9.新婚生活
オリヴァーが用意した屋敷に越してきて、数日が経った頃。
ヴィオラは大学寮にある荷物をあらかた家に運び終え、ようやく新生活にも慣れてきたところだった。
徹夜で研究することもザラにあるので寮の部屋はまだ残していて、最低限仮眠を取れるようにしてある。大学では結婚したことは隠しているため、その点においても寮の部屋は残しておいて正解だった。急に退去しては、妙な噂が立ちかねない。
ヴィオラは窓から入ってくる優しい朝日で目を覚まし、大きく伸びをした。
寝室はもちろん別だ。といっても、二人用の寝室も用意はされているらしい。オリヴァーから「想いが通じ合うまではひとまず各々の部屋で」と言われた時は、本当にげんなりした。
「「おはようございます、ヴィオラ様!」」
元気よく挨拶をして中に入ってきたのは、双子の侍女、ララとリリだ。頭に赤いリボンを結んでいるのが姉のララ。青いリボンの方が妹のリリである。
彼女たちはオリヴァーの側近、エドワード・ブラウンの妹で、ブラウン家は昔から王族に仕える一族らしい。オリヴァーが王城から新居に移るにあたって、彼らもついてきたというわけだ。確かエドワードが二十八歳で、ララとリリが二十歳のはずだ。
「おはよう。ララ、リリ」
この屋敷の使用人たちは全員、この結婚の事情を事細かに知っている。それこそ、契約に関することまで。それもあってか、屋敷中の人間がヴィオラに対してこれでもかというほど優しく接してくれるのだ。そういうのはあまり慣れていないので、ヴィオラは何ともむず痒い日々を送っている。
さらにはオリヴァーから「屋敷でも普段通りで」と言われてしまったので、使用人に対してもいつも通り振る舞っている。流石に公爵家夫人としてどうなんだとも思ったが、ヴィオラはもうこの際どうにでもなれと思い、遠慮なく普段通りの口調や服装で過ごしている次第だ。
身支度を終え、ヴィオラは食堂へと向かった。朝食だけはせめて一緒に、とオリヴァーにお願いされ、ヴィオラは毎日彼と共に朝食を取っている。
「ヴィオラ、おはようございます」
彼は相変わらず無駄に良い低い声でにこやかに挨拶をしてきた。その爽やかな風貌も相まって、何とも絵になる青年だ。
「ああ、おはよう」
ヴィオラがいつものように愛想のない返事をすると、彼は少し苦笑しながらこう言ってきた。
「夫婦になったので、そろそろ名前を呼んではくれませんか?」
オリヴァーは結婚してから、屋敷の中では「ヴィオラ」と呼ぶようになった。対してヴィオラは、一貫して「君」としか呼ばない。
ヴィオラは黙々と食事を取りながら、厳しい言葉を彼に返した。
「本名を偽るような人間の名を、呼びたいとは思わないな」
ヴィオラは彼が身分を偽っていたことに、少々腹を立てていた。それで騙されて契約を結んでしまったからではない。自分のことを愛しているというのなら、初めから本物の「オリヴァー・ルークラフト」として自分と向き合って欲しかったのだ。それがなぜかと言われると、上手く言葉にできない。
「その件は、本当に申し訳なく……」
しおしおと項垂れるオリヴァーを見て、流石に言い過ぎたと思い言葉を付け足す。
「悪かった、今のは言いすぎた。だが、大学の人間に君と結婚したことを知られたくないんだ。王族と結婚したとなれば、それだけで色眼鏡で見られる。私は、あくまで一個人としての評価を受けたい。自分の実力で戦いたいんだ」
結婚のことは最低限の人間にしか明かしていない。大学関係者で知る者は、ほんのわずかだ。研究室の名前も「リーヴス研究室」のままにしてある。
自分の領域に、余計な要素を入れたくなかった。あの場所は、自分のための、自分だけの場所だから。
真剣な表情のヴィオラに、オリヴァーは一瞬目を見開いた後、とても優しい笑みを浮かべた。
「ヴィオラのそういうところ、本当に大好きです」
「…………」
結婚してからというもの、この男のこういう発言が顕著に増えた。何かに付けて「愛している」だの「好きだ」だの、愛の言葉を囁いてくる。そのたびに、どういう反応をすればいいか困ってしまうのだ。
少々気まずくなったヴィオラは、ごまかすように会話を戻す。
「どうしてそんなに名前を呼ばれたいんだ?」
「なぜ……僕がヴィオラに、ヴィオラの声で、そう呼ばれたいから、ですかね。好きな人に名前を呼んで欲しいと思うのは、自然な感情だと思いますが」
「…………」
無垢な顔でそう言われ、ヴィオラはまた何も言えなくなってしまった。しばらく固まった後、諦めたように深い溜息をつく。こうして何度彼のお願いに折れたことだろうか。
「わかったよ、オリヴァー。大学以外でならな」
「ありがとうございます、ヴィオラ!」
彼は嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。対するヴィオラは、こうやって一つひとつ譲歩が増えていくことに、そこはかとない不安を感じていた。
また黙々と食事を取っていると、オリヴァーが機嫌の良さそうな声で話しかけてくる。
「ヴィオラ。今週末、空いてますか?」
「特に予定はないから、大学に行って研究の続きでもしようと思っていた。どうした?」
皿から顔を上げてオリヴァーの方を見ると、彼の美しい金色の瞳と目が合った。
「僕とデートしてくれませんか?」
「断る」
即答したヴィオラに、オリヴァーはフフッと笑い出す。結婚してからというもの、こういった会話は日常茶飯事なのだが、彼はこちらの反応を楽しんでいる節がある。
「理由を聞いても?」
「君と出かける理由がない」
ヴィオラが素っ気なく答えると、オリヴァーは「ふむ」と言ってしばし考え込む。そして、妙案を思いつたのか、パッと表情を明るくしてこんな提案をしてきた。
「わかりました。では、こういうのはいかがですか? 僕は全力であなたを楽しませます。もしヴィオラが一時間に一回でも楽しいと思えなかったら、その時点で帰っていただいて構いません。いかがでしょう」
彼の顔には、時折見せる挑発的な笑みが浮かんでいる。負けず嫌いなヴィオラは、この生意気な表情を見ると、途端に闘争心を掻き立てられるのだ。
「……わかった。空けておく」
(一度デートをして散々な結果になれば、彼も二度と誘わなくなるだろう)
そうして二人は、初めてのデートに出かけることになったのだ。