「わたしの正義を拳に乗せて、叩いて直そう、この世界!」
※※※
「もう手遅れじゃねえかよおおお!!」
八兵衛、と呼ばれた少年は絶叫しながら走る。
階上で紅蛾太夫にことづかった「逃げろ」という伝言は、もはやなんの意味もなかった。
地下空洞への階段を駆け降りている最中に通路が突如崩落。全速力で走った結果なんとか潰されずに地下空洞に辿り着くも、そこには見上げんばかりの謎の朱色の巨人が暴れ回り、降り注ぐは岩石の雨。
「どうしろってんだよ、これええ!」
こんなつもりじゃなかった。光圀がさくっと子悪党を懲らしめて、この街での世直しを完了。美味い団子を頂いてとっととずらかる、はずだったのに。
などと考えていると。
つまづいて転ぶ。まずい。止まったら石に潰される。慌てて立ち上がろうとしたその時。
「!!!」
目の前に、一抱え以上はある岩石が落下した。そこでつまづいてなかったら、今頃は。自分の眼前に落下した岩の禍々しい形を見て、涙が滲む。
怖い。怖い怖い怖い。
すぐに立ち上がらなければ、また岩が降ってくる。そう思うのに、足に力が入らない。
やばい、腰が抜けている。青ざめる。
立て続け、視界に大きな影がかかる。慌てて見上げると、先ほどのよりもさらに二回りはあろうかというほどの丸い岩石が落下してきた。
完全に直撃コース。
死ぬ。
恐怖のあまり八兵衛は目を固く閉じる、ことすらできなかった。
迫る岩石から視線を外せない。
だから。
その様をはっきりと見ることができた。
「はちべえーーっ!」
巨躯の少女が、全力疾走からのドロップキックで巨岩を粉砕する様を。
「光圀……!」
「大丈夫? けがはない?」
舞い散る石片のなか身を起こしながら微笑む光圀に、しかし八兵衛は笑顔を返せない。恐怖の表情のまま、無言で頷いた。
[[すばしっこい奴らだなあ。もう逃げ場なんざどこにもねえんだ、とっとと諦めればいいものを]]
巨人から聞こえる大音声に、光圀は身構える。落石をなんとか掻い潜った助けさん、格さんも息を切らしながら光圀の傍に合流した。
「まだるっこしいのはもう終わりだ。この俺が、直接叩き潰してやる」
吠えると、朱の巨人が歩き始めた。巨体の割に、動きが速い。振り下ろした腕が、光圀達がいた床の岩盤を叩き割った。すんでのところで飛び退く。
「くそ、デカブツのくせに速え!」
「なんとか注意を逸らしましょう。その隙に、お嬢はあの胸の石に取り付いて、印籠で浄化を」
「だね!」
光圀は強く頷く。が、しかし、どうしたものか。暴れ回る巨体が繰り出す攻撃を凌ぎながら胴体まで辿り着くのは至難の業。
格さんは何かを思いついたように、八兵衛を呼んだ。
「おチビ! あんた、めちゃくちゃに走り回ってあいつの注意を引いてくんない?」
返事はない。辺りを見回すと、遥か遠くの物陰に隠れて震えているのが見えた。
「逃げ足、早!! お前ふざけんな!!」
格さんが苛立たしげに罵声を飛ばすのを、楽太郎が嘲る。
[[随分と仲がいいんだな。まあ、あんなチビ一人逃したところでなんの影響もない]]
わかりやすい挑発に歯噛みするが、決定打を叩き込む算段がつかない。
「ううん、少しだけでも動きを止められればいいんだけど……!」
光圀は悔しげに印籠を握る。
「あれ」
何か違和感を覚え、印籠を何度もにぎにぎする。力を込めて握り込めば、必殺ぱんちを打つためのナックルガードに変形するはずのそれは、平たい円筒形のままだった。その様子に、助さんが眉を顰めて問いかける。
「お嬢……ひょっとして」
「う、うん……力、使いすぎちゃったみたい。さっき、はちべえの上に落ちてきた岩を壊すのに、全力出しちゃった」
光圀は気まずそうに微笑んで、自分の頭を拳でこつんと叩いてみせた。
「おいいいい!!!」
助さんと格さんが、同時につっこんだ。
「どうするんですかお嬢……! あの巨人を、我々の武器だけで倒すのは不可能ですよ!」
「みっちゃん頼むよお! お願いだからペース配分考えよ? もう何回目だよこのやり取り! 行く街行く街、毎ッッ回同じこと言ってるよねえ!?」
「うわああん、怒んないでよお!」
そんな三人の応酬は、猛烈な風を感じたところで途切れた。
瞬時に身構える。
見ると、朱色の巨人が、その巨腕を目一杯まで振り上げたところだった。拳の先端が地下空洞の天井にふれ、穴が空いたのか、わずかに灯りが差し込むのが見える。
[[子虫ども。俺を無視してキャイキャイやってんじゃあねえ]]
問答無用。光圀達の反応を見ることさえせずに、振り上げた拳を叩きつけた。
はずだった。
朱色の巨人は、びたり、とその動きを止めていた。
[[なんだ! 急に身体が動からくらって……]]
楽太郎は取り乱すが、自分の呂律が回らなくなっていることを自覚した時、何かに気づいた。
「これは……まひゃか……」
朱色の巨人の胸から上あたり、巨大な地下空洞の天井付近に、もうもうと煙が立ち込めていた。白煙ではない。青みがかった薄紅の。たなびく様は、紫色の蛇のような。
不思議そうにその様を見つめていた光圀の視力は、頭上遥かにある人物を見つけた。長く艶めいた黒髪を靡かせ、真紅の瞳を爛々と光らせ、不敵に笑う一人の女性。
巨人の拳が天井に空けた穴。その淵に仁王立ち。背後には干し草のようなものが大量に積まれた荷台がある。煙はそこから発生しているようだった。
「あーっはっはっはっは! 楽太郎ぼっちゃん、お味はどうだい? これがあんたの望んでいた〈紫蛇香〉だよ!」
[[紅蛾……太夫!!!]]
「今燃やしてんのは、特濃の〈紫麻〉。本来は他の香り付けの葉っぱに細かく混ぜて、限界まで薄め使うもんさ。そうでもしないと、ひと嗅ぎで脳みそが参っちまうからね」
[[どこだ……その大量の乾燥〈紫麻〉、どこに隠していやがった!]]
問われて太夫はもう一度嗤う。
「ここの地下通路をいつも通ってたってのに、全然気づかなかったのかい。あんたは何度も見てたはずだよ。〈紫麻〉は日光に晒すと香りも薬効も飛んでっちまう、特殊な麻だ。日陰で、適度な気温を保ちつつ、おまけに乾燥している場所なんて、そうそうない。しかもこの〈紫麻〉は煙都にとっては神聖なものだ。保存一つするのにも、験を担ぎたいってのが人情じゃないか」
[[……地下通路の、注連縄……か……!]]
「あっはっは、流石に気づいたかい。でも、もう遅い!」
太夫は、きっ、と光圀を見た。距離は遥か遠く。厳密には表情さえ判然としない。しかし、光圀はその視線をまっすぐ受け取った。
今だ、やっちまえ。
そんな言葉を受け取った。
助さん、格さんの方に視線を飛ばすと、光圀は走り出した。
「お嬢! しかし、印籠がまだ!」
光圀はにっと笑う。
「大丈夫、なんとかなる!」
[[この……腐れ女があああ!!]]
まだ不安定な声色で、楽太郎が吠える。振り上げたままの巨腕の指を伸ばし、天井の穴の淵、太夫が立っているあたりの岩盤を弾き飛ばした。
「!!」
衝撃に煽られ、太夫と、干し草を積んだ荷台がふわりと舞い上がり、落ちる。掴まるところなど一つもない中空へ投げ出された。地面に激突すれば助かるはずもない。すなわち、放り出された瞬間に、即死が確定している。
その事実を。
「お姉さん!!」
光圀が理解した時、首筋あたりに電撃のような衝撃が走る。
助けなきゃ。苦しんでいる人を、人の命を。
自分の命を投げ打ってでも、救わなきゃ。
救いなさい。
「うわああああああっ!!」
光圀は足を止めない。それどころか、更に早く、力強くその脚は駆動する。
踏みしめた地面は一歩ごとに大きく砕ける。人の身を超えた脚力。
少しも速度を緩めぬように、全身に力を込める。手に持った印籠も、強く、強く握りしめる。その時。
「印籠が……!」
形を変えた。拳全体を覆うナックルガードの形状。
ではなく。
「でっかくなった!?」
脈動。
漆塗のただの道具であるはずの印籠が、心臓のように脈動した。二度、三度、拍を打つ。その度に、大きくなる。
それは拳を覆うだけにとどまらず、手首まで、肘まで、肩の辺りまでを覆う、さながら甲冑のような形状に〈進化〉していった。
「今! 助けまああああす!!」
光圀の叫びに応えるように、肘の辺りから伸びた装甲板の隙間から、青紫色の炎が爆発した。その反動で、光圀は土煙を上げながら高く飛び上がる。
「うおおおおおおおっ!!」
光圀の咆哮に、軽く気絶していた太夫が目を覚ます。
「 えっ、お嬢ちゃん!!?? 何その腕、飛んでる!?っていうか私、落ちてる!!」
悲鳴をあげる太夫に軌道を合わせて飛び、光圀は太夫の腰あたりをしっかりと抱えた。
「お姉さん、大丈夫ですか!」
「え、は、はいっ!」
「なら、このまま行きます!」
「えっ、ちょ、ちょっと待って!!!」
そのまま。
左腕に太夫を抱えたまま、光圀は甲冑に覆われた右拳に在らん限りの力を込めた。意志に応えるように、再び肘の辺りから炎が上がる。巨人の胸元、楽太郎がいる〈大煙石〉に向かって、まっすぐ、矢のような速さで一直線。
あまりにまっすぐ、真正面から突っ込んでくる少女に、楽太郎は胡乱な視線をむけ、ニタリと笑う。
[[マヌケが! 返り討ちにしてやる!!!]]
巨人は、飛来してくる光圀をまっすぐ迎え打つ軌道で、巨大な拳を突き出した。
[[死にやがれえええっ!!]]
抱えられたままの太夫は半泣きで絶叫する。
「無理無理無理無理! 死んじゃう、死んじゃうってーー!!!」
「大丈夫です、私は、絶対に負けません!」
「あんたの心配じゃなあああい!!」
光圀は身体の中に満ちる力を、
「わたしの正義を拳に乗せて……叩いて直そう、この世界!」
拳に集め解き放ち、叫んだ。
「必殺……印籠!! ぱあああああああああああんち!!!!!」
「ちょっと待ってってばああああああああ!!!!!」
拳と拳がぶつかる。
かたや、巨躯とはいえ人間の少女。対するは、人の域を超えた、城の如き巨体。
どちらが強いか、などと一顧だにする必要がないほどのサイズ比。
しかし。
「うおおおおおおおおっ!!」
光圀の拳が、巨人の拳を叩き割る。そのままの勢いで手首を砕き、肘を砕き、片腕を丸ごと粉砕した。
[[バカな!!]]
光圀は止まらない。拳が一直線、楽太郎に迫る。
[[ちくしょう、こんなところで……ちくしょおおおおっ!!]]
拳が楽太郎の胸に届く。上半身は生身に見えたが、もはや完全に同化していたのか、石のようにひび割れ、
「ちく、しょう……」
砕け散った。そこには、紫色の光を放つ〈大煙石〉だけが残った。
石に突き刺さった拳に、光圀はわずかに力を込める。
「これで、この街の〈要石〉も浄化できます」
「浄化……?」
「この石が溜め込んだ人々の意思を取り除いて、元の綺麗な状態に戻すんです。この……印籠で!」
そう光圀が言うと、石の光が強くなる。が、その光は煙のように石の表面から解き放たれ、見るまに光圀の拳に吸い込まれていく。次第に、〈大煙石〉の光は禍々しい紫色から、静謐な青白い色に変わっていった。
「綺麗……」
「この石は、本来、この土地の霊気の流れを滞りなく流すためのものだったんです。でも、人の願いを溜め込みすぎて、土地全体の霊気の流れを止めてしまっていた。……って、助さんが言ってました。だから、これで、元通り」
「よくわかんないけど、確かにここんとこ煙草の育ちもよくなかったし、街の奴らもギスギスして、なんか嫌な感じだったっけ。それも関係あったってことか」
「わかんないです」
「即答すんなよ……って、わあっ!?」
足元がぐらぐらと揺れ始めた。
主人たる楽太郎を失い、石が色を変えたところで、どうやら朱色の巨人の身体が崩れ始めたようだった。その巨躯を構成していた大小様々無数の鳥居同士を繋ぎ止めていた力が失われ、ボロボロと落下し始めていた。
手近なところにあった鳥居になんとか掴まると、太夫は真顔になりつつ問いかけた。
「えーと……お嬢ちゃん?」
「光圀とお呼びください!」
「光圀ちゃん。これ、どうやって脱出するの?」
「あっ」
「あっ、じゃないのよ。ねえ、このままだと私たちも落っこちちゃうけど。この高さだと、どう考えても死んじゃうけど」
「多分、なんとかなります!」
「わかった。あんた、結構アホなんだ」
「違います!」
「違わねえよ! どうすんだよこれ!」
「大丈夫です……ほら!」
光圀がきらきらとした視線を投げる先を、太夫は訝しげに見遣った。
そこには。
「お嬢ーーーーーっ!!」
「みっちゃーーーん!!」
崩れ続ける鳥居を足場に、凄まじい速さで駆け寄ってくる、助さんと格さんの姿があった。
「おら、おチビ! あんたもサボってんじゃない!」
「嫌だあっ! 足を滑らせたら落ちる! 死ぬーっ!」
その後方には、泣き出しそうな顔で走る八兵衛の姿も見えた。
「お嬢! 紅蛾太夫は私と八兵衛が受け止めます! 早く! もうそこは持ちません!」
「みっちゃんはあたしの胸に飛び込んでおいで!」
紅蛾太夫は驚いて光圀の顔を見る。光圀はきらきらとした笑顔で力強く頷くと、
「お姉さん、お気をつけて!」
太夫の腰あたりを抱えて持ち上げ、放り投げた。
「あーーーーーーっ!!」
助さんは走りながら太夫の落下地点を予測し、自らも飛び上がる。
「失礼……!」
そう呟くと、空中で太夫の上体をふわりと捕まえた。八兵衛はその様子を右往左往しながら見ていたが、落ちてくる二人の着地地点で待ち構えキャッチしようと試みた。が、華奢な女性二人とはいえ人間二人を抱えるのは自分には不可能だと瞬時に判断して、やめた。
軽やかに着地した助さんは何か言いたげに八兵衛を片目で睨みつけていた。
その様子を見て安堵の息をついた光圀は、少しだけ屈伸したのち、
「よし、世直し、完了!」
口中に小さく呟くと、飛び降りた。
※※※
「おいふぃいれふ。もうひとふぁらふらふぁい」
「お嬢、口に物を入れたまましゃべってはいけませんよ。〈美味しいです、もう一皿ください〉と、もう一度ちゃんとお願いしてください。ああほら、口の周りにあんこが」
「口ぐらい自分で拭かせなよ、仏頂面。っていうか、よくわかったな、今ので」
崩壊する元・楽太郎の屋敷、通称〈煙城〉から命からがら脱出した光圀達がまずしたことは、埃まみれになった服を着替えるでもなく、身を清めるでもなく、食事だった。しかも、
「じ、尋常じゃねえ……もう100皿目だぞ……太夫さま、ほんとにこの嬢ちゃん達が街を救ってくれたんで……?」
団子屋の主人が涙目になるほどの量を、着席してから延々と食べ続けている。
助さんは少食、格さんも女人にしては健啖な方だが人並みの範囲内。問題は、光圀だった。
「そう。この光圀ちゃんご一行がさ、私を助け出してくれた上に、楽太郎坊ちゃんの悪しき野望まで打ち砕いてくれたってわけよ。正直、酷い目にあったけどね。っていうか、今は団子屋が酷い目に遭いかけているけれど」
光圀の座る傍には、団子を食い終えた皿が高い塔を築いている。上に重ねて置き続け、どうしてこれが倒れずにいるのかが不思議なくらいの高さ。
遥か彼方にあって、尚もこの国どこにいても見えるほどに高い、〈歪み城〉のように。
「太夫さまの頼みとあっちゃあ、仕方ねえ。しかし、いよいよ仕入れた粉が足りなくなっちまう。こりゃ、明日は仕入れのために店じまいだな」
「悪いね。この子らの分の代金は、私が払っとくから」
店主は恭しく頭を下げると、追加の団子を作りに厨房に戻って行った。口いっぱいに頬張った団子を光圀が飲みこむタイミングを見計らって、太夫は話を切り出した。
「その、ありがとうよ。おかげで命拾いした」
「いえいえ。当然のことをしたまでです。世直しするのが、わたしの務めですから!」
きらきらとした笑顔で得意げに胸をそらす光圀を、紅蛾太夫は少しだけ呆れたような笑顔で見つめた。
「世直し、ねえ。あんたたちの世直しって、いっつもこんなに街をめちゃくちゃにしてんのかい……?」
「そ、それは……」
笑顔が引き攣る光圀に代わって、その問いには助さんが湯呑みを片手に淡々と答えた。
「正直、ここまで大規模の要石の暴走は初めてでした。構造物を操り、意のままに動く巨大な身体を作り上げるようなものは、特に」
「要石……さっき光圀ちゃん、〈この街の要石も〉とか言ってたけど、そんなのがこの国にはまだたくさんあるってことかい?」
「はい。人が集まり、街を築くような場所には、必ずあります。そして、今この世に存在する要石はほとんどが、この街の〈大煙石〉のように人の願いを溜め込み、汚れてしまっている。我々は、それを浄化する……世直しのために旅をしているのです。ですが、小さな要石は浄化しても、すぐにまた汚れてしまう。だから、特に強力な要石……〈大要石〉を全て浄化することが、我々の目的なのです」
助さんの説明を、光圀はうんうんと頷きながら聞いていた。格さんはその頷き方に違和感を覚え、光圀の脇腹を肘で軽く突いた。
「みっちゃん、みっちゃん。わかってる? 説明」
「完全に理解しました」
「わかってないやつの言い方」
そのやりとりに笑みを引き攣らせながら、紅蛾太夫は話を整理してみる。
「確かに、穢土のお城が消えてなくなってから、どこもかしこも大混乱だ。それだけ、人々が切実に何かを願ってれば、石も願いを溜め込む、ってわけか」
「その通りです。そして、残る〈大要石〉は、おそらくあと二つ」
「! もう直ぐじゃないか。その二つを浄化したら、この世は良くなるって?」
「……それは」
助さんは一瞬表情を曇らせる。が、その空気を吹き飛ばすかのように、ぱあん、と手を打つ音が響く。
「なります! 絶対にこの世は、よくなります。だからお姉さんは、安心して待っていてください!」
具体的なことは何一つ出てこない。
太夫は呆れて笑ったが、このきらきらした笑顔とまっすぐな瞳に、少しだけ説得力を感じていたのも事実であった。
「ところで、あんたらどこの生まれだい? 妙なナリだし、なんか全員でかいし」
「微妙に失礼じゃない? あたしは山ん中の流浪の民の出さ。山にはなんでもあるけど、何にもなくって、飽きて出てきちゃった」
「私は、穢土の近くの生まれです。何年か前のあの件で、故郷は消えてしまいましたが」
サラッと答える格さんと助さんに、いや、温度差よ、と太夫は突っ込みたくなったが堪えた。
「光圀ちゃんは?」
「分かりません!」
良い笑顔でとんでもないことを言う。
「わたし、3年前に助さんに拾ってもらうより前のこと、何も覚えてないんです。いつかは何か思い出せると良いんですけど」
あっさりと明かされた衝撃の事実に太夫は絶句したが、努めて明るい声色を絞り出す。
「そ、そうかい。とりあえず、私はこの街を立て直すとするよ。坊ちゃんにベッタリだった大店からは嫌われてるけど、味方も大勢いる。何せ、ただでさえ仕事ができるのに加えて、この美貌だ。私の言うことなら何でも聞く男どもを働かせて、あっという間に元の煙都に戻してみせる……いや、もっと豊かな街にしてみせるよ。だから、旅が終わったら、また寄っておくれ。たっぷりもてなしてやる」
光圀達は口元に残ったあんこを指で拭い、笑顔で頷くと立ち上がった。
「じゃあ、次はお蕎麦屋さんをお願いします!」
太夫は、次に光圀一行が来たときのもてなし方を再考することに決めた。
※※※
光圀一行を見送った後、紅蛾太夫の右肩あたりに、青い蝶が停まった。
いや、蝶のような形に見えたが、それは正確には蝶ではない。いや、生物ですら、物体ですらなかった。
肩のあたりの空間が歪み、屈折した光が縁取る形状が、偶然にも蝶の羽のように見えただけであった。
太夫はそれに驚くこともなく、目を閉じていた。何かを聴いているように。
やがて目を開くと、口元に微笑みを湛えながら呟いた。
「ええ。確かに、〈光圀〉と名乗る女とその一行が来ました。あなたの言うとおり。……もうすぐ始まるんですね、あなたの〈世直し〉が」
蝶が空間に溶けて消える。
太夫は嫌な汗をかくのを感じていた。
話している相手が恐ろしかったのもあるが、去り際に見えた、光圀の姿。
風に煽られ、豊かな銀髪が翻った際に、一瞬だけ見えた首筋。
そこには、背骨に沿って何かを抉ったような酷く大きな傷跡があった。
この国ではほとんど見られないような巨躯に、その肉体と不釣り合いな程にあどけない表情や言動。
いや、不釣り合いというよりも、
「不自然……だよね」
太夫は口中に呟く。
世話になったし、悪い子ではない。
しかし、また会いたいという気持ちと同じ程度に、もう会いたくないと感じている。
不気味だったから。
「何者なんだい、あの子は」
首筋の酷い傷を思い出し、背中が冷えるのを感じた。
これは、光圀の首の傷に纏わる物語である。
傷の奥に埋められた秘密と悲劇によって始まり、そして終わる物語。
秘められたものの正体さえ知らずに、光圀は世直しの旅を続ける。