を受け取った。差出人の名を見て、わずかに表情が固まる。彼女たちの反応で予想はしていたが、いざその名を見ると内心げんなりする。


 すると、ヴィオラの顔が一瞬陰ったのを見逃さなかったオリヴァーが、鋭く問うてくる。


「妹君からですか?」


 そう。手紙の送り主は妹のキャロルだった。この家の者は皆、オリヴァーからキャロルの所業を聞かされているようで、ララとリリの反応はそれ故のものだった。


 的確に答えを言い当てた彼に、ヴィオラは苦笑を返す。


「よくわかったな」


 そして、ふぅとひとつ溜息をついてから、やれやれというようにわざとらしく肩をすくめた。大したことではないと、相手に伝わるように。


「どうやら結婚の話を耳にしたらしい。私の両親から聞いたんだろう。近々この家に挨拶に来ると言っている。私だけで対応するから、君は気にしないでくれ」


 その言葉を聞いた途端、オリヴァーは今まで見たことがないほど顔を顰め、すぐにこう言ってきた。


「いえ、僕も同席させてください」

「……断る」


 彼の言葉に、ヴィオラも眉根を寄せた。


 正直、キャロルとオリヴァーを会わせるのは面倒だった。見目麗しい美丈夫であるオリヴァーを見たキャロルが取る行動は、手に取るようにわかる。お互いが既婚者であることなど関係なく、彼に色目を使い、こちらの評判をそれとなく下げようとするに決まっている。

 別に自分の評判が下がること自体は一向に構わないのだが、その会話を聞いているのが極めて不快なのだ。あのねっとりとした娼婦のような声を思い出すと、気持ちが悪くて身震いがする。


 しかし彼は引き下がる様子を一切見せず、真剣な表情で言葉を返してきた。


「あなたをひとりにさせたくない」


 予想外の言葉に呆気にとられ、ヴィオラはほんの少しの間だけ呆けてしまった。

 オリヴァーの金色の瞳は、こちらを射抜くように真っ直ぐに向けられている。彼が折れないことを悟ったヴィオラは、深い溜息をつきながら投げやりに言った。


「……わかった。好きにしろ」


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